あの夏が聴こえる.16







「あきの!!」
 実香子が叫ぶのとほぼ同時に、智史は倒れていくあきのの身体をしっかりと抱きとめていた。
「あきのっ!!」
 実香子が慌てて駆け寄ってくる。その声に、何事かとクラスメートたちがあきのの方を見、智史がぐったりした彼女を支えている様 子を見てざわめき始めた。
「椋平っ!?どうした!?」
 今岡先生も慌てて駆け寄る。智史はあきのを支えたまま、ぐるりとクラスメ ートたちに囲まれることになった。
「大麻、どうしたんだ!?」
 先生の質問に、智史は抑え目の声で答えた。
「急に倒れたん だ。椋平、朝から具合良くなかったみたいだしな。紺谷、お前も知ってんだろ?こいつが調子悪そうにしてたの」
「うん・・・あきの、 昨夜よく眠れなかったみたいだし、朝ごはんも殆ど食べてなかったから」
 実香子が智史の言葉を受けてあきのの様子を先生に伝えた。
「そうか・・・この暑さだ、無理してたんだな」
 今岡先生は小さな溜息をついて思案する。
 こんな状態のあきのを放っておく 訳にはいかないが、かと言って他のクラスメートたちを放っておく訳にもいかない。ここは、とりあえずバスの中で休ませるしかないだろう。 そして、念の為、医者に診せた方がいいかもしれない。
「清水、悪いが永井先生のところへ行って生徒が1人倒れたことを伝えてきてく れ。そして、暫くクラスを頼む」
「・・・解りました、先生」
 俊也はすぐに整列して歩き始めている先頭のクラスのところに同行して いる永井先生の元へと走っていった。
「大麻、とにかく椋平を休ませよう。バスの中へ」
「・・・いや、それより先生、今夜の宿に先に 入れねぇか?」
 智史の言葉に、今岡先生は軽く目を瞠った。
「ホテルにか?」
「ああ。その方が椋平もゆっくり休めるだろ。 寝不足が原因だってのなら、その方がいいんじゃねえか?」
「それは、そうだが・・・病院にも、連れて行った方がいいかとも思うしな・・・ とりあえず、バスで、と思ったんだが」
「医者は往診頼めば済むだろ?ここ見終わったら奈良公園の方へ移動すんだし、その後も何やか んやで観光することになってんだから、落ち着かねーだろ、きっと」
 智史の言うことは尤もだった。しかし、あきのをホテルへとなると、 誰かが付き添わなくてはならない。
「しかし、誰かに付き添いを頼まないと、椋平を1人でおいておく訳には・・・」
「俺が行く」
 ぼそりと呟いた智史の言葉に、先生は今度はぎょっとして彼を見る。
「お前が!?」
「俺は別に観光したいとも思わねーし。東大寺と か奈良公園には来たことあるしな。・・・それに、病人襲うよーな趣味もねぇし」
「・・・大麻・・・」
 今岡先生はうーん、と考え込んだ。 確かに、智史が病人のあきのをどうこうするような生徒だとは思わないが、万が一ということが絶対にないと言い切れる訳でもなく。
  そこへ、学年主任の永井先生を伴った俊也が戻ってきた。
 そこで、今岡先生は腹を決める。
「永井先生、暫く僕のクラスをお願い します。僕は倒れた女子生徒を今夜の宿泊先へ連れて行きますので。・・・清水、頼むぞ。そして、大麻、ついてきてくれ」
「・・・先生、私も 行きます」
 実香子がそう申し出たが、それを智史が遮った。
「心配すんな、紺谷。お前はみんなとあちこち見て回ればいい。しっか り見て、後でこいつに話してやれよ」
「大麻・・・」
 実香子に向けられた智史の瞳は思いのほかやさしげなものだった。
「解った。 あきののこと、頼むよ、大麻」
「ああ」
 智史はあきのをぐいっと抱き上げてタクシー乗り場の方へと歩き出す。
「そ、それじゃ、 紺谷、清水の言うこと聞いて、ちゃんとしててくれよ。他の者も、このまま永井先生と清水の指示に従って観光を続けていてくれ」
 今岡 先生は慌てて智史の後を追った。





