春便り.10








 翌日もいい天気に恵まれた。
 智史はあきのを伴って、奈良行きのJRの快速に乗った。
「1時間かからずに着くからな」
「そんなに近いの?」
「ああ。昔はもっと時間かかってたと思うけど、だいぶ早くなったみたいだぜ? ま、単線なのは相変わらずらしいけどな」
「そうなんだ」
 あきのは智史と並んで腰掛けながら、わくわくした気持ちで車窓からの眺めを楽しんでいた。
 奈良に近づくにつれて、田舎の風景が広がって行く。
「あの黄色いのは菜の花かな?」
「・・・俺に聞かれても判んねーぞ」
「・・・そっか。智史は花の名前はあまり知らないのね」
「俺がそんなもんを知ってるように見えるか?」
 僅かに眉根を寄せている智史に、あきのはふふっと笑う。
「そうよね。植物に特別に興味がなければ、普通は知らないでも当たり前よね」
「・・・そういえば、あきのは好きな花ってあんのか?」
 智史に聞かれて、あきのは首を傾げた。
「そう、ねぇ・・・私は、ありきたりかもしれないけど、薔薇が好きかな。大きい花じゃなくて、小さめの、柔らかいオレンジ色とかのがいいな、と思う。んー、後は、フリージアとかも好き」
「フリージアって・・・どんなだ?」
 智史が眉根を寄せた。
 薔薇は、花の名前をロクに知らない智史でも判る花だが、フリージアという花はどんなものなのかが判らない。
「ん〜、口では説明しづらいなぁ・・・もし、お花屋さんとか、どこかで見かけたりしたら教えるね。春の花だから、もしかしたらどこかのお庭とかで咲いてるかも」
「そうか。春の花なのか」
 そんな話をしているうちに、電車は奈良駅に着いた。
 駅は高架になっているので、東大寺の方向がよく見える。
「あっちの山の方が東大寺のあるところだ。若草山が見えるだろ」
「若草山って・・・あの『山焼き』で有名なところよね? あの正面のがそうなの?」
 智史の指差す方向に、確かに草の山が見えた。
「ああ、そうだぜ。あの麓にあんのが東大寺と春日大社だ。のんびり歩いて30分ってトコだな」
 階段を下りて、改札を抜け、更に階段を下りると道路に出た。すぐ前にはバスターミナルがあって、そこからバスでも行けるが、智史とあきのはのんびりと歩く方を選んだ。
「街を見ながら歩くのも楽しそう」
「折角観光に来たんだしな。ゆっくり行こうぜ」
 智史とあきのは三条通りを東へと進んでいく。ここは商店街のようになっていて、土産物を売る店やレストラン、和菓子店などが並んでいた。
「奈良の銘菓って言ったら何なのかな?」
「さあなぁ・・・何だろうな? 『みかさ』ってヤツじゃねえ?」
「『みかさ』って、どんなお菓子?」
「・・・どら焼き、みたいなヤツだったと思うんだが・・・俺、あまり覚えてねぇよ。なんせ、俺自身は食わねえからな」
「そっか。そうだね、智史は甘いもの苦手だから」
 あきのは納得して頷いた。
「・・・ま、とりあえずそういうのは帰りでいいだろ。生ものなんて、重いだけだぞ」
「うん、そうだよね」
 緩やかな上り坂をずっと進んでいくと、一段と急な坂が見えてくる。その坂の下手に当たる場所にあるのが猿沢の池だ。そして、道路を挟んで反対側にあるのが興福寺である。ひときわ高いのは五重塔だ。
「・・・あれが興福寺の五重塔ね?」
「ああ。中、入ってみるか?」
「あ、ううん・・・外から見るだけでもいいよ。ここは、修学旅行の見学には入ってたんだっけ?」
「ああ、一応な。けど、強制じゃなかったと思うぜ? 東大寺は絶対だったけどな」
 確か、修学旅行のプランは春日大社か興福寺を選択出来るようになっていて、智史たちのクラスは春日大社の見学を選んでいた筈だ。
「じゃあ、やっぱりいい。東大寺は行ってみたいと思ってたから、行きたいな」
