素顔で笑っていたい.27








 倫子の経過は良く、胎児はしっかりと子宮内に定着しているようで、出血も収まったということだった。
 火曜日には退院して自宅に戻ることが出来、とりあえず半月は仕事も休むことに決まった。
 状態を見ながら、必要なら退職も視野に入れているという倫子に、あきのは少しだけ心配そうに問うてみる。
「倫子さん・・・仕事、辞めることになったら、後悔、しない?」
「あきのちゃん・・・」
 倫子はやさしく微笑んだ。
「ありがとう、心配してくれて。でもね、今は、そうすることが1番良いのなら、そうしたいの。仕事はまた出来るけど、子供を守るのは今しか出来ないことだから。でも、続けられるところまでは続けるつもりよ? あきのちゃんにはまた、迷惑かけちゃうかもしれないけど」
 明るく微笑う倫子に、あきのも少しホッとして頷いた。
「迷惑なんてそんな・・・きっと大丈夫よ、倫子さん。ありがとう、『産む』って言ってくれて。私、きょうだいが欲しかったから、本当に嬉しい」
「あきのちゃん・・・」
 暫くは矢野さんの通いの曜日を増やしてもらい、家事の対応をすることになっていた。とはいえ、急なことで、従来の曜日以外は、午前中だけしか来てもらえない。夕食は、矢野さんが作っていってくれたものを、あきのが温めたりして支度し、片づけもこなした。
「・・・あきのちゃん、その・・・私がこんな風にあなたとの時間を過ごせるのは嬉しいけど、彼は、いいの? 受験生だけど、やっはり、2人の時間も取りたいんじゃない?」
 食後のお茶を飲みながら、倫子が気遣う。
「あ、うん、大丈夫。同じクラスだから学校で毎日会えるし、智史も倫子さんのこと、気遣ってくれてるもの。・・・ただ、約束だから、土曜日は出かけることになるけど、大丈夫かな?」
 あきのは僅かに首を傾げて倫子を見つめた。
「確か、勉強会をするって話だったわよね。彼と、彼の妹さんと、だったかな? あきのちゃん」
「うん、そうなの。私も、自分の復習になるし、受験勉強しないといけないのは本当だから、いい?」
 倫子はニッコリと微笑む。
「ええ、勿論よ。大麻くんはいい青年みたいだもの。あきのちゃんの彼がああいう子でよかったわ」
「・・・ありがとう、倫子さん」
 偶然とはいえ、倒れかけた倫子を助けてくれたのが智史で、本当に良かったと思う。
「・・・あのね、日曜日なんだけど」
「今度の?」
「うん。お父さんが、その日なら時間取れるっていうから、智史・・・来てくれることになってるの、この家に」
「・・・そう。総一郎さんと、もう一度、きちんと話してくれるつもりなのね、彼は」
「うん」
 頷くあきのを、倫子はやさしい眼差しで見つめた。
 今時、交際相手の親にきちんと挨拶をしようと考えるような青年がどこにいるだろうか。結婚を前提にしているとかならまだしも、高校生同士では普通、そんなことまで考えることはないだろうし、相手の親がどう思うか、なんて気にもしないことの方が多いのではないだろうか。
 けれど、智史は、言葉遣いは少し乱暴なところもあるようだが、きちんと総一郎と倫子に挨拶をして、交際を認めてもらおうとしている。加えて、倒れそうになった自分を見捨てず、病院まで連れて行ってくれた優しさを持ち合わせた青年だということが、倫子には嬉しかった。義理とはいえ、大切な娘のあきのの彼氏が、好感の持てる人間で良かったと思う。
「総一郎さんも、きっと解ってくれるわよ、大麻くんなら」
「・・・だと、いいけど」
 和解をしたとはいえ、総一郎が智史にどういう感情を向けるかは判らない。あきのは少し曖昧に微笑んでお茶を飲んだ。





