素顔で笑っていたい.21








「お父さん、倫子さん、私は・・・私は、ただ、家族で一緒に食事をしたり、他愛ない話をしたり、そんな時間が欲しかったの。贅沢なんて出来なくてもいいから 、ただ、温かい時間を過ごしたかった。でも、現実にそんな時間は持てないでしょう?・・・倫子さんのことは大好きだけど・・・正直、お父さんのことは・・・好きだなんていえない」
「あきの・・・」
 総一郎が茫然としたようにあきのを見つめた。
「・・・どうして、あの時・・・美月お母さんが危篤だっていうあの時に、病院に来てくれなかったの? 大事な仕事があったんだろうけど、それとお母さんの生命、お父さんにとってどっちが大切で重いか、そんなことも考えなかったの? 目の前で、お母さんが死んでく姿を、たった一人で見てなきゃならなかった、そんな私の気持ちなんて、 お父さん、考えてくれたことある?」
 『寂しかった』という言葉は出せなくても、あきのはごくごく当たり前にある家庭の温もりが欲しかったと口にしたことで、ずっとひっかかっていた言葉が素直に出せた。
 そう。
 大切な筈の妻が息を引き取ろうかという時に、仕事を優先させた総一郎。まだ小学生だったあきのがたった1人でその臨終に立ち会わなければならない、その辛さと心細さと悲しみを、総一郎はどこまで感じてくれていたのか。
 あの日、母が息を引き取り、その連絡は確かに総一郎に届けられた。
 その電話で、総一郎と病院の職員の間にどんな会話があったのか、あきのは知らない。
 しかし、遺体の処置が終わり、やってきた葬儀社の人たちが母をあきのと一緒に家に連れ帰った。そして、慌しく遺体を棺に収めていった。
 総一郎が帰宅したのは、それらが済んでからだったのだ。
 しかも、その際、総一郎はあきのに殆ど、言葉らしい言葉はかけてくれなかった。
 その時から、あきのにとって総一郎は遠い存在になった。『父親』という名の他人、そんな意識で捉えることしか出来なくなったのだ。
 それこそが、自分の根底にある孤独感と結びついている。そのことを、あきのは改めて自覚した。
 美月に愛された記憶がなかったら。実香子や倫子と出会えてなかったら。きっと自分は荒れて、今頃どうしようもなくなっていただろうとあきのは思う。
 そんなあきのの言葉を聞いて、智史も辛くなった。実母が亡くなった時に父親は側にいてくれなかった、とは聞いていたが、今、改めて『その時』のことを聞かされて、その時のあきのの悲しみは計り知れないものだっ ただろうと思う。
 両親が健在の自分には想像することしか出来ない心情だが、12歳という年齢を考えればどんなにか辛かっただろう。
 ある程度落ち着いた口調で話しているあきのだが、その心が泣いていそうで、出来ることなら抱きしめてやりたかった。しかし、総一郎たちの前でそんなことが出来る筈はなく、智史はその左手をそっと包んだ。
 その温もりに、あきのの孤独の影が薄れる。
 智史に大切にされている。そのことを感じる度に、心が温かくなって力をもらえる。生きて、進んでいく力を。
 あきのは智史をちらりと見上げて、小さく微笑んだ。ありがとう、の意味を込めて。
 智史もただ、頷く。
「あきのちゃん・・・」
 沈黙を破って言葉を発したのは倫子だった。
 あきのがベッドへと目を向けると、倫子は瞳を潤ませ ていた。
「・・・ごめんね、あきのちゃん・・・そうよね。いくらしっかりしてるって言っても、美月さんが亡くなった時、あきのちゃんはまだ小学生だったんだものね。寂しくて、辛くて当たり前だわよね。私も、総一郎さんも、あなたのことを考えているようで、本当は全然解ってあげられてなかったのね・・・ごめんなさい」
「倫子さん・・・」
 あきのも瞳を潤ませてそっとベッドに歩み寄った。
「私も・・・ごめんなさい。忙しい倫子さんを困らせちゃいけないと思って、遠慮して、全然素直になれてなかったなぁって、思うから。さっき、智史に言われて気づいたの。言葉にしなきゃ、通じないってこと。だけど、倫子さんが私のこと、色々考えて、大事に思ってくれてるってことはちゃんと解ってるよ。だから、大好きって言えるの。ありがとう、倫子さん」
