菜園日記2024年4月
2024/04/07 4月に入りました。 今年は暖冬で桜も早く・・・と言われていましたが、逆に遅い桜となり、本日ぐらいが満開の京都です。 小畑川の桜を観て、畑へ。 エンドウに長めの支柱を立てます。早くも小さな実をつけています。 ブロッコリー、キャベツ、正月菜を終わりにします。 一番西側のキャベツやブロッコリーなどの跡地に腐葉土を入れて、スコップで荒起こししておきます。 先週全てを抜いたダイコンの跡地も同じく荒起こししておきます。 キャベツ、ネギ、ブロッコリーなどを収穫。 秋冬野菜はほとんど終わりとなりました。 ・・・・・・ 2024/04/14 暖かな春という状況をはるかに超えて、夏日の京都となりました。 昼から畑へ。 ネギ、ホウレンソウ、壬生菜を終わりにします。 ・・・まぁ壬生菜は既に菜の花状態となっていましたが・・・ それらの跡地に腐葉土を入れて荒起こししておきます。 秋・冬野菜は全てなくなり、畑に残るのは、冬を越してきた玉ねぎ、ニンニク、エンドウ、ソラマメの4種となりました。 暑い日が続きますので、たっぷりと水やりをして退散いたします。 ・・・・・・ 2024/04/20 本格的に夏野菜の準備をする時期となりました。 腐葉土を入れて荒起こしする箇所は残り1か所となっています。その正月菜の跡地を荒起こしいたします。 一番西側の畝の南半分に、化成肥料、石灰を入れて耕し、畝を作ります。 エンドウを10個ほど収穫。 後は、草抜き、水やり等々。 ・・・・・・ 2024/04/27 ゴールデンウィークが始まりました。私は例によって、畑仕事ではあります。 先ず、ケーヨーデイツーに寄って、ナスの苗、トマトの苗を3つずつ購入いたします。 畑の西側の畝の南半分に支柱を立て、そこにナス、トマトを定植します。 東側の畝の北半分のところに化成肥料、石灰などを入れ鍬で耕します。本日はその工程の半分ほどで止めておきました。 エンドウを少し収穫。 タマネギはあまり調子がよくありません。根も膨らんできませんし、葉も黒くなったりの部分が目立ちます。病気かもしれません。 ・・・・・・ 2024/04/28 30度を超える暑さの日曜日となりました。 昼から畑へ。 昨日、やりかけとなっていた東の畝の北側をまた少し耕し、支柱を立てておきます。 その畝の南側に、化成肥料、石灰などを入れて鍬で耕し、畝を作ります。 またエンドウを少し収穫。 タマネギは今年はちょっと失敗かもしれません。玉ねぎは毎年作っていますが、このようにダメになるのは初めてのことです。何かの病気でしょうか。 |
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私は1970年に高校に入学しましたが、ちょうどその年にデビューした女性アイドルグループがありました。 スリー・キャッツ(*)の「黄色いさくらんぼ」をカバーしたデビュー曲で、メンバー全員がハーフ(という設定)のゴールデン・ハーフ(Golden Half)というグループでした。 結成当時は5人でしたが、すぐに1人が抜けて4人組になり、その4人時代に人気絶頂期を迎えます。 * スリー・キャッツ:1959年結成の日本の女性3人組コーラス・グループ。「黄色いさくらんぼ」のヒットで知られています。 ・・・・・・ いろいろな「再会」を演出してくれるSNSには以前からたびたび感謝しておりますが、またまたSNSをきっかけとして、この春、ン十年ぶりに高校2年の時の仲良しグループのメンバー全員と一堂に会することができました。 ピールを飲みながらのランチ会でした。「久しぶりー」などという会話はほとんどなく、初めから昨日も会っていた感じで、「俺、お前」の話が続きます。 学生時代の友人だけにある関係性ではあります。 彼らとは、高校2年の時に同じクラスとなり、毎日のように集まっては遊んでいました。 我々が通っていたのは京都の公立高校ですが、当時のそれは全国的にも有名な一種異常と言っていいほど「自由」な高校でした。 特に近隣の県に住んでいた同年代の方は、その状況を知っていますから、今も「私も京都の公立高校に行きたかった」という人が少なからず存在します。 もちろん制服などはなく、私は肩までの長髪姿でしたが、当時はまだ長髪、ジーパンで通学する高校生は極めて少数でした。 多くの生徒はバイクに乗っていましたが、バイクで登校することも自由でした。 私など、その高校から歩いて5分の距離に自宅がありましたが、日によってはバイクで登校していました。 また、一週間に何コマ授業があるかによって、それぞれの教科の「単位数」みたいなものが定められていて、その数の何倍までは欠席しても大丈夫というルールが皆のよく知るところでした。 そのため、ごくごく普通の生徒も普通に授業をさぼっては映画に行ったり、喫茶店で集まってタバコを吸ったりしていました。 もちろん、その高校でもタバコは不可でしたし、それ以前の法律的問題ではありますが、多くの生徒が外から透けて見えるシャツの胸ポケットにタバコとライターを入れていました。 当時は、タバコを吸うからと言って生徒間で特に「不良学生」的に見なされる雰囲気もありませんでした。 私は、確か1年生の時、美術の作品提出などが全くできておらず、そのままでは0点、落第となってしまいますので、自宅で想像の風景画を水彩で描いて、美術の教官室へ提出しに行ったことがあります。