 智史の口元の痣は土曜日になっても消えなかった。
 だいぶ小さくはなったのだが、やはり、まだ残ってしまった。
「・・・まあ、しょうがねぇな。1週間じゃ、こんなもんだろ」
 勉強を教えにきてくれたあきのを家まで送り届ける前に、智史は絆創膏で隠していた殴られた跡を鏡で見てみた。
「・・・やっぱり、酷い傷だったのね・・・ごめんね、智史」
 あきのが眉を顰めながら、その傷に指先で触れる。黒っぽくなっているそれは、小さくてもやはり痛々しくて、見ているだけでも胸が痛む。
 智史がその手をそっと掴んだ。
「・・・気にするな、あきの。これはお前のせいじゃねえ。それに、もう済んだことだ。これであいつと縁が切れるんなら安いもんだぜ」
「智史・・・」
 楽天的ともいえる発言に、どれだけの思いやりが込められていることか。智史の懐の深さを感じさせてくれる言葉に、あきのは涙が零れそうになる。
「・・・ありがとう、本当に。智史を傷つけてしまったことは申し訳ないと思ってるけど、あの人との関係が切れたのは私も嬉しいの。・・・また、明日は、智史を困らせちゃうかもしれないけど・・・」
 あきのは微かに溜息をつく。
 今朝方、仕事に行く前の総一郎に会って言われたことがある。
「あきの、明日は午後の1時に来てもらいなさい」
「え? 1時に?」
「そうだ。午前中は倫子もゆっくりしたいだろうし、私もおそらく雑務がある。時間は厳守だ。遅れたら会わんと伝えておきなさい」
「なっ、ちょっと、お父さん! それってあまりにも勝手なんじゃないの?」
「問答無用だ」
 総一郎はあきのをじろりと睨んで仕事に出かけてしまった。とても、異議を唱えられるような雰囲気ではなかったのだ。
 明日の総一郎の態度があの通りだとしたら、智史には気まずい思いをさせてしまいそうで、あきのは憂鬱になりそうだった。
「・・・明日は1時、時間厳守、だったな」
 会って一番に聞きだした明日の予定を復唱し、智史はあきのに頷いてみせる。
「・・・あの親父さんにどこまで俺がちゃんと話せるかは判んねーけど、とりあえず、俺なりに頑張るから、お前はあれこれ考えんなよ。今から気を揉んでもどうしようもねえだろ」
「・・・確かに、そう、なんだけど・・・」
「・・・親父さんはお前が大事なんだよ。うちの親父とはかなりタイプは違うけど、子供が大事だってのは同じだと思うぜ? そんな空気感じたしな、この前会った時」
「智史・・・ホントに?」
「ああ。倫子さんにだってそうだろ? なんつーか、素直に愛情を表現するのが苦手って感じじゃねーの? お前の親父さんって」
「そう、かな・・・そうかも」
 言葉にして思いを伝えるということは確かに苦手そうな気がする。美月のことを話した時に、あきの自身も少し、そんな印象を受けた。
 そう思えば、冷たい印象でしかなかった総一郎が、どんどん人間らしい、温かみのある人に思えてくるから不思議だ。
「・・・まさか、お父さんのことをこんな風に感じる日が来るなんてね・・・ホント、智史って、凄いよね」
「は? 俺は何もしてねーぞ?」
 ぎゅっと眉根を寄せる智史に、あきのはふふ、と笑った。
「智史自身に自覚はなくても、私にとっては・・・本当に凄い存在よ。何度も言うけど、あなたと知り合えて・・・こんな風に想いを重ねられて、本当に良かったと思う」
「あきの・・・」
 智史は軽く肩を竦めた。
 あきのの賛辞はあまりにもストレートで、褒められることに慣れない智史にはくすぐったくて仕方がない。
 ましてや、あきのは女の子。異性からは恐がられるのが常だったから、好意を向けてもらえるだけでも凄いことなのに、想った相手に想いを返してもらって、心を重ね、同じ瞬間(とき)を重ねて過ごし、更に彼女に褒められ、感謝される日が来ようとは、1年前には考えもしていなかった。
 智史はあきのの頬にそっと掌を当てる。
 口元に笑みを浮かべ、真摯に見つめ返してくる、やさしい恋人(あきの)
「・・・ま、明日、とにかく遅れないように行くから。待っててくれ」
「・・・うん」
 頬に当てられた手に、そっと自分の手を重ねて、あきのは微笑みのまま、頷いた。
   







TOP       BACK     NEXT