素顔で笑っていたい.28








 翌、日曜日。
 智史は1時5分前に椋平家を訪れた。
 出迎えてくれたあきのに伴われ、リビングへと案内される。
 緊張した面持ちで、智史はゆっくりと、倫子と総一郎に向かって会釈した。
「こんにちは。先日は、失礼しました」
「・・・うむ。大麻、智史くん、だったな」
「はい。あきのさんとは、同じクラスです。去年も、今年も」
「大麻くん、あの時はありがとう、助けてくれて」
 倫子が横からそっと口を挟む。その穏やかな笑みに、智史は頷いた。
「いえ。・・・良かったです、落ち着かれたようで」
「ありがとう。・・・少し待って下さる? お茶の用意をしますわ」
「いや、倫子、お前は座っていなさい。・・・あきの、出来るだろう? お前なら」
 総一郎の言葉に、あきのは一瞬身構えて、ゆっくりと頷いた。
「・・・・・ええ」
 智史だけをここに残してキッチンに行くのは不安だったが、倫子に支度をさせるのは確かに申し訳なかったし、あきのはそれに従うことにする。
 そっと隣の智史を見上げると、彼も丁度あきのの方を見てくれた。
 厳しい表情ではあるが、目で頷いてくれた智史に、あきのも微かな頷きを返してキッチンへと向かう。
 なるべく早くお茶を入れて、リビングに戻ろう。そう思いながら。
 一方のリビングでは、智史が真っすぐに総一郎を見つめていた。
「・・・とりあえず、掛けなさい」
「はい。・・・失礼します」
 智史は総一郎の正面のソファに腰を下ろした。
 さすがに緊張する。握った掌には早くも汗が滲んできていた。
「その、口元の傷はどうしたのかね? どこかでぶつかりでもしたのか」
 智史はごくり、と息を飲んだ。
 この傷の訳を知らない総一郎と倫子に、嘘をついて「ぶつけた」のだと言った方が簡単だろうとは思ったが、智史はやはり、嘘をつく気にはなれなかった。
「・・・いえ、殴られた跡です」
「・・・何? 殴られた、だと?」
「・・・はい」
 あからさまに非難する調子の声で問われたが、智史は喧嘩で出来た傷だということを隠すことはしない。ただ、理由は黙っていようと思った。徹との諍いをわざわざ総一郎たちに告げる必要はないと判断したからだ。
 あきのが男に辱められかけたなどということを総一郎たちに知らせることはないと思った。
 しかし、それでは、総一郎からの非難は避けられないことになるだろうが。
「・・・殴られた、というのは、君が誰かと喧嘩をした、ということかね」
 詰問されて、智史は僅かに迷うが、それでも、総一郎から目を逸らすことはせず、頷いた。
「・・・はい。そういうことに、なると思います」
「君は普段から誰かと殴り合いの喧嘩をするような男なのか」
「・・・否定は、しません。ここ1年近くは殆どありませんでしたが、それ以前は、確かにありましたので」
 あきのとつきあうようになってからは、喧嘩らしい喧嘩はしていなかったが、中学から高1までは確かによく喧嘩をしていた。目つきが鋭いという理由で、俗にいう不良たちからよく喧嘩を売られていたのだ。そして、智史はずっと負けることがなかったから、腕に覚えのある者たちが勝負を挑んでくることもあった。
 ただ、智史は弱者を痛めつけるようなことだけは絶対にしなかった。喧嘩になるのは、相手の方がいいがかりをつけてきた、とか、万引きや恐喝、集団苛めなどの現場を目撃してしまって止めに入った、などということばかり。智史自身がムシャクシャして喧嘩を売る、というのはごくごく稀なことだった。
 しかし、何をどう言い繕うとも、喧嘩は喧嘩だ。その事実は変わらない。
「・・・殴り合いの喧嘩をするような男と、大切な娘であるあきのとの交際が認められるとでも思っているのかね? 君は」
 総一郎が厳しい瞳で智史を見据えてくる。
 声は決して大きいとか、怒鳴るというわけではないのに、総一郎の口調には、威厳があった。さすがに、銀行という大きな組織のトップに立っているだけのことはある。
 智史は総一郎の迫力に竦みそうになる己を叱咤して、なんとか、目を逸らしたくなる気持ちを堪えた。
