素顔で笑っていたい.26








 薄明るい室内に、あきのの白い肌が浮かび上がる。
 お世辞でも何でもなく、智史は素直にその肌を綺麗だと思った。
 あきののコンプレックスの1つである胸元も、隠されてはいるが、その健康的な白さが窺える。
「綺、麗・・・? 私、が・・・?」
 あきのは目を見開いて智史を見つめてくる。
 智史の瞳は熱を含んだ真摯なままで、そこには嘘はない。
「ああ・・・綺麗だよ、あきのは」
 智史は手を伸ばして、あきのの頬に触れ、ゆっくりと首から腕へと滑らせていく。
 あきのは緊張しながらも、嫌悪感ではなく、むしろどこか心地よさを感じている自身に、僅かに戸惑いながらそれを受け止めていた。
 智史の大きな掌が、両方の腕の下からあきのの胸元を掬い上げるように、包むように触れて。
 あきのはぴくっ、と身体を震わせた。
 智史の手はやさしく、壊れ物に触れるかのようで。
 暫くして、その手が離れてしまうと、あきのは逆になんとなく寂しいような気さえした。
「・・・まだ、忘れられねぇか? あいつの痕跡」
 智史の静かな問いかけに、あきのはゆっくりと首を振った。
「もう、大丈夫・・・智史が、消してくれたから」
「・・・そうか」
 智史は安堵したような息をついて、あきのに服を直すように勧め、部屋を出て行く。
「・・・じき、みんな帰ってくるだろうからな。支度が済んだら、出てこいよ」
 足音が遠ざかっていくのを聞きながら、あきのは服を着た。
 初めて、智史にこんな風に触れられて、恥ずかしいのに、どこか心地よくて、もっと触れていて欲しかったなんて。こんな風に感じるなんて、思いもしなかった。
 好きな人との行為は特別なのだと、話に聞いたことはあったが、嘘ではないのかもしれない。
 男女間の深い関係について、嫌悪感しかなかったあきのにとって、これは希望だった。
 本当にいつか、智史となら、自然にそういう関係になれるかもしれない。
 何より、智史はあきのの気持ちを大切にしてくれる。それはとても重要なことだ。
 あきのは智史の私室を出て、リビングへと戻る。すると、智史が紅茶を入れてくれているところだった。
「・・・智史」
「悪いな、俺だといつも手抜きのやつで」
 そう言いながら差し出されたマグカップからは、ほのかに甘い香りが漂ってくる。
「これは・・・? 香りが桃っぽい・・・?」
「・・・ああ、なんか、よく判んねーけど、これしか残ってなかったんだよ。・・・ほら」
 智史が見せてくれたパッケージには、確かにピーチティーと書かれていた。
「香穂の奴が気に入って飲んでたな、確か。志穂はあんまり好きじゃないとか言ってたけど」
「へえ・・・そうなのね」
 あきのは差し出されたそれをひと口、飲んでみる。
 ふわりと桃の香りが広がるが、普通の紅茶と大差ないように思った。
「・・・なんか、匂いが紅茶じゃねえな・・・」
 智史はそれを飲んでみて眉を寄せている。
「そう?・・・まあ、好きかと言われたら違うかもだけど、それなりに飲めると私は思うけど」
「・・・好き嫌い分かれそうな匂いだよな、これは」
「あ、うん。それには賛成」
 普段となんら変わらない会話に、智史は安堵した。
 あきのは落ち着いたようだし、自分の中の危うい熱も、こうしていることで落ち着いてきた。
 もう少し、あきのに触れてしまっていたら、己をきちんと抑えられていたかどうか。
 腹部は痛むし、頬も痛い。それでも、あきのの素肌の白さや滑らかさ、美しさは、智史の中の欲望を確実に目覚めさせようとしていたし、制御不能にしかけていた。
 欲望だけであきのを抱いてしまうようなことになったら、それはきっと、彼女だけでなく、己をも傷つけていたことだろう。
 そういう意味で、知香がおおよその帰宅時間を仄めかす言葉を残していってくれたのが救いになった。
 紅茶を半分ほど飲んだ頃、香穂と志穂の賑やかな声と共に、親子4人が帰宅した。
「ただいま〜」
「お帰り」
「お帰りなさい」
 ソファに座って、いつも通りの様子の智史と、微笑んで迎えてくれたあきのを見て、志穂と香穂、それに安志と知香も安堵していた。
「あきのさん、美味しいケーキ買ってきたから、みんなで食べよう」
「美味しい紅茶も買ってきたのよ。お母さんに淹れてもらうね」
 明るい香穂と志穂の笑顔に、あきのも笑みで頷く。
「ありがとう。心配かけてごめんね、香穂ちゃん、志穂ちゃん」
「ううん、そんなのいいよ。あきのさんがそうやって笑ってくれてるから。ね? 香穂」
「うん。・・・あきのさん、来週も、来てくれるよね? うちに」
「・・・うん、勿論。約束だものね、英語教えるって。今日は・・・ごめんなさい、こんなことになっちゃって」
 申し訳なさそうに目を伏せたあきのに、香穂は慌てて言い募る。
「あっ、いいの! 今日は、ほら、たまたま、っていうか、あの、お母さんも大変なんだし、それに、えっと・・・私も志穂ちゃんも、あきのさんがこれでもううちには来てくれなくなったらどうしようって、思ってるから、だから・・・」
「香穂ちゃん・・・」
 安志と知香がどこまでこの双子に自分の事情を話したのかは判らないが、それでも、2人が懸命に自分を気遣ってくれていることを感じて、あきのは素直に嬉しいと思った。
「・・・ありがとう。私ね、香穂ちゃんと志穂ちゃんが大好きよ」
「私も! あきのさん、大好き」
 香穂が無邪気にあきのの手を握ってくる。志穂も微笑んで頷いた。
「私もあきのさんが大好き。お兄ちゃんの彼女があきのさんで良かったって思ってるの」
「志穂ちゃん・・・」
 こんな風に純粋に慕われて嬉しくない筈がない。あきのの胸が熱くなる。
 本当に、智史と、この家の人たちは温かい。
「・・・さあ、お茶が入ったわよ。あきのさん、美味しいダージリンを買ってきたから、是非一緒に飲んでみてちょうだい」
 知香が支度してくれた紅茶の香りが心地よい。
 あきのは微笑んで頷き、智史と共に席に着いた。




