菜園日記2024年12月
2024/12/01 12月に入りました。 15、6度の気温を暖かいと感じるような日が続いています。 昼から畑へ。 葉物野菜を幾つか間引きしつつ、収穫。 あとは、草抜きと水やり。 畑の野菜は概ね順調な様子です。 もう少ししたら、収穫できるものもでてくるでしょう。 ・・・・・・ 2024/12/08 そろそろ着るものも本格的な冬支度が必要となってきました。 昼から畑へ。 道中ぽつぽつと雨が落ちてきましたが、畑に着くとなかなかの本降りになりました。 ダイコン1本、コマツナを間引きつつ収穫して、早々に退散いたします。 ダイコンは(間引き菜を除いて)今年の初収穫となりました。ちょっと形はいびつではありましたが、なかなかの大きさに育っていました。 ・・・・・・ 2024/12/21 寒くなりました。 先週は旅行のため、畑はお休みとなってしまいましたので、2週間ぶりの畑です。 この時期ですから、雑草もあまり伸びていません。ネギを初収穫。 ダイコンはあまりいい形ではありませんが、それなりの大きさのものを1本。 あとは、葉物野菜をいろいろと収穫できました。 キャベツやブロッコリーなどはまだ少し時間がかかるようです。 水やりをして退散。 ・・・・・・ 2024/12/30 今年最後の畑となりました。今年と言えば、やはり異常な猛暑となりますが、しかし、毎年毎年の「異常」というのも表現としてもおかしく、日本の夏は新たなフェーズに入ってしまったということなのでしょう。 昼から畑へ。 ダイコンを2本、ネギを数か所収穫いたします。 葉物野菜も少しずつ収穫。 今年は猛暑から急に冬となったためか、ブロッコリーやカリフラワーの生長がとても遅いように感じます。 草抜き、水やりをして、今年の畑仕事は終了です。 |
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毎年11月後半から12月中旬にかけて、いわゆる「喪中はがき」がたくさん届きます。 年賀状等をいただいているのは、やはり同年代の方が多いのですが、この歳になりますと配偶者の方が亡くなったという知らせも多くなります。 一方で今でも多いのは、親御さんの亡くなったお知らせです 我々の年代ですから、ご両親といっても90代半ば以上になるでしょうか。 ご不幸なお知らせではありますが、42歳の時に父を享年71で亡くした私としては(失礼ながら)ある意味羨ましく思う長寿のお知らせでもあります。 この冬、マンションのポストに1通の封書が入っていました。 郵便料金の改定があったためかたくさんの少額切手が貼ってあり、差出人は知らない方でした。 しかし、住所を見てすぐに分かりました。 その差出人は、大学時代の同級生の奥様でした。 そうしますと、手紙の内容は読まずとも分かります。 Oさんは、大学時代の同級生でした。 少し年上でしたので、Oさん・・・と、さん付けで呼んでいました。 大学に入って間もない頃、Oさんの下宿に伺ったことがあります。 アパートではなく、間借りという感じの部屋でした。 暗い照明の部屋で、奥に大きなオープンリールのテープデッキが置いてありました。 Oさんによれば(当時発売されていた)ビートルズの全曲を入れて持ってきたとのことでした。 我々の時代、学生のほとんどは電話などつけていませんでしたし、テレビを持っている者も少数派でした。 しかし、テレビを持っていない学生の多くもステレオ装置は有していました。 私もテレビは持っていませんでしたが、上京後すぐに神田で購入した安物のステレオで好きなレコードを繰り返し繰り返し聴いていました。 Oさんとは日常的によく遊んだ・・・という仲ではありませんでしたが、同級生の作った「民宿研究会」なるものの活動で、秩父に一泊旅行に行ったことをよく覚えています。 また私の実家が京都にあるということで、同級生数人で私の実家に泊まって京都観光をしたことも懐かしい想い出の1つです。 今一つOさんで印象深いことは、高田馬場のビリヤード場でアルバイトをしている姿です。 当時、東京でビリヤードといえばいわゆる「四つ玉」がメインであり、それは(・・・私的な感覚ですが)ローテーションのように一種派手なアクションもなく、徹頭徹尾きっちりとしたテクニックが必要なゲームでした。 私も少しはビリヤードをしていましたが、Oさんはメキメキと腕を上げてその差は明白なものとなりました。 その後、大学生活も後半になりますと私はあまり学校に行かなくなり、Oさんと会う機会も減りましたが、Oさんが卒業して実家に戻るとき、どういうわけか私ともう一人の同級生のバイク友達で、Oさんをバイクに乗せて千葉のご実家まで送っていくこととなりました。 私は千葉への道路にも詳しくなく、夜間に寒い風の中、ひたすら走り続けていたことを覚えています。 Oさんは大学卒業後、岐阜県多治見高校の窯業専攻科に入り、本格的に陶芸の勉強を始めました。 実はこの辺のことはあまりお聞きしていなかったのですが、それから13年ほど後、私が東京勤務の時にOさんから東京での展示会の案内状がきました。 Oさんの陶芸作品のものです。 その会場に行ってみますと、お客さんも何人もおられ、どこかの営業マンでしょうか「O先生」「O先生」と追いかけて話をしていました。 バブルの余韻がまだまだ覚めない時代でした。 私は陶芸のことぱよく分かりませんが、それでもOさん作の白い磁器の美しさに感心していたことを覚えています。 陶芸に関して、奥様からの手紙には、多治見高校での研鑽の後、北海道滝川市陶芸センターで45年間勤められたこと、陶芸作品については数々の賞を受賞されたこと、国内外の美術館に多く収蔵されていることなどが記されていました。 東京で再会した後、Oさんとは年賀状のやり取りぐらいしか交流はありませんでしたが、その最後が奥様からの手紙となってしまいました。 病気に関しては、「2008年の血管炎性肉芽種症の診断から、入退院18回、手術11回・・・」と書かれていました。 私も64歳で癌に罹り、その後もいろいろな病気で入退院を繰り返してきましたが、入退院18回、手術11回という状況はそんな私ですら想像できないほどのものです。 この病気は指定難病であり少し調べてみましたが、私が安易に説明できるような病気ではないと思われます。 敢えて切り詰めて書き出しますと、発熱、全身倦怠感、食欲不振などの炎症を思わせる症状と、鼻、眼、耳、咽喉頭などの上気道および肺、腎の3つの臓器の炎症による症状が、一度にあるいは次々に起こってくるような病気のようです。 大変な闘病生活であったと想像いたします。 「もう入院はしたくない、家にいたい」との本人の強い希望で自宅療養に切り替え、そして、2024年10月14日に71歳で永眠したとのことでした。 一葉のハガキではなく、彼の人生を愛のこもった長文の封書で報告していただいた奥様に心から感謝いたしたく思います。 ご冥福をお祈りいたします。 |