「・・・いえ。お怒りは、尤もだと思います。ただ、俺は・・・あきのさんを、大事にしたいと思っています。それだけは、本当です」
 微かに目元を赤くしながらも、はっきりと言い切った智史に、総一郎はまだ胡散臭そうな瞳を向ける。
 けれど、倫子は少し心配そうに智史を見つめていた。
 口元の傷が喧嘩によるものというのは本当だろう。しかし、倫子には、智史が理由もなく喧嘩をする人間だとは思えなかった。
 あきのを大切に思ってくれているという彼の気持ちは真実だろうと思う。それは、貧血を起こして倒れそうになった、その時には見ず知らずだった自分を助けてくれたことからも窺える。
 心根はやさしい、誠実な人間だからこそ、自分を助けてくれ、また、こうしてあきのとのつき合いを認めてもらおうと、総一郎に会ってくれているのだと思うから、智史の傷にもきっと何か理由があるのだろうという気がした。
「・・・総一郎さん、大麻くんが無意味に喧嘩をするようには、私には見えないのだけど。どうして殴られるようなことになったのか、聞いてもいいかしら」
「倫子・・・!」
 総一郎が僅かに窘めるような口調で名を呼ぶが、倫子は臆することなく、智史を静かに見つめた。
「あなたが私とお腹の子を助けてくれたのは事実だし、あきのちゃんがあなたをとても信頼しているということも伝わってくる。それだけに、何の理由もなく、あなたが殴り合いの喧嘩をするような人だとは思えないの。わけがあるのなら、話してみてくれない?」
 智史はくっ、と息を呑んだ。両膝の上に置いている拳を、ぎゅっと握り締める。
 倫子が理解してくれようとしているのは正直、嬉しかったが、だからといって、あきののことをそのまま口にするのはやはり、躊躇われた。
「・・・大麻くん?」
 沈黙する智史に、倫子は怪訝な表情を浮かべる。
 総一郎も、依然厳しい表情で智史を睨んでいた。
「・・・理由なく、殴り合いの喧嘩をしたの? 大麻くん」
 倫子の再度の問いに、答えたのはあきのだった。
「違うわ、倫子さん。智史は私を庇って殴られたのよ」
 香り立つ紅茶と、お茶うけの甘さ控えめのチーズケーキをトレイに乗せて、あきのはリビングに戻ってきた。
「あきの、どういうことだ」
 総一郎があきのに問いただす。
 あきのはとりあえず、全員分のケーキと紅茶を配ってから、智史の隣に座った。
「智史は私を助けてくれたの。私を陵辱しようとした、男から・・・」
「・・・まさか」
 あきのの口から出た意外な事実に、総一郎も倫子も目を剥いた。
 智史だけは、視線を下げて眉根を寄せる。
 あきのにそんな屈辱を語らせてしまったことが辛い。それに、実際のところ、自分は彼女を助けられてはいないのだ。
 助けてくれたのは、安志たち。自分はただ、殴られていただけだった。
 その事実が、智史の心を苛む。
「俺は何も・・・出来てない。ただ、殴られてただけだ」
 ぼそりと言い放った智史の横顔を見つめ、あきのはゆっくりと首を振った。
「ううん・・・智史は間違いなく、私を助けてくれたわ。実際にあの人たちを退けてくれたのはおじさまたちだけど・・・智史は私の心を、いつも護ってくれる。それに、あれは、明らかにあの人の『逆恨み』でしょう? 巻き込んだのは、むしろ私よ・・・ごめんなさい」
「あきの・・・」
 智史が顔を上げてあきのを見つめる。
 僅かに哀しそうではあったが、あきのには、過日のような自分を責める様子はなかった。
「そう、だな・・・確かに『逆恨み』だな、あれは」
 自分自身があきのにそう告げたことを思い出し、智史は僅かに苦笑した。
「逆恨み、とは、どういうことだ、あきの。一体、誰がそんなことをお前に・・・」
 総一郎の問いかけに、あきのはきっぱりと言い放った。
「あの人よ。仁科 徹」
「何、だと?」
 総一郎が信じられない、という表情になっているのを、あきのは冷めた瞳で見つめていた。
  







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