心から願うもの.9









「・・・いかがでしたか? 実際にご覧になられて」
 営業スマイルを浮かべた担当の男性を前に、智史とあきのは困惑を隠せないでいた。
「いや、あの・・・俺たち、まだ研修中で・・・新米社会人に、今日の部屋はちょっと・・・」
 見せられた物件は3つ。いずれも、勤務先には歩いて5分程度で、駅からもせいぜい20分程度のところばかりだったからアクセスは悪くない。
 立地も、それなりに住宅街の中だから悪くはない。うちの1つは、部屋の中も感じが良く、正直、かなり気に入った。
 しかし。
 どう考えても、自分たちの給料の中から払っていける家賃だとは思えないものばかりだった。
 共働きだから、絶対に無理だということはないかもしれないが、将来、どちらかしか仕事が出来ない事態になったらたちまち、生活が成り立たなくなってしまうだろう。
「お家賃のことは今は置いておきましょう。私共も、椋平氏の方からくれぐれもと頼まれておりまして、正直なところをお聞かせ願いたいのです。どこか、気に入っていただけた物件はありましたか?」
 担当者の勢いに押されて、あきのと顔を見合わせると、智史は2つ目のところが良かったと答えた。
「ただ、あそこは賃貸じゃなく、分譲ですよね? 俺たちは本当にそこまで考えられないっていうか、とても手が届かないっていうか・・・」
「いえいえ、そこは如何様にでもさせていただけますよ? やはりあそこがお気に召しましたか。椋平氏も、あそこを一押しされていますしね」
「父が、ですか?」
 あきのが怪訝な表情をして問いかけると、担当者は笑顔のまま頷いた。
「はい。あそこはセキュリティもきちんとしていますし、何より先月に完成したばかりです。新築ですが、比較的お求めやすい価格設定になっていますので、そこそこにお若い方々も入居されていますし、当社としてもお勧めの物件です」
 担当者がそう言い切ると、彼宛に電話がかかってきたということで、彼は席を外した。
 事務員らしい女性に出された紅茶を口に運びながら、智史とあきのは溜息をつく。
「・・・いくらセキュリティがしっかりしててもなあ・・・」
「買う、なんて・・・全く考えてなかったものね、私たち」
「ああ。いずれはそういうことも考えてくべきなんだろうけどな。今すぐって言われても、そりゃあ無理だ。・・・お前には、悪いと思うけどな」
「そんなの・・・当たり前じゃない? 智史がさっき言ってた通り、私たちはまだ新米社会人なんだもの。新築マンションを買うなんて、分不相応よ。莫大な貯金でも持っていない限り」
 智史にはもう、貯金はないということだし、あきの自身には、亡き母から譲り受けた遺産が少しはあるが、さすがにマンションをキャッシュで買えるようなものではない。頭金くらいにはなるかもしれないが。
「・・・もうちょっと、相応の物件はねえのかなあ」
「うん・・・電話、終わったら聞いてみよう? あの人に」
「だな」
 10分近くして、ようやく担当者は電話を終えて智史たちの前に戻ってきた。
「すみません、お待たせしました。先程の物件ですが、分譲ではなく、賃貸になります。申し送りがきちんと出来ていなくて、誤った情報をお伝えしてしまいました。所有者の方が月額この金額でお貸ししたいとおっしゃっているのですが」
 彼の手元の用紙には、破格の家賃が記されていた。
「・・・え、これ、本当ですか。あの広さで?」
「はい。先程の電話はこの件でして・・・上の方からの連絡が遅くなってしまったようです。無論、お返事は今すぐでなくても、椋平氏と相談なさってからでも構いません。ただ、一考いただけるようでしたら、仮押さえをさせていただきたいと思いますので・・・いかがでしょう?」
 そう言われてしまっては、否とは言えない。
 手の届く価格で借りられるなら、智史とあきのに拒む理由はなかった。
「では、仮押さえでお願いします。父に、話してみますので」
 あきのの返事に、担当者は安堵の笑みを浮かべた。
「判りました。そうさせていただきます。出来ましたら、早めにお返事を頂けると助かるのですが」
「なるべく早く、結論を出します」
 智史もそう答えて頭を下げる。
 そうして2人は、店を出た。
 出た途端に、智史もあきのもどっと力が抜けるような感覚に捕らわれる。
「つ、疲れた・・・」
「私も・・・なんか、何がどうなってるのか・・・」
 気がつけば、時間は午後2時を回っている。
「腹も減る筈だよな・・・こんな時間になってんじゃ」
「・・・おじさまたちはまだ椋平家(うち)にいらっしゃるのかなあ・・・おかあさんとおばさまで結婚式の話を詰めるとかってことだったし」
「電話してみろよ、倫子さんに」
「そうだね」
 あきのが電話をしてみると、安志も知香もまだ椋平家にいて、結婚式の相談をしているとのことだった。
「物件を見終わったのなら早く帰っていらっしゃいな。サンドイッチやピザは用意してあるから」
「判ったわ。これから帰るね」
 あきのは通話を終えると、軽食があるから帰って来いと言う倫子の言葉を智史に伝える。
「新居の話も親父さんにしないとだし、とにかく戻るか」
「それしかないよね」
 2人は電車に乗り、椋平家へと戻った。
「ただいま」
「今戻りました」
 あきのと智史が声をかけると、何故か出迎えてくれたのは悠一郎と香穂だった。
「お帰りー、あきのさん、お兄ちゃん」
「おかえりー」
「・・・何で香穂がここに」
「お父さんから電話きてねぇ、悠くんのお守りしてほしいって。志穂ちゃんはバイトだから無理だし、私は今日はたまたま休みだったからね。あきのさんのお母さんとうちのお母さん、結婚式の話で忙しくて、この子にまで手が回らないからって。なんだかんだ言って、父親同士も意気投合してるよ、ほら」
 香穂に促されてリビングを覗くと、確かに母親同士はノートパソコンを見ながらあれこれ話をしているし、父親同士はワインを飲みながら何やら語り合っている。
「うわぁ・・・香穂ちゃんごめんね、折角のお休みを・・・」
 あきのが恐縮して謝ると、香穂は明るく笑った。
「いーのいーの、どうせヒマだったし。あきのさんのお家、前から見てみたかったし、悠くんも可愛いし。ねー? 悠くん」
「ねー」
 悠一郎も笑顔で香穂に応えている。すっかり懐いているようだ。
「それより凄いね、お母さんたちのパワーは。あきのさんのお母さんがかなりデキる人みたいだから、プランが3つくらい出来てるみたいよ?」
「え? そ、そうなの?」
「とりあえず、ご飯食べて、話を聞いていたら?」
「おねーちゃん、こっち」
 悠一郎に手を引かれ、あきのと智史は部屋に入る。ダイニングテーブルの上には綺麗に盛り付けられたサンドイッチが置かれていた。
「ああ、お帰りなさい、あきのさん、智史」
 知香が最初に気づいてくれた。
「ただいま戻りました」
「あきのちゃん、智史くん、おなか空いたでしょう。とりあえずそれ食べて、こっちで話を聞いてちょうだい。知香さんと相談して、いい感じのプランが出来たのよ」
 倫子が嬉しそうに言う。母親同士もすっかり仲良くなったようだ。
 あきのと智史は顔を見合わせて軽い溜息をついてから、とにかく食事をした。

 

 









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