素顔で笑っていたい.22








「・・・判った。この話は、私の方から断りを入れておく。だが、あきの。それと、彼のことは別の話だ」
 総一郎が智史をすっと見据える。
 智史も、正面からその視線を受け止めた。
「それは・・・」
 あきのはちらりと智史を見て、少し不安そうに総一郎を見る。
「・・・とはいえ、じきに面会時間も終わる。入院手続きもしなければならん。やはり、今夜のところは彼にお引取り願おう。話は、後日また、改めて、だ。・・・確か、大麻君、だったな?」
「はい」
「・・・覚えておこう」
 総一郎の言葉に、智史は軽く頭を下げた。
「・・・大麻くん、ありがとう・・・色々、ごめんなさいね」
 倫子も智史に声をかけた。
「いえ。どうかお大事に」
 倫子にも僅かに頭を下げる。
 このまま妊娠が継続されて、あきのに弟か妹が出来たらきっと、彼女の寂しさも緩和されることだろう。幼い子供の笑顔というのは、大人を思わず笑顔にしてしまう、不思議な力を持っているから。
 そのことが、椋平家全体の雰囲気も良い方向に変えていくに違いない、と智史は思う。
 だから、倫子には身体を大事に してもらって、無事に出産の時を迎えてもらいたい。
 智史は総一郎と倫子に向かって、もう一度頭を下げた。
「では、俺はこれで失礼します」
「あ、途中まで送るわ、智史」
 あきのは総一郎に「すぐ戻るから」と告げて、智史と一緒に病室を出た。
「よかったのか? 出てきて」
 控えめな照明のため、少し薄暗い廊下を歩きながら智史は問いかけた。
「うん、いいの。倫子さんも少しはゆっくりあの人と話せた方がいいだろうし」
「まあ、そうか・・・」
 智史は頷く。新しい生命に対して、親である 夫婦でゆっくり話すことは確かに必要だろう。
「・・・だが、きょうだいが出来ることになって良かったな、あきの」
「うん。それは素直に嬉しいよ。それから・・・ありがとう、智史。父と、あんな風に話が出来るなんて、思ってなかったから」
「あきの・・・」
 智史は苦笑して足を止めた。
「・・・悪かったな。無理矢理お前に話させるみたいな形になっちまって」
「ううん・・・きっと、話せて良かったんだと思う。今まで、こんな機会はなかったもの。それに、話さないと、お互いの気持ちは判らないよね。話してて、私、 知らないうちに倫子さんにすら、壁を作ってたんだなあって判ったし、父にも、自分の気持ち、ぶつけられたし・・・ありがとう、智史」
「いや・・・俺は何もしてねぇよ。しかも、お前とのことは結局、認めてもらえないままだしな」
 はあ、と溜息をつく智史に、あきのはゆっくりと首を振った。
「ううん・・・父に会って、話してくれただけでも凄いよ。智史で・・・本当に良かった」
 あきのが自然な笑みを浮かべているのを見て、智史もふっと表情を和らげた。
「・・・いい方にいくといいな、親父さんとのことや、あいつのこ とも。倫子さんのこともあるし、明日は無理すんなよ。香穂の勉強のことはどうにでもなるから」
「あ、うん。倫子さんのところにはちゃんと顔は出すよ。でも、香穂ちゃんとのことも約束だから、守りたいの。ただ、お夕飯をってのは、無理になりそうだけど」
 あきのが残念そうに肩を落とすのを見て、智史は口元に笑みを刻んで彼女の頭をポンポン、と軽く叩いた。
「明日が駄目でもまた、機会はあるだろ。・・・そろそろ、戻ったほうがいいぜ。俺はこのまま帰るから」
「・・・智史・・・本当にありがとう。おばさまや香穂ち ゃんに、よろしくね」
「ああ」
 軽く手を上げて歩いていく智史の背中を暫く見つめてから、あきのは病室へと戻った。
 遠慮がちに扉をノックすると、総一郎の返事が聞こえたのでそっと開ける。
「あきの、帰るぞ」
「えっ? 入院の手続きは?」
「もう済ませた。じきに面会時間が終わる以上、ここにはいられんだろう」
「あ、うん・・・」
 ポケットの中の携帯電話で確認すると、あと10分程で9時になる。
「倫子さん、また明日、来るから・・・ゆっくり休んでね」
 あきのが微笑むと、倫子の方 も笑みを浮かべた。
「ありがとう、あきのちゃん。・・・でも、無理しなくていいのよ? 明日は土曜日なんだし、色々、予定もあるでしょう?」