 倫 子に対しては素直に気持ちを言葉に出来る。それだけ、あきのが彼女に対して心を開いているということだ。
 智史は先程から沈黙したままの総一郎をちらりと見る。
 徹のことから始まり、倫子の妊娠のこと、あきのの気持ち、予測していなかったであろう話を色々聞かされて混乱しているのかもしれない。
 ここにいる己の存在も、総一郎の混乱に拍車をかけているかもしれないと智史は思うが、あきのの手を離すことは出来なかった。
 智史が優先するのは、あきのの気持ち。総一郎のそれではない。
「・・ねえ、総一郎さん」
 倫子がそっと呼びかけて。総一郎は眉根を寄せたまま、妻の方を見た。
「私も、あなたも・・・あまりにも、あきのちゃんに甘えていたんじゃないかしら。あきのちゃんがしっかりしているからって、何もかも、その自主性 に任せてきたけど、確かに、甘えて抱きつくことはなくても、まだ、大人じゃないあきのちゃんを、こんな風に放任してはいけなかったんじゃないかしら」
「倫子・・・」
 総一郎はますます眉根を寄せた。
 確かに、あきのの告白は衝撃だった。
 先妻である美月が亡くなった時、丁度銀行取引のある山場を迎えていて、現場の人間からの報告を待たなければならなかった。迅速に対応する必要があったから、どうしても動けなかったのだ。
 全ての片がついたのは、妻が息を引き取った後だった。
 身体が弱く、治療費も正直、結構な額が必要だった妻を、そして大切な一人娘のあきのを守るために、総一郎は少しでも多くの収入を得ようと働いていた。
 妻と娘を、彼なりに愛していたから、妻の死は、やはり辛くて。死に目にも会えなかったことを悔やむ気 持ちもあった。
 棺の前で泣いたが、そんな姿を娘に見せられる筈もなく、ましてや、銀行の関係者にには尚更で、葬儀の間も淡々と喪主を務め、妻を送った。
 そして、おくやみと同時に慰めをくれた倫子に、悲しみや辛さを打ち明けるようになって、愛するようになり、再婚した。
 言われてみれば確かに、あきのの気持ちなど、考えていなかったと思う。美月を失ったことは、総一郎にとっても痛手だったから。
 暫くは住み込みの家政婦に来てもらって、あきのの世話や家事を任せていた。
 その後、倫子を迎えて、家政婦は通いの人に替わってもらい、現在に至る。
 仕事はますます忙しくなり、家にいられることは少なかったが、総一郎はいつもあきのの様子を倫子に聞いていた。だからまさか、娘から父親として慕われていないなどということ は、考えてもみないことだったのだ。
 今回のお見合いの話も、大学のことも、あきのに幸せになってもらいたいと考えてのことだが、あきの自身の気持ちよりも、総一郎の思いを優先してきた面があるのは否めない。
「・・・あきの」
 総一郎の呼びかけに、あきのはゆっくりと振り向いた。
「・・・何?」
 総一郎の口から出る言葉の予測がつかない。あきのは自然とぎゅっと拳を作っていた。
「・・・徹くんとは、本当に結婚したくないんだな?」
「・・・ええ。あの人と結婚するくらいなら、私は家を出るわ。それも許されないのなら、美月お母さんのところへ行った方がマシだもの」
「そんなことを・・・言うものじゃない」
 総一郎はあきのをきつく睨みつけた。
「勿論、美月お母さんのところへっていうのは、最終手段よ。だって・・・生きて、 幸せになりたいって、私は、そう望んじゃいけないの? 私はただ、もしも結婚するなら、あったかい家庭を作れる人と結婚したいだけ。人間として尊敬出来て、信じられる人と、愛し合って、いつも素顔で笑っていられるような、そんな平凡な家庭が欲しいだけなんだもの。贅沢出来なくたっていいから、穏やかな幸せが欲しいだけよ。そう望むのは、いけないこと?」
 あきのの言葉に、総一郎は深い溜息をついた。

  








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