素顔で笑っていたい.18








「香穂、さっきは助かった。悪かったな」
 家に戻ると、香穂が迎えてくれた。知香と志穂も帰宅している。
「ううん。あきのさんのお母さん、大丈夫なの? お兄ちゃん」
「・・・多分な。ちょっと、疲れが出たらしいから、休めば治るだろ」
「あきのさんは大丈夫なの? 智史」
 知香が夕食の支度の手を止めて問いかけてくる。
「・・・まあ、何とかな。とりあえず、あいつの親父さんが来てくれるまでだけ、傍にいてやろうと思うから、カバン届けがてら、もう一回病院行くわ、俺」
「・・・そうね。そうしてあげなさい」
 知香は智史におにぎりの入った小さな紙袋を差し出した。
「こんなものしか用意出来てないけど、あきのさんと一緒に食べなさい、智史」
「・・・サンキュ、母さん」
 知香の温かい心遣いに、智史は素直に感謝した。
 あきのの家庭を知ることで、こうして母親があれこれと世話を焼いてくれる環境というのが決して当たり前ではなく、恵まれているのだと知ったから。
「じゃ、行ってくる」
「気をつけてね、智史」
「ああ」
 知香の瞳が意味するものを汲み取って、智史は家を出た。
 あきのが不安がっていると知っている以上、なるべく早く戻ってやりたいと思い、今度は自転車で病院へと向かった。
 病院の駐輪場に自転車を止めて、智史は中へと入る。夜の外来診療時間ではあるが、今日はあまり患者は多くはないようだ。
 階段を使って3階の目的の病室へと向かい、部屋の扉をそっと叩いた。
「・・・はい」
 あきのの声がしたので、智史は扉を開く。
「・・・智史」
 あきのの表情が明らかに安堵したものに変わった。
「お袋さん、変わりないか?」
「うん。先生も、落ち着いてるって、おっしゃってた」
「そうか」
 点滴に繋がれた倫子の顔は、少し青白い。
「・・・これ、食うか?」
 智史は知香に持たされた紙袋をあきのに差し出す。
「え? 何?」
「おにぎり。母さんが作ってくれてたんだ」
「おばさまが・・・」
 あきのは目を丸くする。
 やさしい知香の気遣いが心を温めてくれる。あきのは袋の中の、ラップで包まれたまだ温かいおにぎりを1つ手に取った。
「・・・じゃあ、いただくね」
「ああ。俺も食うわ」
 智史も同じようにおにぎりを取り出して、包みを解く。
 あきのもそれにならって、おにぎりを口 にした。
 ほんのりとした塩味と海苔の味が心地よい。
「美味しい」
「・・・そうか?」
「うん。おばさまのやさしい味がするもの」
 智史は温かい瞳であきのを見つめる。
 知香の心遣いで、あきのも少し元気になってくれたようだ。
 2人がおにぎりを食べ終えて、来る途中で智史が買って来たお茶を飲んで落ち着いた頃、倫子が意識を取り戻した。
「倫子さん」
「・・・あきの、ちゃん・・・?」
 倫子は状況が上手く飲み込めず、視線をゆっくりと彷徨わせる。
「私・・・ここは・・・」
「病院よ、倫子さん。倒れたって聞いた時はびっくりしたんだからね!」
「・・・気分は悪くないですか」
 問われて、倫子は智史へと視線を向けた。
「あなたは・・・私を、支えてくれた・・・?」
「はじめまして。大麻 智史といいます」
 軽く頭を下げた智史の名を聞いて、倫子は目を丸くした。
「えっ・・じゃあ、あなたが、あきのちゃんの?」
 倫子は驚いて身体を起こそうとし、あきのと智史に止められた。
「倫子さん! ダメ、寝てなくちゃ!」
「腹圧かけない方がいいです、今は」
「・・・え?」
 あきのの慌てぶりと智史の言葉の意味が判らなくて、倫子は怪訝な表情になる。
「あきの、ナースコール」
「あ、うん」
  智史に促され、あきのはナースコールを押して、倫子の意識が戻ったことを伝えた。
「ちゃんと先生の話、聞いてね? 倫子さん。それから、お父さんも、ここに向かってる、から。多分、もうじき着くと、思う」
「・・・総一郎さんが?」
 倫子はち らり、と智史に視線を向けた。
 その意味を察して、あきのは溜息をつき、智史は小さく頷いてみせた。
