春便り.4
総一郎が帰宅したのは午後1時を少し過ぎた頃だった。 「お帰りなさい、総一郎さん」 「お帰りなさい、お父さん」 「お帰りなさい。お邪魔してます」 倫子やあきのに続いて、智史もぺこり、と頭を下げる。 その時、悠一郎はまだ智史の腕に抱かれていた。 それを見た総一郎の眉が、微妙につり上がる。 「・・・・・随分、君は手馴れているようだな」 「あ、はあ、それ程ではないと思います」 総一郎を前にすると、やはり緊張してしまう。智史は己の言葉遣いと声がかなり固くなっていることを自覚する。 「・・・そうでしょう? 総一郎さん。大麻くんねえ、恐がらないで抱いてくれるから、悠一郎の方も気持ちがいいみたいなの」 倫子の言葉で、更にその眉根が寄せられて。総一郎はじろりと智史を睨んだ。 その視線に、智史はうっ、と息を呑む。 あきのとのことで、あまり歓迎されていないことは理解しているが、今回は何が総一郎の気に障ったのか、智史には判らなかった。 「ちょっと、お父さん・・・もう少し穏やかになれないの? そんなに智史を睨まなくてもいいじゃない・・・」 あきのの発言に、総一郎はますます眉間の皺を深くした。 「・・・悠一郎は私が抱く。・・・ほら」 総一郎が智史に向かって両腕を出した。智史はゆっくりと悠一郎の首を支えながら、彼を総一郎へと渡す。 悠一郎はその振動にびくっと身体を震わせた。そして、総一郎に抱かれて程なく、むずがり始める。 智史は僅かに瞠目し、あきのと倫子は微かな溜息をついた。 あきのの時は、育児を殆ど美月と当時の家政婦に任せきりだった総一郎は、赤ん坊を抱くのは悠一郎が初めてと言っても過言ではない。その為か、まだ、抱く時に肩に力が入っての、慣れない行為となっていて、微妙に不安があるらしい。それが、悠一郎に伝わってしまうのだろうと、倫子は言い、あきのはそれを聞かされていた。 「お父さん・・・もっと落ち着いて抱いてあげれば? 大丈夫よ、頭とお尻のところさえ支えてれば」 半ば呆れたような声で言うあきのに、総一郎は娘を一瞬じろりと睨んで、それから、こわごわと悠一郎を揺するように宥め始める。 「・・・もう少し、抱くことに慣れてもらわないと困るわねぇ・・・」 倫子も微かに呟いた。 「・・・じゃあ、もう食事にしましょうか。あきのちゃん、盛り付け手伝ってね」 「ええ」 あきのは笑顔で応じ、食卓の準備を始める。 ランチということで、小海老とホタテのカクテル、サーモンマリネ、鯛のカルパッチョという前菜に、グリーンサラダとビーフシチュー、それに手作りパンが並べられた。デザートには甘さ控えめのコーヒーゼリーが用意されている。それから、知香お手製のバニラシフォンケーキ。 レストランの食事のように綺麗に盛り付けられた料理に、智史は目を丸くした。 「・・・すげぇな、これ」 あきのにだけ聞こえるような小さな声で呟いた言葉に、彼女はクスッと笑った。 「倫子さんは取材で色々なレストランやホテルで食べたりしてるから、盛り付けなんかもこういう時には凝りたくなるみたいなの。普段はもっと家庭的よ」 肩肘張った席は苦手な智史なので、あきのの言葉に少しホッとした。 食事の皿を並べ終えた倫子が総一郎の腕から悠一郎を受け取り、小さなベビーベッドのようなものに寝かせる。揺り篭のように、ゆったりと揺れる機能がついた便利なものだ。 むずがっていた悠一郎は、それに揺られているうちに機嫌が直ったようだ。 「あきのちゃん、大麻くん、合格おめでとう」 倫子が笑顔で言う。 「あきの、おめでとう。・・・大麻くんも、とりあえずは良かった。だが、まだまだこれからだということも覚えておきなさい」 総一郎の言葉に、あきのは少しムッとしたが、智史は真摯に受け止めた。 「はい。頑張ります」 総一郎は軽く頷くと、いただきます、の声を発して食事が始まった。 その間、倫子とあきのが楽しそうに話をしているのを、智史と総一郎は黙して聞いていた。 悠一郎の話から、やがてあきのの卒業という話になると、倫子はちらりと智史に目配せする。 