good fortune 2
だが、この噂はいつしかクラス内だけに止まらず、他のクラスへもじわじわと広がっていったのである。 無論、取り合わない者もいた。しかし、噂好きの生徒たちには恰好のエサとなってしまったようである。 あきのと智史にとって不幸中の幸いだったのは、噂が生徒の間だけで止まり、教師の耳には入らなかったことだ。 だが、やがて噂は学年の枠を飛び越え、3年生の中にも
入り込んでいく。
「2年の椋平って、確か美術部のあの子だろ? 可愛い顔でスタイルのいい」 「ああ、確か、浩市とつき合ってた子だよな? なあ、浩市」 話を振られた野上 浩市は読んでいた本から顔を上げた。 「・・・ああ。もうとっくに別れたけどな。彼女が、どうかしたのか? 根本」 「噂だけどよ、修学旅行中に男と2人っきりでホテルにいたとかって話だぜ?」 それを聞
いて、浩市は僅かに眉根を上げた。しかし、それは側からは判らない程の微かな変化で。 「へえ・・・新しい男が出来たのか、彼女」 「その相手っつーのが、ホラ、やたら喧嘩の強いのがいるだろ? うちの学年一強いって話だった脇田をのしちまった、大麻 智史。あいつらしい」 浩市の脳裏に、目つきの鋭い、無愛想な顔が浮かぶ。 直接話をしたりしたことはないが、智史の顔と噂は知っていた。
やたらと腕っ節が強く、向かうところ敵なしだが、どちらかというと女嫌いだった筈だ。 そんな男が、あきのと関係を? 浩市の胸に暗黒の翳が差す。 椋平 あきのは美術部の後輩たちの中でも群を抜いて目立つ女の子だった。はっきりとしたサイズは聞いていないが、まずその大きな胸に視線がいくのは男なら仕方がないこと。顔立ちは大きな瞳が印象的な可愛らしい作りで、性格もよかった。誰もが、
自分彼女にしたがったが、あきのの方が意外と固く、色々な男が告白をしたが受け入れてもらえなかった。 そんな中で、浩市も彼女に告白をした。バレンタインにあきのから告白され、それを受けたのだ。 それは何もあきのを好きだから、という訳ではなく、身持ちの固い彼女を堕として、仲間内に自慢したいがため。浩市はアイドル系の甘いマスクで、女の子には人気があった。それだけに、あきのを堕とす
ことにも自信があったのだ。 しかし。あきのは浩市を拒んだ。 「恐いから嫌だ」と、あきのは言った。「知らない世界には恐くて踏み切れない」とも。それはつまり、彼女が処女だということだ。 処女を無理矢理奪うことも考えない訳ではなかったが、後であれこれと面倒なことになるのも嫌だったので、拒絶された時点で別れを持ち出した。 その彼女が。あんな、女心も解さないようにしか見えない
男を受け入れたと? 浩市にとって、それは屈辱だった。 「根本・・・その噂、信憑性はあるのか?」 浩市は大して表情を変えないまま、問いかける。しかし、その瞳には暗い炎が宿っていた。 「さあ・・・そこまでは判らないさ。ただ、結構広がってはいるぜ? この噂」 「ふうん・・・そうか」 最後は興味なさそうに呟いて、浩市は再び本に目を戻す。 けれど、その瞳は文字を追うことはなか
った。 「いいよなー。あの子となら、俺もヤッてみてー」 「さわり心地良さそうだもんなぁ」 そんな下世話な話を続ける級友たちの話を聞くとはなしに聞いて、浩市の中にはひとつの決意が浮かんでいた。
翌日。 あきのはちらちらと自分を窺う意味深な視線が、同級生、同学年だけでなく、他学年にも及んでいるらしいことに気づき、愕然としていた。 まさか、こんな
にも波紋を呼ぶとは思っても見なかったのだ。 その視線と、ヒソヒソと囁かれている噂話に、あきのだけでなく実香子や理恵も気づき、憤慨する。 「全く・・・! なんなのよ、一体!」 2時間目が終わって、生物実験室への移動途中で、実香子はプリプリしながら歩いていた。 「ホントよね・・・みんな無責任なんだから。あきのがどれだけ迷惑してるかなんてカケラも考えてないんだから」 理恵も厳
しい表情で足を進めている。 彼女たちと一緒に歩きながら、あきのは少しだけ心が軽くなるのを感じていた。 「・・・ありがとう、実香子、理恵。怒ってくれて」 「だってさぁ、あきののこと、ロクに知りもしないような子まで嘘を真実みたいに言ってんだよ? ムカつくじゃない!」 「言えるわ。しかも、陰でしか言えないクセにね」 実香子と理恵が自分のことのように怒ってくれていることが、あき