「・・・智史がお父さんに挨拶したいって言ってくれて。・・・いい顔しないのは、判ってるんだけど」
「けじめは大事だと思うんで。俺も一度は挨拶しないとと考えていたんです」
 智史の真っすぐな瞳は一点の曇りもない。その言葉の真実を物語っていて、倫子はふっと表情を緩めた。
「・・・総一郎さん・・あきのちゃんのお父さんは、結構難しい人なんだけど・・・それでも、筋の通った相手の話はちゃんと聞いてくれるんじゃないかと思うわ。・・・あなたなら、大丈夫かもしれないわね」
 それを聞いて、智史は僅かに苦笑し、あきのは肩を落として溜息をつく。
 徹が介入している以上、総一郎が智史を簡単に 認めるとはとても思えない。
「そう簡単にはいかないと思うよ、倫子さん・・・あの人のことだから」
「あきのちゃん・・・」
 父親を『あの人』と呼ぶあきのを、やんわりと窘めようとした倫子だが、病室の扉を叩く音と共に、看護師と医師が入ってきたので会話は中断した。
「気分はどうですか、椋平さん」
 杉内医師が微笑んで問いかける。
「あ、はい・・・特に、おかしくはないと思います」
「そうですか。なら、2、3日このまま様子を見ましょう。赤ちゃんのためにも、頑張って下さいね」
「・・・え?」
 医師の言葉に、倫子は目を見開いて起き上がろうとし、あきのは慌てて止めに入った。
「ダメ! 倫子さん、起きちゃ」
「先生・・・? どういうことですか・・・?」
「椋平さんは妊娠し てるんですよ。胎児の大きさからいくと、8週目に入ったばかりくらいかと思いますが」
 驚愕の表情のままでいる倫子に、杉内医師は僅かに眉を顰めた。
「・・・全く、気づいておられませんでしたか?」
「・・・・・はい・・・私は元々不順な方なので・・・考えもしませんでした・・・」
「そうですか。・・・暫くしたら、ご主人も来られるでしょうし、よく相談して下さい。とりあえず、今夜はこのまま、入院していて下さいね? 切迫流産だけでなく、貧血と疲労もみられますから」
 血圧を測っていた看護師から数値に異常がないことを伝えられると、杉内医師と看護師は病室から出ていった。
「・・・倫子さん?」
 黙ったままの倫子に、あきのは心配になって声をかけた。
「倫子さん・・・あの、入院は大変だと思うけ ど・・・でも、今はとにかく休んで。赤ちゃん、守らなきゃ」
 あきのの言葉に、倫子は目を瞠った。
「あきの、ちゃん・・・」
「・・・倫子、さん? 私、ヘンなこと言った?」
 あまりにも倫子が驚いている様子なので、あきのは不安になる。
「もしかして・・・倫子さん、赤ちゃん出来たの、嬉しくない、の・・・?」
「あきのちゃんは・・・嬉しいの? 私に赤ちゃんが出来たこと」
 戸惑うような倫子に、あきのも戸惑いながら答える。
「勿論よ! 私、ずっときょうだいが欲しかったんだもの。でも、亡くなったお母さんには、それは言っちゃいけないことだったから・・・だから、倫子さんが赤ちゃん産んでくれたら、凄く嬉しいよ?」
「あきのちゃん・・・」
 倫子はしばらくじっとあきのの瞳を見つめた後、 フッと表情を緩めた。
「・・・ありがとう、あきのちゃん・・・やっぱり、美月さんの娘ね、あなたは。そのやさしいところ、美月さんそっくり」
「倫子、さん・・・」
 今度はあきのが目を瞠った。
「・・・美月さんは、見ず知らずだった私に、凄くやさしくしてくれたのよ。だから、私は美月さん亡き後、あきのちゃんの義理の親になろうと思ったんだし。・・・あ、勿論、総一郎さんのこともちゃんと好きだけど・・・ただね、総一郎さんと結婚する時に、約束したのよ『子供は作らない。あきのちゃんを大切に育てていく』って。それだけに・・・」
「そんな、約束を、お父さんとしてたの? 倫子さん・・・」
 どこか茫然としているあきのに、倫子はゆっくりと頷いた。








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