「合格までずっと勉強頑張ってきて、やっと安心出来るようになったんだから、あきのちゃんと大麻くんも色々、遊びに行ったりすればいいのよ。あなたたちが卒業式を迎える頃には、私も回復して外にも出られるようになるんだし」 「・・・ありがとう、倫子さん。遊んでばかりはいられないだろうけど、でも、少しは遊ぶつもりよ。ホントに夏以降、ずっと我慢してたんだもの。 ね? 智史」 話を振られて、智史は一瞬身構えるが、総一郎に京都行きを話して許可をもらうのが今日の食事会の目的の1つなのだから逃げる訳にはいかない。 殆どの料理を食べ終えて、残るはデザートとコーヒーのみとなっていたこともあって、智史はすっと背筋を伸ばして総一郎へと視線を向けた。 「・・・おじさん、お願いがあります」 「・・・・・なんだね」 総一郎の方も、智史の真摯な瞳と態度に身構えた。 目の前の男が悪い人間ではないことは判っている。それでも、大切な、ただ1人の娘の恋人で、しかも、妻は勿論、息子からもどうも好かれているらしい智史のことが、あまり気に入らないのもまた事実。 眼鏡の奥の細めの瞳がじろり、と睨みつけてくるような気がして、智史は知らず拳をぎゅっと握っていた。 「実は、卒業式が終わって、大学の入学式までの期間のどこかで、あきのさんと京都へ行きたいと思ってまして」 「・・・京都、だと?」 総一郎の目が鋭くなる。 「はい。泊まりという事になりますが、彼女と同じ部屋に泊まったりはしませんので、許してもらえませんか」 「私とした約束は、覚えている、ということか」 「はい、勿論です」 男を知らない乙女のまま、あきのを花嫁にする。それが、総一郎と亡くなった彼女の実母・美月との約束だったという。だから、身体の関係を持たない、清い交際をしろと、夏に言われていた。 智史はそれを忘れてはいないし、また、破るつもりもなかった。 もしも、一度深い関係になってしまったら、自分はきっとあきのに溺れ、際限なく求めてしまいそうで恐かった。 それに、そんな下心があるなら、こんな風に総一郎に堂々と許可を願うことなど出来はしなかっただろう。 「おじさんとの約束を破るようなことは、今の俺には出来ません。もしも、それを破れる日が来るとしたら・・・それは、亡くなったお母さんとの約束の方を果たせる自信がついた時、だと思います」 智史の真摯な瞳は変わることなく、総一郎に向けられている。 上辺だけを取り繕い、耳障りの良い言葉ばかりを口にする人間は多い。またはマニュアル通りにしか受け答えの出来ない、己の主張も考えも持てない人間も少なくない。 でも、目の前にいる青年は、表裏のない誠実さを感じさせる瞳をしている。 長く、様々な人間を見てきた総一郎は、智史が信用出来る人間かどうかを見抜くだけのものを持っていた。 だが、それを素直に認めるのは癪に障る。とはいえ、いずれ誰かにあきのを取られるのなら、こういう誠実な、信用に足る男に取られるのであってほしい、とも思った。 「・・・あきの、お前はどうなんだ。彼と一緒に、京都に行きたいのか」 いきなり矛先を向けられて、あきのは吃驚したが、正直に頷いた。 「ええ、行きたいと思ってるわ」 「・・・だが、確か、京都は修学旅行で行っただろう」 「あー、まあ、そうなんだけど・・・」 あきのは苦笑する。 「・・・実はね、私、旅行中、ちょっと体調崩して・・・3日目の見学、全然出来なかったの。宇治から奈良の辺りなんだけど」 「体調を崩したって・・・本当なの? あきのちゃん」 倫子が心配そうな表情で尋ねてくる。 「ごめんなさい、倫子さん、黙ってて・・・ただ、あの頃は余計な心配させたくないって、思い込んでたから、言えなくて。でもね、その日1日だけだったから、調子悪かったの。それに、智史や実香子たちも色々気遣ってくれたし、大丈夫だったから」 当時はまだ、倫子にもちゃんと心を開いていなかったことを思い、あきのは申し訳なさそうに視線を下げた。
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