心から願うもの.2






 椋平家に着くと、あきのは智史の格好に軽く瞠目した。
「えっと、智史・・・これから行くお店って、もしかして、かなりきちんとした所なの?」
「・・・きちんとって程じゃないって、聞いてんだけどな。イタリアンレストランらしい。母さんの友達がやってるってことだ」
「・・・そうなんだ。私、着替えてきた方がいいかな?」
 あきのは桜色のニットとオフホワイトの膝丈のプリーツスカートにローヒールのパンプスという格好だ。
「いや、いいんじゃね? それで。上、羽織るもん、持ってけよ。帰りが寒いかもしんねーぞ」
「あ、うん、これがあるよ」
 あきのは腕に抱えたロングカーディガンを示す。
 智史は頷くと、あきのと共に歩き出した。
 少しずつ暮れゆく空は、淡い空色になってきている。薄い雲が所々にかかって、春独特のぼかしを入れたような柔らかさを醸し出していた。
 通り道にある小学校の校庭の桜も五分咲きくらいになってきている。
「春だね、智史」
「そうだな。やっと、春が来たって感じだよな」
「ふふ、ホントにそうだよね。これでやっと、仕事に就けるんだね、私たち」
「ああ。・・・頑張らないとな、これからも」
「うん。どこに配属されるのかも心配だけど・・・でも、何科に行かされても、患者さんのために頑張るのは変わらないもんね」
「そういうことだな」
 新卒の自分たちが出来ることなどたかが知れている。しかし、指導職員や先輩たちから、しっかりと学ぶことがやがて自分たちの力になるだろう。
 そんな話をしながら歩くこと20分程で、海に近い、目当てのレストランに到着した。
「ここ?」
「その筈だ。名前、合ってるしな」
 知香に書いてもらったおおまかな地図と、店の名前のメモをあきのにも見せる。
「ホントだ。何だか、可愛らしい感じのお店ね」
 木枠のドアの脇には、プランターに植えられた華やかなプリムラが置かれている。
 ベージュ色の壁が温かな印象を与える、普通の民家のような佇まいだ。
 智史はゆっくりと扉を押しあけて中へと足を踏み入れた。あきのもそれに続く。
「いらっしゃいませ」
 やさしい声が出迎えてくれた。
 赤いエプロンをした女性は、知香と同じような年齢に見えるから、彼女が友人なのだろう。
「予約、している大麻です」
 智史が名を告げると、その女性はニッコリと微笑んだ。
「お待ちしておりました、大麻様。2名様で承っておりますが、間違いございませんでしょうか」
「はい」
「お席はこちらです、どうぞ」
 案内されたのは、店の少し奥まった、個室のような場所。裏手の小さな庭に面しており、大きな掃出し窓から、その様子が見える。
「綺麗・・・」
 あきのが感嘆の声を上げた。
 窓の向こうには小ぶりの桜の木が植えられている。まだ3分咲きといったところだが、春らしさは十分に味わえる。
 白いクロスのかかったテーブルの上には、淡いピンクのガーベラとデルフィニウムとかすみ草の可愛らしいアレンジメントが飾られていて、やさしい空間を演出していた。
「ご注文は、シェフのお任せコースで承っておりますが、何か、アレルギーや嫌いな食材はございますか?」
「あ、いえ、俺は特には」
「私も、ないです」
「判りました。お飲み物は、どうなさいますか」
「・・・どうする? あきの。ワインとか、飲むか? それとも、ジュースにしとくか?」
「えっと・・・私は、オレンジジュースで」
「じゃあ、俺はグラスワインの白を」
「判りました。お待ち下さいませ」
 笑顔の女性が厨房の方へと去っていくと、智史は少しだけ愉しそうに唇の端を引き上げた。
「あまり飲まないようにしてんだな。偉い偉い」
「あ〜、馬鹿にしてるでしょ・・・どうせ私は弱いですよーだ」
「馬鹿にはしてねーけどな。けど、酒なんて無理に飲む必要はないもんだし、いいんじゃねえ? 弱いのを自覚するのも大事なことだぜ?」
 智史の眼差しにはからかいなどはない。けれど、なんとなく面白くなくて、あきのは唇を尖らせた。
「私は多分、体質的に駄目なのよ。実母に似たんだと思う。美月お母さんも弱かったらしいから」
「そうなんか。なら、無理もねえな」
「智史は・・・強そうだよね」
「親父が強いからなぁ。母さんはほぼ、飲まねーけど」
「そっか。女性はあまり強くない人の方が多いのかな」
「いや、それも人によるだろ。男だって、弱い人はいるしな。親父曰く『飲まれないで飲むのが大事で、それぞれの限界を見極めておくことが必要』なんだそうだ」
「飲まれないで、飲む、って?」
「酔っぱらって他人に迷惑かけるような飲み方は酒に『飲まれてる』ってこと。・・・ま、親父も若い頃は失敗も色々したらしいけどな」
「そうなんだ。おじさまでもそんなことがおありだったのね」
「今でこそ偉そうだけどな。母さんにこっぴどく叱られてたこともあったぜ? 確か」
「えぇ? そうなの?」
 落ち着いてどっしり構えている風に見える安志の、意外な一面を聞かされて、あきのはふふっと笑う。
 そうこうしているうちに、飲み物と、前菜が運ばれてきた。
「サーモンと帆立のカルパッチョです」
 運ばれてきた料理はサーモンも帆立も花のようで、あきのは目を輝かせる。
「素適・・・綺麗で美味しそう」
「こういうとこのって、見た目も凝ってるよな」
 適度に散らされたベビーリーフがいいアクセントになっている。
 智史はまず、グラスを手に持った。あきのも同じようにする。
「お互いの合格を祝って、だな」
「うん。おめでとう、智史」
「あきのも、おめでとう。お互い、頑張ろうぜ」
「うん」
 軽くグラスを触れ合わせ、2人は笑みを浮かべながら飲み物を口にする。
 そして、ゆっくりと食事を楽しんだ。
 カルパッチョのソースはオレンジの味がして、爽やかな口当たりだった。それが、サーモンや帆立によく合っている。
「凄く美味しい! オレンジとお魚って合うんだね」
「しつこくなくていいな。いくらでも食えそうだ」
「うん、そんな感じ。美味しくて幸せ」
「そりゃよかった」
 満面の笑みで料理を口に運ぶあきのを見つめながら、智史も満足そうに頷く。
 知香の勧めに従って、ここを選んで良かった。
 それから、海老と菜の花のペペロンチーノに真鯛のポワレ、牛フィレのステーキと春野菜のソテーにパンまで、どの料理もあきのはとても嬉しそうに食べてくれた。
 智史自身もどれも美味しいと感じることが出来るものだったので満足していた。
 そして、コースのラストとなるデザートと飲み物が運ばれてくる。
 デザートは、何故か別々のものが置かれた。
「えっ、あの・・・」
 智史が少し驚いた顔で給仕の女性を見ると、彼女はニッコリと微笑んだ。
「甘いものが苦手な方には、ノンシュガーのコーヒーゼリーと柚子のシャーベットをお出ししています。お嬢さんは平気だとお聞きしているので、ティラミスとバニラアイスです」
「・・・母、ですか」
「ええ。でも、他のお客様にもさせていただいているサービスですから、どうぞ、ご遠慮なく」
「ありがとう、ございます」
 智史は軽く、頭を下げた。

 









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