 チェックインの時間には早かったが、事情を聞いたホテル側が教職員用の部屋を1つ開けてくれたので、智史はあきのをその部屋へと運び 込んだ。
 あきのの額には汗が滲んでいる。ぎゅっと寄せられた眉根が苦しそうで、智史の表情も固い。彼女の不調は知っていたのに、倒れ る前に気づいてやれなかった自分の不甲斐なさに怒りすら覚える。
 彼女の身体をベッドに下ろし、靴を脱がせた。本当なら、服装も少し緩 めてやる方が良いのだろうが・・・男の自分がそれをする訳にはいかず、実香子の申し出を断ってしまったことを少しだけ後悔した。
「・・・大麻、 本当にお前だけで大丈夫か?」
 今岡先生が固く絞ったタオルを持って部屋に戻ってきた。
「医者は?」
「まだ午前の診療が終わっ てない時間だから、午後になってからになるそうだ。・・・やはり、誰か女性の先生に頼んだ方がいいんじゃないかと思うが」
「・・・けど、よそ のクラスの担任取り上げる訳にはいかねーだろ?先生だって」
「まあ・・・それはそうだが」
「看病自体は慣れてっから、心配しなくていい ぜ」
「・・・お前、椋平が好きなのか?」
 苦笑しながら唐突に問いかけてきた今岡先生に、智史はふいっと顔を背け、目元を微かに赤くし た。
「・・・・・うっせーな。・・・悪いかよ」
「いや、悪いとは思わんが・・・こんな風に誰かのために一生懸命なお前を見るのは初めてだから。 これで相手が清水だとかいうんなら、判るがな」
「・・・しょーがねぇだろ。俺もびっくりしてんだから」
 テレたようにむすっとした表情 をしている智史に、今岡先生はフッと笑いを漏らした後、真剣な顔で言葉を紡ぐ。
「しかし、大麻、お前と椋平を2人だけでここへ置いておく となると、あらぬ誤解を招くことになるかもしれない。やはり、それはマズいだろう」
「・・・言いたい奴には言わせておけばいい。そんなモン、 とっくに覚悟してる。そうでなきゃ、俺がついてる、なんて言えねーよ」
 もう既に、クラス中の噂になっていることだろう。智史にはそんな ことはどうでもいいことだ。勿論、冷やかしややっかみが嬉しい筈はないが、あきのの寝不足のそもそもの原因が昨日の出来事に由来すると知ってい る以上、彼女の傍にいてやりたかった。あんな哀しい涙を流させない為に。
「・・・先生。昨日、椋平と紺谷が迷子になったのは、トイレを探して たせいじゃないんだ」
「大麻?・・・どういうことだ」
 智史はあきのたちが昨日巻き込まれた出来事を今岡先生に話した。
「・・・こいつの 寝不足はそもそもそれに起因してる。俺は事情を知ってるから、多分、俺がいてやるのが一番休めると思うんだ。こいつ、人にすっげ気を遣う奴だか ら」
「・・・・・」
 労るような視線であきのを見つめる智史の横顔を、先生は軽い驚愕と共に見ていた。
 普段の、今一つ真剣みが足りな い、他人のことなんかどうでもいいというような節の見られる智史からは、考えられない程の気遣いと思いやりをみせられて、やはり恩師の息子だと 思わずにはおれなかった。
「・・・判った。お前に任せる。・・・頼むぞ、大麻」
「ああ」
 今岡先生はホテルのフロントにもう一度挨拶と往 診の依頼をした後、奈良公園へと向かった。




 あきのは暗闇でもがいていた。
 下卑た笑いが、闇の中から不気味に響いてくる。それと同時に大きな、無遠慮な手が伸びてきてあきのを 震撼させた。
「い、嫌っ!!」
 逃げようとするのに、足が動かない。闇に捕われてしまったかのように、びくともしない。
「嫌あっ!!」
 必死で逃げようともがく。そんなあきのを嘲笑うかのようないやらしい笑いは、ますます大きく、響き渡る。
 ぐい、と大きな手があきの の胸を鷲掴んだ。
「きゃああぁ!!!」
「あきの!!」
 悲鳴と共に目を開けたあきのは全身で息をするかのように震えていた。
「大丈 夫か!?_」
「・・・智史・・・」
 心配そうに自分を見つめている智史の顔をとらえて、あきのはようやく、自分が夢をみていたのだと解った。
「ここ・・・どこ?」
 見たことのない場所に寝かされている。確か、薬師寺に着いたところで・・・・・。
「ここは今夜泊まるホテルだ。つっても、 この部屋は今岡先生の、だけどな」
 智史はあきのの額にそっと手を当てた。彼女の肩がびくん、と震える。
「何もしねーから安心しろ。・・・ 熱っぽいのは少しマシになったみたいだな」
「智史・・・私、どうして・・・」
「・・・ぶっ倒れたの、覚えてねーか?」
「・・・なんとなく」
「先生はバスの中で休ませるかって言ったんだけどな、俺がホテルへ連れてったほうがいいって意見したから、そういうことになったんだ」
「私・・・ また、智史に助けてもらったんだね・・・」
「・・・助けたっつーのかどーか解んねーけど。それより、お前、何の夢見てたんだ?さっきの悲鳴、ただ事 じゃなかったろ」
 言われて、あきのは俯いてしまう。昨夜智史の胸で泣いて、今朝もあれこれ慰められて尚、昨夕の事件にうなされているなんて、 言いたくなかった。そんなことを言ってしまえば、また心配をかけてしまう。
「・・・・・また、昨日のこと、か?」
 智史の口から出た言葉に、あ きのは反射的に顔を上げた。彼の瞳はどこか哀しそうだった。




 

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