春便り.16








「智史は一人暮らししてみたい、とか思ったことはないの?」
 あきのに問われ、智史は僅かに瞠目した。
「ああ・・・そう言えば考えたことねーな。一人になりたいとはよく思うけど、だからって家を出ようとは・・・思ってねーわ、俺」
「やっぱり、おばさまみたいな素適なお母さんがいる家だから、なのかな」
「いや・・・というか、必要性がねえからだろ。大学も、通えるし。さすがに、就職したら家は出るだろうけどな」
「あ、やっぱり就職したら家を出るの?」
「そりゃあ・・・」
 智史はあきのを見る。
 目の前のあきのは、特に何も考えずにその言葉を口にしたようだが、智史にとっては、就職すれば、と考えていることがあるので、それを実現させるとなると、安志や知香と一緒に暮らすのは無理だと思っている。
 あきのにも関係してくることだから、彼女の意見も取り入れて、と思うが、今は、そんなことは口にすべきではないだろう。
 ふと、視線を滑らせて、智史は一瞬息を止めた。
 ベビーピンクのカーディガンの下にあきのが着ているのは、前開きの赤系のチェックのパジャマ。
 彼女の身体のラインを急に意識する形になり、智史は慌てて視線を上へと逸らした。
 そして、努めて平静を装い、彼女に告げた。
「そろそろ、寝るか。明日はそんなに朝早くなくてもいいけど、長い時間の移動だし、今日も結構歩いて疲れただろうしな」
「あ、待って」
 立ち上がりかけた智史の手を、あきのは咄嗟に掴んだ。
「あきの?」
 智史は怪訝な表情になって彼女を見つめる。
 その瞳は何だか縋るような色を滲ませていて。けれど、互いにパジャマのような薄い衣服で長い時間一緒にいるのは危険だと、智史の理性が告げている。
「・・・どうした? あきの」
 重ねて問いかける。そうすることで、智史は己の本能に改めてブレーキをかけた。
「あ、えっと・・・」
 あきのも、自身の行動の理由をゆっくりと整理してみる。
 まだ、そんなに眠くない、というのもあるが、一番の理由はまだ、離れたくない、ということだ。智史となら、一晩中でも話していたいと思う。
 ただ、そんなことを智史に告げていいのかどうか。
 あきのは視線を泳がせる。
「・・・あきの」
 智史が軽い溜息をついた。
「・・・押しかけといて悪いが・・・やっぱ、いい加減にしとかねーと、色々ヤバイと思うんだよな。・・・その、お互い、パジャマだし」
「あ・・・」
 言われて、あきのも気づいた。夜の遅めの時間に、パジャマ姿で2人きり、ということに。
 あきのはぱっと手を放す。
「ご、ごめんなさい、智史。私・・・」
 どこか慌てた様子のあきのに、智史は苦笑してみせる。
「・・・まあ、名残惜しいけど、いつまでも一緒って訳にはいかねーからな。・・・じゃ、また明日な」
「おやすみ、なさい」
 ごく自然に引かれるように、触れるだけのキスを交わして、智史は和室を出て行った。
 あきのは布団にゆっくりと入って、2階の智史の気配を感じながら目を閉じた。





 翌朝、あきのは僚一と愛美にきちんとお礼を言って、智史と共に佐藤家を後にした。
 赤の他人の自分を、温かく受け入れてくれたやさしい2人。知香の両親だということが心底納得出来る。
「また、来て頂戴ね」
 そう言ってくれた愛美のやさしい微笑みが、何より嬉しかった。
 行きと同じく、智史があきののスーツケースを持ってくれている。
「ごめんね、智史・・・重いでしょう」
「平気だから気にすんな。・・・それより、疲れてねーか? ばあちゃんたちに随分気を遣ってくれてただろ? お前」
「ううん、そんなことないよ! むしろ、気を遣って下さってたのは、おばあさまたちだもの。私、すっかり甘えてたから」
 確かに、少しは気を遣ったつもりだが、それでも、僚一と愛美の微笑みと温かな人柄の前では、いつのまにか自然と振舞えていた気がする。ひどく緊張したのは、結局のところ初日だけだった。
 大麻家で感じているのに近い、心地良さだった。それは、やはり彼らが知香の両親だからなのだろう。あきのはそれを改めて感じた。
「・・・お前はいっつも他人(ひと)に気ぃ遣ってるよな。・・・まあ、それもお前らしいっちゃー、らしいけど」
 倫子との関係がそうさせてきた部分もあるのだろう。智史はあきのの大きな瞳をじっと見つめる。
 そこには、曇りはない。
 ならば、あきのが今回の滞在について、必要以上に気を遣って疲れた、ということはないらしいと判断して良さそうだ。
「じいちゃんもばあちゃんも、お前をまた連れてこいって言ってたし、伯父貴たちもまた会いたい、みたいに言ってたからな・・・機会があったら、また、つき合ってくれるか」
「智史・・・」
 あきのは嬉しそうに微笑んで頷いた。
 坂を下って、駅の方へと歩く。暫くは線路沿いの幹道の歩道を歩くのだが、踏切付近に立つ、大きな桜の木がふと、目に留まった。
「智史、見て」
「どうした?」
「あの桜の木の枝の端の方・・・」
 よく日の当たる枝の先に、淡い色の花が数輪、咲いている。
「・・・へえ。桜が」
「咲いてる。まだ、ほんの少しだけど・・・でも、なんか、嬉しい」
 あきのは目を細めてその小さな花を見つめた。
 春を象徴する、桜の花。
 新たな道へと進む、自分たちを祝福してくれているような気がする。
「・・・春だな」
「うん、春だね」
 春の訪れを実感しながら、智史とあきのはゆっくりと駅へと向かった。
 

 



END







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