春便り.12








 大通りに出て、バス停に並ぶ。
 地下には私鉄の駅があるということで、通りの周辺は賑わっていた。
「実は、俺も薬師寺は始めてだ、行くの」
「そうなの?」
 あきのが瞠目する。
 修学旅行で見学する予定だった薬師寺で、気を失って倒れてしまった自分を、そのまま介抱してくれた智史は「奈良には来たことがあるから」という理由で付 き添ってくれていた。けれど、本当は全ての場所がそうだったわけではなかったということか。
「・・・ごめんなさい、智史・・・私・・・」
 倒れたことでどれ程の迷惑を彼にかけてしまったのだろう。今更ではあるが 、あきのは申し訳なさでいっぱいになった。
 俯いてしまった彼女に、智史は苦笑する。
「今更あれこれ考えてもしょーがねえだろ? 気にすんな、あの時のことは。それより、お互い初めて行くって方が、それなりに楽しめるかもしれねーだろ?  まあ、俺は寺を見て何が面白いんかは判んねーけど」
 半分おどけたような言葉に、あきのは思わず顔を上げる。
 智史はいつも通りの表情であきのを見つめていた。
「智史・・・」
「あの時はあの時、今は今、だろ? いーんじゃねえか、それで」
「・・・ありがとう、智史」
 いつまでもこの話を引きずっていても返って智史に迷惑をかける、と感じたあきのは、彼が言うように、これからの時間を楽しもうと、気持ちを切り替える。
「智史と、こんな風に奈良の街を歩けるの、嬉しいから、いいんだよね、それで」
「ああ」
 智史の穏やかな瞳に、あきのも微笑んで頷く。
 程なくバスがやってきて、2人はそれに乗り込み、薬師寺前のバス停で降りた。
 奈良の中心からはだいぶ西の方に当たる場所だ。
 すぐ近くには唐招提寺もある。
「東大寺が東の端なら、薬師寺は西の端って感じなのかな」
「そんな感じだよなぁ。もうちょっと歩いたところが門みたいだぜ」
 バス停から少し歩いて、薬師寺の入り口をくぐる。
「薬師寺といえば、持統天皇よね」
 拝観料を払って中に入り、あきのはまず、そう言った。
「・・・誰だ、そりゃ」
 智史は眉根を寄せて問いかける。
「持統天皇って言ったら、天智天皇の娘で、天武天皇の奥さんになった女帝よ。百人一首に歌があるじゃない。知らない? 『春過ぎて 夏来にけらし 白妙の  ころもほすてふ 天の香具山』っていう歌」
「・・・俺が覚えているとでも?」
 智史の、更に深くなった眉間の皺に、あきのは苦笑する。
「・・・古典、苦手だったものねえ、智史は・・・」
「・・・歴史も苦手だ、ついでに」
 ぼそり、と智史はつけ加えた。
「・・・そうでした」
 とにかく、文系の勉強は相当苦手だった智史である。国語は特に古典、社会は歴史を苦手としていた。
 今の話はモロにそれらに該当してしまうから、智史が覚えていないのも無理はない。
 あきのは逆に、国語や歴史、英語が得意なほうだったので、そういう知識も頭にある。
「京都におじいさん、おばあさんが住んでて、よく知ってるのに、歴史には興味が湧かなかったんだね、智史って」
「昔のこと知ったからって、今が特に変わる訳じゃねーし、別になぁ。まだ、現在の政治とかの話題の方がマシだ」
「・・・政経は得意だったっけ?」
「・・・いんや、得意とは言えねーよ。マシだっただけで。ただ、それなりに興味はあるぜ? 景気対策とか、外交とか」
「・・・そう、なんだね・・・」
 意外に聞こえる内容だったが、智史らしいと言えなくもなかった。彼はいつも、前を向いて進んでいる。過去に囚われて動けなくなる、なんてことはないのだ ろう。
「歴史オンチで失望したか?」
 智史が僅かに拗ねたかのような瞳であきのを瞰下する。
 あきのは慌てて首を振った。
「ううん、そんなこと・・・! ただ、凄いなあって思って。勉強は嫌いって言うけど、そういえば、ニュースとかはちゃんと見てるよね。そういうところは素 直に偉いなあって思うよ?」