先生から見ると「想像の写生画」であることは一目瞭然でしたが、私も0点となるわけにはいかず、その絵を前にいろいろと話しをしていた時、その美術の先生は私に向かって、「おいM君、タバコを1本くれ」と言ったのであります。 私は当然1本のタバコを差し上げ、火をおつけし、いろいろとお話をして、「これでなんとか落第にはならないだろー」と退室いたしました。 結果として、その「想像画」にはそれなりの点数をつけていただきました。そんな滅茶苦茶なことも、記憶にあります。 まぁ今思えば、全世界的な「異議申し立て」ムーブメント真っ盛りの1970年代前半期の、そして政治的状況がある意味独特であった当時の京都の、一種異様な風景でありました。 この日ン十年ぶりに集まったメンバーも皆バイクに乗っていましたので、バイクに跨ってはちょっと遠方の喫茶店に走ったり、どこかの公園でおちゃらけた写真を撮ったり、誰かの家に集まっては取り留めのない話を延々としたり・・・という毎日でした。 グループ一番のイベントは、1泊3日で紀伊半島一周のツーリングに行ったことでしょうか。 1泊3日というのは、時間やお金を節約するために1日目の夜は寝ずに走っていたからです。 しかし、特に観光地の想い出もなく、ただひたすら走っていた記憶しかありません。 (その旅行時に撮った写真を見ましても、名所旧跡らしき光景は全くありません。走って食事、走って休憩、そしてまたひたすら走るという3日間であったのでしょう。) 時期は高校2年と3年の間の春休みであったと思います。 まだまだバイクで走るには寒い時期でした。また当時は今のように優れた防寒服もなく、普通に街を歩く格好てバイクを走らせていました。 それでもそれほどの寒さを感じなかった年代でした。 今一つよく覚えていますのは、夜にギターを抱えて、嵐山の河川敷(*)で歌を歌っていたことです。 嵐山というのは、今、観光客で溢れているその名勝嵐山のことですが、当時はそれほどの人混み状態もなく、我々にとっては近所にある大声をだして歌ったり(あるいは夏に肝試しを)するのに便利な場所の1つでした。 * 嵐山のふもとを流れるその川は何かと言いますと、なかなか複雑な区分の名称となっています。保津川下りで有名な急流の保津川は嵐山付近で静かな流れとなって大堰川と名前を変え、さらに渡月橋をこえると桂川となります。 まあとにかく、昼も夜も、授業時間も放課後も休日も一緒に行動していました。 文化祭のこと、校内の卓球大会のこと等々、高校生らしい?!思い出も数限りなくあります。 * 今回の久しぶりの終結時に話のネタになればと昔のアルバムをひっくり返していたのですが、しかし、当時のカラー写真はすっかり変色して薄く消えかけの状態になっていました。当時はまだカラー写真が一般化し始めた頃で、その程度の品質だったのでしょう。もちろん当時の写真はアナログ的にプリントされたものを1枚1枚アルバムに貼って保存するわけですが、そのアルバムは今と基本的構造は一緒で、ページごとにフイルムをめくり、台紙の粘着テープの上に貼っていく形のものでしたが、その糊の性能も悪いのか劣化しているのか、今台紙からはがそうとすると写真がびりびりと破れたりしてしまいます。そんな時代でした。結果的には、当時の写真を上手くコピーすることはできず、ページごとコピーして持っていきました。 高校2年生とは、しかし、象徴的な1年間ではあります。 セブンティーンという言葉もやはり特別な時空間を表すものなのでしょう。 「SEVENTEEN」というタイトルの、あるいはそれを内容とする楽曲は世界中に何百と存在するでしょう。 (まあ私は3月も最終日の生まれですから、高校2年はずっと16歳ではありましたが…) その時空間を彼らと一緒に過ごせたことをとても嬉しく思います。 そんな時、この遊び仲間に何かグループ名をつけようという子供らしい発想が生じ、考えた末のグループ名が「Golden5」でした。 冒頭に書いたゴールデン・ハーフ(Golden Half)の真似かもしれません。 あのマイケル・ジャクソンをリード・シンガーとして1969年にデビューしたスーパーアイドルグループは、ジャクソン5でした。 その真似であるのかもしれません。 沖縄出身の5人兄弟が、フィンガー5として大人気を博したのは1972年になってからのことでした。 「個人授業」、「恋のダイヤル6700」、「学園天国」などなど懐かしい曲ではあります。 このグループ名には我々の方が先行していますから、これは我々が真似をされたのかもしれません。 さてさて、その名のとおり我々のグループも当初は5人でしたが、すぐに1人が、こんな遊び惚けてばかりいる連中とは別れたい!と高校生として的確な意見を表明し、我々は4人組となりました。 その後彼らとは、一時的にすれ違ったり、短時間会ったりしたこともありましたが、基本的には50年以上ぶりの再会、再結成となりました。 最高のGolden Timeでした。 50年後にまた同じ時空間を共有できたことをとても嬉しく思います。 また会いたいものです。 |
![]() ![]() (1泊3日ツーリング) |
![]() ![]() (京都の街を爆走する4人・・・ 暴走ではありません・・・) |
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