あの夏が聴こえる.15







 翌日は京都から奈良へと移動し、途中の宇治で平等院の見学をはさみ、東大寺や春日大社、薬師寺を見学して奈良市内のホテルに宿泊 することになっていた。
 しかし、あきのは事件のショックと、智史と想いが通じ合った喜びとで神経が冴えてなかなか寝付けず、完全 な寝不足の状態で朝を迎えていた。真夜中に見た夢が、昨夕の出来事そのままだったことが、余計にあきのの眠りを妨げる要因となっていて。
 あきのは起床時間の6時半より1時間以上も早い5時にはきちっと制服を着て、そっと部屋を抜け出した。
 昨夜、智史と行った 中庭へと足を向ける。ガラスの扉を開けると、少しひやりとした空気が肌に当たった。
 中庭は明るい陽の光の中で見ると、意外と狭いことが 判った。昨夜は暗かったので、そうは見えなかったのだが。
「・・・こんな、だったんだ・・・」
 あきのはサンダルに履き替えて庭へと 降り立った。そして、沈丁花らしい木の間にある庭石に座って空を見上げた。
 明けたばかりの空は薄い水色で、どこか寂しげに見えた。
 昨夕のことが頭から離れない。智史の胸であんなに泣いたのに。泣いて、すっきりしたと思っていたのに、そうではなかった。
  友達は羨ましいと言うが、あきのは自分の体型にコンプレックスを持っていた。身長は162cmで、体重もそう重い訳ではないが、俗に言うナイ スバディで、ブラのサイズはEカップ。この、胸の大きさがあきのの最大の悩みの種になっている。
 この胸のお陰で、どうしても男性の 視線を集めてしまい、影で既に経験がある筈だとか、何人もの男の子と関係してるだとか、挙句にはヤッてみたい、などと言われていることを不 幸にも聞いてしまったこともある。満員電車の中で痴漢にあったこともあった。
 夏の始めにつき合っていた先輩と別れて以来、あまり そういうことを意識せずに済んでいたのだが、昨夕のようなことがあると否応なしに思い知らされるのだ。
 好きで、こんな体型になっ た訳ではないのに。どうして、外見だけで自分を判断しようとするのか。
 あきのが、男性と深くつき合うことを避けたがるのは、根底に 嫌悪感があるからなのだろう。
 それなら、智史に対してもそうなのではないか。
 今までのところ、智史はあきのの体型をじろじろ 見たりすることはなかった。彼からはそういうあからさまな視線を感じたことはない。それは俊也にもいえることなのだが。
 だから、夏 以降はあきのもあまり気にせずにいられたのだ。
 でも、今までとこれからは、違う。自分は智史とつき合うことになったのだ。彼のことを 好きだという気持ちに嘘はないけれど、もしも、求められたとしたら、応えられるのだろうか。
 先輩とはダメだった。どうしても応えられ なくて、結局別れを告げられた。なら、今度も、智史ともそうなってしまうかもしれない。
「・・・私・・・私は・・・」
 誰にともなく呟いて、 あきのは自分の肩をぎゅっと抱きしめた。
「・・・・・もしかして、あきのか?」
 不意に小さな声が聞こえて、あきのはビクッとして振り向 く。智史が驚いた様子で近づいてきていた。
「智史・・・どうして・・・」
「・・・何か、今朝は目が覚めちまって・・・」
 そう言って笑みを 浮かべた智史の顔は、すぐに真剣なものに変化した。
「お前・・・あんまり寝てないだろ」
「うん・・・実は。でも、そんなに、判っちゃう?」
「目、真っ赤だ。それに、なんとなくだけど顔も腫れてる。・・・・・やっぱ、まだ引っ掛かってんだな」
 智史に言われて、あきのは唇を噛 んだ。
「・・・私・・・やっぱり、こういうの、ダメみたい・・・」
「・・・ま、平気な方がヘンなんだろうな。俺は、女の気持ちは解んねえけど。 それでも、やっぱ、平然としてろって方が無理だって気はする」
「智史・・・」
 どうして彼はこうなんだろう。女の気持ちなんて解らない、 と言いながら、あきのの痛みを察してくれる。
「智史・・・私、あなたとも、ダメかも、しれない・・・そんな私が、いいのかな?あなたのこと、好 きでいても」
 呟くような小さな声で言うあきのに、智史は暫くじっとあきのを睨むように見つめて、がくっと肩を落とすように息をついた。
「お前、バカか?」
「え?」