 同年代の女子は勿論、男子の中にだって、政治や経済に興味を示さないものは多い。自分自身を省みても、ニュースはたまに見るが、さらりと流しているとい う感じだ。
 具体的に何かをする訳ではなくても、そういうものにきちんと目を向けるというのはきっと大切なことなのだろうと思う。
 あきの自身はあまり判っていないが、総一郎を改めてちゃんと見つめられるようになってから、ニュースなども少し、気になるようになった。経済の動きなど は、父の仕事に直結しているということを再確認したから。
「・・・単に興味があるだけで、それについてどうこうするって訳じゃねーから、偉くなんてないさ。ま、無関心はどうかと思うがな。いずれ、俺たちだって社 会人になんだから」
「・・・うん。本当にそうだよね」
 智史は大学生活の先も見据えている、ということなのかもしれない。改めて、彼を凄いと思う。
「・・・歴史や古典に詳しくなくても、私は智史を尊敬するよ」
「な・・・!」
 あきのの言葉に、智史は目を剥いた。己よりも遥かに頭もよく、しっかり者の彼女に『尊敬する』などと評されるとは思ってもみなかったから。
 しかも、あきのの微笑みには邪なものは微塵もない。素直な彼女の賛辞だと解り、智史は完全に上を向いてしまった。
「・・・・・そ、そんなこと・・・・・・とにかく、ホラ、行くぞ。中、見たいんだろ?」
 智史はあきのの方を見ないまま、足を進めた。
「・・・智史・・・」
 怒らせただろうかと不安になったあきのだが、見上げた彼の耳の辺りが赤く染まっていることに気づき、照れているだけだと知った。
 あきのは安堵の笑みを浮かべ、智史の後を追う。そして、ゆっくりと並んで歩き、境内を見て回った。
 国宝の東塔は年代を重ねたせいか地味な印象だが、これが焼けずにずっと残っているということが、不思議で溜息が出てくる。
 比較的最近に再建された金堂や西塔などは鮮やかな朱色が印象的だ。
「天武天皇が、当時病にかかっていた奥さんの持統天皇のために立てることを発案したって言われているお寺なのよね、薬師寺って。尤も、創建当時はここじゃ なくて、藤原京にあったそうだけど」
 あきのの説明に、智史は眉根を寄せた。
「・・・それはいつの時代の話なんだ? 藤原京なんてのがあったのか?」
 あきのは苦笑した。
「・・・智史・・・まあ、仕方ないのかなぁ。奈良時代より以前(まえ)のことだし、藤原京は短い間だった みたいだしね。それ以前は飛鳥が中心だったじゃない?」
 覚えてない? という風に智史を見上げると、彼は肩を竦めてみせた。
 苦手なだけあって、記憶はないらしい。あきのは再び苦笑した。
「・・・確か、修学旅行の前に、班ごとに奈良や京都のことを調べておくようにっていうのがあったはずなんだけど・・・智史たちはやらなかったの?」
「そーいうんは俊也と原っちがやってたと思うけど、俺や伸治はあんまし、な」
「・・・成程。・・・納得」
 あきのは微かな溜息と共に頷いた。確かに自分たちの班も、熱心だったのはあきのと理恵くらいで、実香子たちはあまり参加していなかった気がする。
 興味があるかないか、というのは、学ぶ上で重要な要素だと、改めて思った。
「・・・・・まあ、いいよね。ともかく、今日、こうして奈良の街に来られて、色々見てまわれて良かったと思うから。ありがとう、智史」
 あきのは今度は心からの笑みで智史を見上げる。
 智史もまんざらでもないような表情で頷いてみせる。
「・・・どっかでお茶してから、ゆっくり帰るか」
「うん。もう少しお土産物とかも見たいな」
「じゃあ、駅まで戻るか」
「そうね」
 智史とあきのはゆっくりと薬師寺を後にし、バス停へと向かった。







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