「智史・・・ありがとう」
 夕方。
 あきのは倫子が入院している病院まで、智史に送ってもらった。
「いや・・・それより、大丈夫だな?」
「うん。・・・智史の方がよっぽど重症よ・・・無理、しないでね?」
 まだ腫れている右頬にそっと手を触れて、あきのは表情(かお)を曇らせる。
「・・・ああ。けど、心配すんな。俺はそんなにヤワじゃねえし、簡単に、とはいえ、医者にも診てもらったしな。お前こそ・・・倫子さんに、心配かけないように、って作り笑いするんだろうけど・・・無理、すんなよ?」
「・・・うん、大丈夫よ。智史と、志穂ちゃん、香穂ちゃん、そしておじさまとおばさまに助けてもらったから。作り笑いじゃなくて、ちゃんと笑えるよ? まあ、思い出しちゃったら、辛いかもだけど」
 自然な笑みで答えるあきのに、智史も微かな笑みを浮かべた。
 痛んだ頬が邪魔をしているが、これも日にちが経てば治るものだから今は仕方がない。
「そうか。・・・なら、気をつけてな。・・・親父さんと合流出来るなら、そうしてから帰れよ?」
「うん、そうする。・・・あ、そうだ」
 総一郎の話が出て、あきのは父から智史への伝言を思い出した。
「あのね、智史・・・父が、来週の日曜日なら、時間が取れるって・・・それで、その・・・要するに、智史に、もう一度、会いたいってことだと思うの。大、丈夫、かな・・・?」
 心配そうに問いかけてくるあきのに、智史は少し考える。
 総一郎に会うのは構わないが、あと1週間でこの傷がちゃんと治ってくれるのかが問題だ。
 こんな、明らかに喧嘩での傷だと判るものをつけたまま、総一郎に会う訳にはいかないだろう。それでなくても、智史への印象はあまり良くないようだったから。
「その・・・あきの、もしも、この傷が治らなかったら、それ・・・延期してもらえねーか」
「・・・その傷は・・・智史のせいじゃないんだから、気にしなくていいと思うよ・・・あの人の、せいなんだから」
 あきのが『自分のせい』ではなく、徹のせいだと示唆したことが、智史の気持ちを解す。
「・・・確かにな」
 智史は承諾の意を伝えて、あきのと病院の玄関前で別れ、家に帰った。










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