のを慰めてくれる。 「実香子と理恵がちゃんと解ってくれてるから平気よ」 「無理しちゃダメだよ? あきの。辛かったら私と実香子に寄りかかってくれていいんだからね」 力強い理恵の言葉に、実香子もうんうん、と頷いている。 温かい友人の心からの言葉が、あきのに笑顔をくれる。 「うん、ありがとう。実香子と理恵がいてくれてよかった」 「・・・クラス外のことじゃ、ね。大麻にもどうし
ようもないだろうし」 理恵が溜息をつきながら、辿り着いた生物実験室の決められた席についている智史の後姿を見つめながら言った。 「言える。うちのクラスの中はさぁ、大麻が牽制してるから大丈夫だけど。さすがにねぇ、他所の学年までなんて訳にいかないよねぇ」 実香子も溜息をついて同意した。あきのも、確かに、と思う。 ただ、このことが大きなトラブルの種にならなければいいと思い、そ
う願っていた。
しかし。 あきのの願いは叶わぬものとなる。
それは放課後のことだった。 あきのと俊也はこの日、委員会があるということで、それに出席していた。 智史は帰宅部の上、委員会とは無縁なので、あきのとは別に帰ることになっていた。 委員会自体は修学旅行の反省会、ということで、比較的短時間で終わった。あきのと智史の噂も、さすがにこう
いう公の場では持ち出されることがなかったからだ。 「僕は部活に行くよ。椋平さんはどうする?」 「うん、私も久しぶりに部活に顔出してから帰ろうかな。智史は先に帰ってる筈だし」 「そうか。じゃあ、また明日ね」 「ええ。またね、清水くん」 俊也と別れて、あきのは別棟にある美術室へと足を運んだ。文化祭はもう終わっているので、3年生は引退し、2年生の石原 輝樹が部長を務めているが、
多分、彼以外の部員は殆どいないだろう。多くの美術部員が真面目に活動するのは文化祭前くらいだ。そういう『幽霊部員』が美術部には多く在籍している。あきのも、そちら側の1人だった。 部長の石原だけは、美大を目指しているというだけあって、普段からも熱心に絵を描いている。 それから、3年生の人気者だった元副部長の野上 浩市、彼が活動していた時には、幽霊部員たちもよく美術室に来ていた。
「・・・モテモテだったもんね、野上先輩は」 小さく呟いて、あきのは苦笑する。彼との短いつき合いは、今となっては遠い過去だ。 でも、彼と別れた、という出来事があったからこそ、智史と知り合えたのだから、あきのはむしろそのことに感謝さえ覚えていた。 教室からはかなり離れた場所に位置する美術室に辿り着き、あきのはそっと扉を開けた。 中には、男子生徒の後姿が見える。白いキャ
ンバスの前で手を動かしているその姿は間違いなく石原のものだ。 「・・・こんにちは」 彼の邪魔をしては、という思いから、あきのは遠慮がちに声をかけた。 石原はちらっとあきのを振り向き、軽く頷いてみせる。 要するに、邪魔をするな、ということだ。 あきのはそっと自分のスケッチブックを取って、石原とは反対の位置にある石膏像のデッサンをすることにした。 鉛筆を取り出し、真っ
白の画用紙のページを出した時だった。 「・・・石原、顧問の倉元が呼んでるぞ」 聞き覚えのある声に、あきのははっとして顔を上げる。 「・・・おや、珍しいな。椋平さん」 女の子が騒ぐようなやさしげな微笑みを浮かべた浩市がそこに立っていた。 彼と、こうして向かい合うのは、別れの言葉を告げられて以来。あきのは複雑な思いでその笑顔を見つめた。 「先輩、倉元、職員室ですか」 「あ
あ。僕が用があって倉元のところに行ってたんだ。そのついでに、伝言役が回ってきたってわけ。早く行ってこいよ」 浩市に促され、石原は美術室から出て行ってしまった。 あきのは浩市と2人きりだ。 「・・・元気そうだね」 浩市は笑みを浮かべたまま、ゆっくりとあきのの方に近づいてくる。 「・・・はい。野上先輩も、お変わりなさそうですね」 正直、どうしたものかとあきのは思案していた。
智史を好きになるまでなら、嬉しかった筈の今の状況。こうして顔をあわせれば、確かに好きだと思っていた気持ちが甦る。 ただ、今は。あきのが好きだと思う男性(ひと)は智史だけだ。 だからこそ、どう対処してよいものか、考えあぐねていた。 「野上先輩、か・・・確かに、別れの言葉を切り出したのは僕の方だったからね。そうしか呼んでもらえないのも仕方がないのかな」
どことなく寂しそうに言う浩市の真意が図れなくて、あきのは僅かに首を傾げた。
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