「そんな、いつになるかも判んねーこと、今から心配してどーすんだよ」
「・・・でも・・・」
「お前、夏に俺があの公園で言ったこと、覚えてるか?・・って、そんな前のこと、覚えてる訳ねぇか」
「・・・ううん、覚えてるよ。だって、あ の時言ってくれた智史の言葉で、私、救われたもの」
「俺、『そういうのってどっちもの気持ちがかみ合わないと成立しないもんだ』って言 わなかったっけ」
「・・・言った」
「それ、その場しのぎの出任せじゃねえから。俺の本心だぜ?・・っつーか、俺はずっとそういう風に教え られてきたし、それでいいと思ってる。・・・それとも、お前、俺とそういうコトしたいのか?」
 あきのはふるふると首を振った。
 智史 のことは好きだ。でも、だからといって智史と深い関係になるのは怖い。それが今の、嘘偽りないあきのの本心だ。
 智史はそんなあきのの 反応を見てフッと苦笑する。
「・・・だろ?なら、俺はそんなコトはしない。だいたいだな、俺とお前、つい昨日、お互いの気持ち言い合ったば っかだぜ?それでそんな心配するか?普通」
「・・・・・でも、智史はホントにそれでいいの?私・・・」
 なおも言い募ろうとするあきのに、 智史は大きな溜息をついた。
「お前ねぇ・・・何でそうなるんだ。俺、別にお前の外見に惚れた訳じゃねえよ?外見も中身も全部ひっくるめてお 前、だろ?違うか、あきの」
「智史・・・」
「お前は?俺を好きって言ってくれてっけど、俺の外見だけに惚れたのか?・・・ま、そりゃあ、外 見も中身も威張れねーけどよ、俺は」
「そんなこと・・・智史はかっこいいよ・・・」
 確かに目つきは怖いが、智史はなかなかに整った顔立ち をしているとあきのは思う。背も高いし、これでもっと女性に対して愛想が良ければモテるだろう。
 でも、智史の良さは外見だけではない。 彼のやさしさがあきのの心を捕らえたのだ。
「でも・・・智史の言いたいことも、解る・・・大事なのは、私が智史の中身を好きになったのと同じだ って、そういうことでしょ?」
「ああ。まず、そこだろ?お互いの気持ち、大事にしてくとこから、始めるしかねーんだから、それ以外はなる ようになれってこった」
 智史は苦笑している。確かに、始めたばかりの自分たちが気にしても仕方のないことだと言えるのだろう。昨日のこ とがあって、あきのは少々過敏になっているのかもしれない。
「・・・ごめんね、智史・・・私、おかしいよね、今日。自分でも、ヘンだなと思う。 気にしても、今すぐどうこうなる筈のないことなのに」
「・・・昨日の今日だからな。お前、今日、無理すんなよ?キツいぞ、今日の日程は」
 智史は心配そうにあきのの顔を見つめる。昨日の天気予報によると、今日は9月上旬並の暑さになるだろうと言われている。寝不足の彼女にはそ れだけで堪えるのではないかと、智史は思った。
「大丈夫だよ、多分。何とかなるでしょ」
 無理に明るく笑ってみせるあきのに、智史は ふう、と息をついて、彼女の頭を軽くぽんぽんと叩いた。
「ヤバくなったら言えよ?俺でも、紺谷でも先生でもいいからな」
「・・・ありが と」
 暗く沈んでいた気持ちが少しだけ明るくなった。あきのはゆっくりと立ち上がって、智史と共にホテルの中へと戻っていった。




 あきのは朝食を殆ど残したままの状態で出発した。
 味噌汁をほんの数口食べただけの彼女を、実香子や理恵は心配したが、何とか笑っ て誤魔化しての奈良行きとなる。
 宇治での観光はどうにか終えたものの、寝不足と食事をしていないことでの血糖不足とで、宇治から奈良ま でのバス中ではうとうととし続けることになり、奈良市内に着いて最初の観光場所である薬師寺の駐車場でバスを降りて、クラスの点呼をしている あきのの顔は真っ白だった。
「・・・あきの、ホントに大丈夫?」
 実香子が心配して声をかける。全身のだるさを覚えながらも、あきのは懸 命に笑顔を作った。
「大丈夫・・・ありがとう・・・」
 女子全員の人数を確認して俊也に伝え、自分の列に戻ろうと踵を返した時、あきのは不 意に目の前が真っ暗になるのを感じ、そのまま意識を失った。


   



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