「ああ。もう少し歩いたら春日大社の鳥居のところに着くから、そこからだとそんなに遠くないぜ」
「うん。頑張って歩こう」
 ニッコリ笑うあきのに、智史も頷いてみせる。
 やがて、朱の鳥居が見えて来ると、敷地内のところどころに鹿の姿が見えた。
「あ、あれ、鹿だよね?」
「ああ」
「わぁ、本当に鹿が歩いてるんだね〜」
 瞳をキラキラさせて、あきのは草を食む鹿の姿を見つめている。
「お前・・・子供みたいだな」
 智史が微かに苦笑すると、あきのは少しむくれてみせる。
「いいじゃない。TVでしか見たことのない風景が目の前にあるんだもの。・・・まあ、本当なら1年半前に見られてた筈なんだけど、あの時は見られなかったんだから」
「・・・そりゃそうだ」
 智史とて、奈良公園に来るのは随分と久しぶりなのである。前回はあきのに付き添ってずっとホテルの中で過ごしていた。
「・・・後で鹿せんべいでも買って、やるといい」
「あ、うん。あげたい!」
 ますます嬉しそうな表情になったあきのに、智史は吹き出しそうになるのを堪えて、肩を震わせた。
「あ〜、智史、呆れてるでしょう」
 再びむくれたあきのに、智史は笑いを堪えて彼女の頭を軽く叩いた。
「いーんじゃねえ? 楽しむことが1番だぜ、折角来たんだから」
 笑われている気がするが、それは自分を馬鹿にしているからではないと、あきのは感じた。智史の瞳は、やさしげだ。
「・・・うん。子供っぽくてもいいもん。子供のころに、あまり出かけたり出来なかった分、今楽しむの」
「ああ」
 今度は穏やかな笑みで頷いて、智史はあきのに同意した。
 松林の中の道を歩いて、東大寺の方向へと進む。鹿たちは1匹、あるいは数匹で座っていたり、草を食べたりしている。
「・・・そうだ。時々糞も落ちてるから、気をつけろよ」
「えっ、そうなの?」
「ああ。黒い、ころころした感じのヤツが多いから、すぐ判ると思うけどな」
「そっか・・・生きてるんだから、当たり前だよね」
 今更ながら、目の前にいる鹿たちはぬいぐるみや作り物ではなく、生きた動物なのだと自覚したあきのは、少し、足元にも視線を向けるようになった。
 やがて、バス通りに出て、道を横断する。それが、東大寺南大門への道だった。
 正面に大きな南大門が見え、そこまでの道沿いには土産物の店や露店が並んでいる。
 鹿も、あちこちにいて、智史が言うとおり、糞も少し、落ちていた。
 あきのは注意しながら進み、途中で鹿せんべいを購入する。
 包みを開けると、自然と鹿があきのに寄って来た。
「えっ、勝手に?」
「ああ、そいつら、ちゃんと知ってるからな。せんべいの匂いで判んじゃねぇか?」
「へえ・・・」
 あきのは感心しながら、なるべくたくさんの鹿にせんべいを与えられるようにした。
 あきのの手のせんべいがなくなると、鹿たちは離れていく。
「凄い・・・賢いね、鹿さんたち」
「動物だからって馬鹿に出来ねえってことだよな、きっと」
 智史とあきのは暫く鹿たちを眺めてから、東大寺の南大門をくぐり、大仏殿に入るべく、拝観料を払った。
「うわ〜、ここからでも大きいねえ・・・」
 有料の敷地内に入ってから、正面に当たる大仏殿を見て、あきのが感嘆の声を上げる。
「中の大仏がデカいからなぁ・・・行こうか」
「うん」
 ゆっくりと建物に近づき、石段を登って、少し暗くなっている中を覗き込むと、くすんだ色の大仏が鎮座している。
「・・・凄い・・・」
 あきのが目を見開いて呟く。
 大きさもだが、これが元々奈良時代に造られたものだということが凄い。
「・・・やっぱでけーわ」
 智史もぽつりと呟く。
 2人は暫く、その大仏を言葉もなく、ただ見上げていた。







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