「大丈夫。倫子さんの方が大事だもの。・・・じゃあ、おやすみなさい」
「・・・ええ。総一郎さん、あきのちゃんを」
「・・・ああ。倫子は心配しなくていい。・・・では、また来る」
 総一郎はあきのと共に病室を出た。そして、駐車場へと向かって歩き出す。
 あきのも、無言でそれについて行った。
 院内、そして車中でも父娘は無言で、会話はなかった。お互いに何をどう話 せばいいのか、図りかねていた。
 家に着き、中に入ると、ようやくあきのは言葉を発した。
「倫子さん、何か言ってた? 赤ちゃん、産むことに対して」
「・・・いや。多少、不安はあるようだが」
 総一郎はあきのを探るような目を向ける。
 あきのはなんとなく気まずくて、すっと視線を逸らした。
「・・・じゃあ、私は2階に行くから」
 階段の方へと移動しかけたあきのを、総一郎は呼び止める。
「あきの」
「・・・何?」
 あきのは総一郎の方を見ないまま、足だけを止めた。
「来週の日曜なら、 時間が取れる。・・・彼に、伝えておいてくれ」
 あきのは僅かに瞠目して総一郎を見つめた。
 しかし、今度は総一郎の方があきのから視線を外している。だが、父が智史と向かい合おうとしてくれていることに微かな安堵感が湧いてくる。
「・・・判った。伝えるわ」
「うむ」
 あきのはふと、今なら聞けるかもしれないと思いつき、総一郎に尋ねた。
「・・・ねえ、倫子さんに赤ちゃんが出来て・・・嬉しい?」
 総一郎は僅かに眉根を寄せた。
「・・・嬉しくない、と言えば、嘘になるな。お前は、どうなんだ?」
「嬉しいに決まってるわ。ホントはずっときょうだいが欲しかったんだもの」
「・・・そうか」
 総一郎の眉根の皺が少し緩んだのを見て、あきのは更にもう1つのことを尋ねてみる。
「・・・ねえ、美月お母さんのことは、好きだった?」
 総一郎は息を呑んだ。まさか、こんなことをあきのが尋ねてくるとは予測していなかったからだ。
 しかし、病院での告白のことを考えると、この質問を適当に誤魔化して終わらせてしまうことが出来ないのだということも判った。
 しばしの沈黙の後、総一郎は覚悟を決めて口を開い た。
「そうだな。・・・母親を亡くした娘の気持ちを思いやる余裕がない程には、好きだったよ」
「お父さん・・・」
 意外な答えだった。けれど、それはあきのの心にすとん、とはまり込む答えだった。
「そっ、か・・・そう、だよね・・・お母さんは、私にとってはお母さんだけど、お父さんにとっては大切な奥さんだったんだもんね・・・」
 智史を好きになって、彼が誰よりも大切だと思える今なら、総一郎の気持ちも理解出来る。
 智史を失うかもしれないと考えただけであきのを襲ったどうしうもない恐怖。総一郎は実際に美 月という愛する人を失ったのだ。その思いが真実だったのだろうということが、今の総一郎の言葉から伝わる。
 ずっと、冷たい人だと思っていた。けれど、それは間違いだったのだ。
 美月を愛していたからこそ、失った悲しみが大きくて、娘である自分のことまで考えられなかったというのなら、倫子が言ってくれていたように、総一郎はあきののことも大事に思ってくれているということなのだろう。
「・・・ごめんね、お父さん。今まで、ずっと誤解してて」
 驚くほど素直に言葉が出た。
 あきのの謝罪の言葉に、総 一郎は僅かに瞠目して、それからすっと眼鏡を指で押し上げた。
「・・・いや、私も・・・悪かった。お前の気持ちに、気づいてやれなくて」
 少しテレたような総一郎の仕草に、あきのの顔に自然に笑みが浮かんできた。
「・・・明日は、仕事?」
「ああ。今日、やり残してきた分を処理せねばならん。・・・夕方までには終わらせて、倫子のところへ顔を出すつもりだ。お前は? その、彼と、会うのか?」
「・・・会うけど、勉強するために会うのよ。私たちは受験生なんだから。・・・私も夕方にはちゃんと倫子さんのところへ行くから」
「そうか」
 総一郎が頷いたのを見て、あきのは自室へと引き上げた。
 この夜、美月が亡くなって以来初めて父と向かい合った気がするあきのだった。


    








TOP       BACK     NEXT