春便り.15








 佐藤家に帰ると、愛美が笑顔で迎えてくれ、温かな夕食が用意されていた。
「・・・この、白いのは、牛乳ですか?」
 鰆の塩焼きになばなのお浸し、ひじきの煮つけという和の食卓の中の白い汁物は、あきのには不思議なものに見えた。
 愛美の味付けはやはり、知香のものに似ていて、あきのは食べ慣れたものを味わっているという感覚だったが、今夜のこれは初めて見るもののような気がす る。
「いいえ、牛乳ではないのよ。食べてみて? あきのさん」
 言われるままにそれを飲んでみる。
 確かに、牛乳ではなかったが、どこか濃厚で、それでいてさっぱりしたような味だった。
「美味しい、けど・・・何、だろう? 智史は、判る?」
 いきなり話を振られて、智史は眉間に皺を寄せた。
「さあ? それなりに美味いとは思うけど、ばあちゃん、これって、初めて作ってくれたよな? 俺には」
「そうね。美夜子さんに教えてもらったものだからねえ」
「へえ。諒兄の嫁さんが」
 智史の従兄の諒のお嫁さんには会えていないが、栄養士をしている人だと聞いた。きっと、料理も得意なのだろうとあきのは思った。
「・・・あの、それで、正解は何なんですか? おばあ様」
 愛美はニッコリと笑って答えてくれた。
「実はね、豆乳なのよ」
「え? 豆乳って、あの、お豆腐の原料の?」
 あきのは目を丸くする。
「ええ。お出汁で野菜なんかを煮て、豆乳を加えてね、白味噌とお塩で味付けしてるのよ。意外といいでしょう?」
「はい。なんか、凄く身体によさそうです」
「そうね」
「・・・あの、作り方って、教えていただけますか? 家に帰ったら、母に、作ってあげたいので・・・」
 あきのは義母である倫子が授乳中であることを愛美に話した。母乳を作るために、普段よりも水分を取るよう、心がける方がいいと聞かされているから、こん な、体に良さそうな汁物を作ることが出来たら、少しは助けられるかもしれない。
 そんな風に思ったのだ。
「ええ、後で教えるわね」
 愛美が快諾してくれたので、あきのは安堵の笑みを浮かべた。
 それから、夕食後の食器洗いと片づけを手伝い、豆乳汁の作り方を教わってメモに取る。
 そんなことをしているうちに、あきのはすっかり愛美の温かさに馴染んでいた。見守ってくれているかのような僚一のやさしい眼差しも、自然に受け止められ る。
 智史と交代でお風呂に入らせてもらって、寝室として借りている和室に移ってしまうと、今夜で最後なのだという思いがしみじみと湧いてきて、あきのは寂寥 感に唇を引き結んだ。
 悠一郎や倫子が待つ家に帰るのは嫌ではない。でも、智史と、愛美や僚一と一緒にいられる時間が終わってしまうのがたまらなく淋しかった。
 智史と一緒に行った、さまざまな場所。話したこと。感動したもの。
 今回の旅行であきのが得たものはたくさんあるけれど。夢のような時間が終わり、現実へと戻らねばならない、そのことが淋しさを倍増させているのかもしれないと思った。
「・・・・・あきの? 寝たか?」
 控え目な声が聞こえて。あきのは急いで襖を開けた。
「智史」
「・・・ちょっとだけ、いいか?」
 みれば、智史はなんとなく気まり悪そうな表情(かお)をしている。
「どうかしたの? 智史」
 あきのは躊躇いなく、彼を室内へと招き入れる。
「・・・別に、どうってことはねえけど・・・明日はもう帰るから、な・・・」
「・・・少し、話してたいって、思ってくれたの? 智史も」
 そう口にすると、智史は一瞬瞠目したが、すぐに苦笑した。
「お前もか、あきの」
「うん。・・・帰るの、惜しいなって、思ったの。智史と、もっと、一緒にいられたらいいのになって」
 智史はあきのと少し距離を置いた畳の上に胡坐をかいて座った。
「過ぎりゃ、早えーよな、こういうのって」
「・・・うん。あっという間だったね、この3日間」
「ああ。・・・それなりに、充実してたって気はするけどな」
「でも、ホントに惜しいなって思う。もうちょっと日にちがあれば、神戸とかも行きたかったな」
 あきのが言うと、智史はふっと表情を緩めた。
「・・・また、来ればいいさ、京都に」
「智史・・・」
 あきのは僅かに目を瞠って智史を見つめる。
 当たり前のように『次回』のことを口にしてくれる智史。それは。
「・・・また、誘ってくれるの? 京都に・・・ここの、智史のおじい様やおばあ様の所へ行く時に」
「ああ。・・・嫌か?」
 あきのはふるふると首を振る。
「ううん、嫌なんかじゃない。嬉しいの。・・・また、来たいって思う、私も」
 それを聞いて、智史はふっと笑みを刻む。
「出来たら、夏の貴船とか、桜の咲いてる宇治とか・・・そういうのもいいかもな。次は、それこそ、神戸とか大阪にも足を延ばせるように、ゆっくり日程組みゃーいいし」
「・・・うん」
 弾んだ声で頷いたあきのに、智史も笑みのまま頷く。
「・・・それに、東京に戻ってからでも、まだ少し、時間あるだろ? 行けたら、近場でどっかへ行こうぜ。大学始まっちまったら、お互い、どこまで時間作れるか判らんねーしな」
「あ、そっか、そうだよね。入学式までの間は、まだ智史と過ごす時間、作れるんだった」
 今回の旅行が終われば2人で過ごす時間がなくなってしまう訳ではない。あきのは改めて、それに気づいた。
 そんなあきのに、智史は苦笑いを浮かべる。
「当たり前だろ? まあ、ここまでのんびりは出来ねーだろうけどな。俊也の見送りもしねーと」
「あ・・・そっか。清水くん、行っちゃうんだものね・・・遠くなるのは寂しいけど、一人暮らしって、ちょっとだけ憧れちゃうな」
「・・・一人暮らし、したいんか? あきのは」
「実際は無理だと思うよ? お父さんがそんなこと許可してくれるわけないもの。でも、だからこそ、憧れちゃう面もあるんだよね。きっと、現実は厳しいんだろうけど」
 総一郎の監視のない、自分だけのお城で暮らすこと。自分のペースで物事を進められて、自分の判断で様々なことを決められる暮らしというものをしてみたいと、あきのは思うことがある。
 実際は大変だろうし、倫子や悠一郎と離れて暮らすなんて、考えられないから、実現することがないということも判っては、いるけれど。
「・・・お前が一人暮らしなんかしたら、とんでもねーな」
 智史は眉を顰めた。
 あきののような美人でスタイルのいい女性が一人暮らしなんかをしたら、邪な男たちを寄せ付けてしまいそうで、とんでもないことになりそうな気がする。
 総一郎がそんなことを絶対に許さないであろう人で、本当に良かったと智史は思った。
「とんでもないって・・・どういう意味?」
 僅かに唇を尖らせたあきのに、智史は微かな溜息をつく。
「・・・隙だらけってこった。馬鹿な勘違い男どもを増長させかねないから、止めとくのが無難だ」
「隙だらけってとこは、ちょっとあんまりかもって思うけど・・・うん、でも、確かに女の一人暮らしは狙われやすいって言うものね。自宅通学出来て、良かったのかな」
「そういうことだな」
 智史に真顔で頷かれて、あきのは苦笑した。
     




 



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