菜園日記2024年1月



2024/01/14

 全国都道府県対抗女子駅伝競走大会の実施日なので、交通規制を迂回して畑へと走ります。
 先週は都合により畑はお休みでしたので、2週間ぶりの畑となりました。
 新年初めての畑でもあります。
 冬野菜が豊作となりました。
 ダイコン、ネギ、ブロッコリー、カリフラワー、壬生菜、正月菜等々と収穫いたします。
 最近、ブロッコリーの頂花蕾が2つできる現象がよくあり、側花蕾のできないカリフラワーにも同じ現象ができたらいいなぁと思っていましたら、なんとそのようになっていました。
 不思議な現象が続いています。
 後は、草抜き、水やりをして退散いたします。

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2024/01/21

 午前中、雨が続いていましたが、昼には止み、暖かな日曜日となりました。
 畑は、雨でかなりヌルヌル状態でしたので、本日は作業はなし、収穫だけすることといたします。
 ハクサイを初収穫。大きなハクサイです。
 キャベツ、ブロッコリー、ネギ、壬生菜、正月菜など冬野菜が豊作でした。

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2024/01/28

 暖かさの少し戻った(1月の下旬にこのような表現もおかしいですが・・・)日曜日となりました。
 1月も早くも最後の日曜日です。
 ニンニクや玉ねぎのところに根を深く張る草が密集していましたので、それらを丁寧に撤去いたします。
 ネギ、ブロッコリー、ダイコン、壬生菜、ホウレンソウなど本日も冬野菜がたくさん収穫できました。



   
 



 歳を重ねるとともに、若い時に多々あった好き嫌いはだんだんと減ってきましたが、歳を取ったからこそ「嫌いな言葉」となったものもあります。

 私の場合、その1つは「情けは人の為ならず」という言葉です。
 言葉そのものというよりは、その一般的な解釈や受け止められ方、喧伝のされ方などが大嫌いなのですが、この言葉はしかし、間違った(と思われる)解釈が流布されているものでもあり、その在り方に不思議な感があります。
(この不思議な感じは、この後段を書いていて少し分かりましたが、ひょっとしたら我々の世で極めて一般的な物事を私が不思議に思っているだけのものかもしれません。)

 「情けは人の為ならず」という言葉で、よく間違った解釈と「伝えられ」「否定されている」ものは次のようなことです。

 「情けをかけることは、結局その人の為にならない(ので、すべきではない)」

 これはある意味、「情けが仇(相手にかけた情けが逆に悪い結果を招く)」と同じ理解のものと言えるでしょう。
 文章を直訳的に理解するとこのようなことになるのかもしれません。

 この解釈については、マスコミや、のみならず文化庁の『国語に関する世論調査』でも繰り返し報じられたりしていて、特に若者の解釈の間違いが「ヒドイ」例としてやり玉にあげられています。

 そこで正しい解釈とされているのは次のようなものです。

 「情けは人の為ならず」は、「人にかけた情けは巡り巡って自分のためになる」という意味のことわざです。
 「人の為ならず」は「その人のためにならないのでよくない」という意味ではなく、「巡り巡って自分の為になる」という意味なのです。

 一般的なそして文化庁公認の「解釈」です。
 この理解に基づいて、この言葉はよく講演会や教育の場で語られたりします。

 しかし、私は、この言葉の理解そのものはともかく、その理解を良しとする人々の在り方、さらにいえばそのような考え方で人に勧められている状況等々が大嫌いです。

 「巡り巡って自分のためになる」ことを目的として人に情けをかけることが推奨されるのは適切な在り方なのでしょうか?

 そのようなことが、例えば、ボランティア団体における講演の中で使用されたりするということは、「巡り巡って自分のためになる」ために皆さんはボランティア活動に励んでくださいねという呼びかけなのでしょうか?

 また例えば、大災害の時に現地に飛び込んで懸命に援助を行う人たちは、「巡り巡って自分のためになる」ためにその活動を行っているのでしょうか?
 あるいは、そのようなことを少しでも「意識」しているのでしょうか?

 様々な活動に懸命になっておられる方々は決してそのような考え方で行動しておられるとは思えません。
 そして、上記のような理解に立って人々の意識を「高めよう」と考え、多くの人を相手に講演をするエライ人が存在するのであれば、それは、現場で熱心に働く人々に対して非常に失礼な行為ではないかと私は思っています。

 この言葉の起源については、さまざまな説があるようです。

 1つは、この言葉の由来は鎌倉時代の軍記物語「曽我物語」であるという説です。
 曽我物語にこの記述が登場して以降、多くの物語や謡曲に「情けは人の為ならず」が見られるようになったと言われています。
 「情けは人の為ならず、巡り巡って己がため」という言葉が先にあり、そこからこの言葉が生まれてきたという説もあります。
 上記の説が正しければ、現在の一般的解釈は正しいということになるでしょう。

 しかし、私は、もう1つの説に注目したいと思います。

 それは、「情けは人の為ならず」という語は、新渡戸稲造が作った詩の一部分から来たというものです。

 「情けは人の為ならず」は、大正4年発売の『一日一言』に書かれています。
 『一日一言』の「4月23日“恩を施しては忘れよ”」全文は以下のとおりです。

 「施せし情は人の為ならず おのがこゝろの慰めと知れ
 我れ人にかけし恵は忘れても ひとの恩をば長く忘るな」
(新渡戸稲造『[新訳]一日一言:「武士道」を貫いて生きるための366の格言集』PHP研究所、2016)

 訳しますと、「情けは他人のためではなく自分自身のためにかけるものだ。だから自分が他人にした良いことは忘れてもいい。
 でも、人から良くしてもらったことは絶対に忘れてはいけないよ。」ということでしょうか。

 一般的な解釈となっている「情をかけておけば,それがめぐりめぐってまた自分にもよい報いが来る」という理解は、新渡戸稲造の詩を元ネタに、読み手により分かりやすく改変されたものかもしれません。

 元ネタは、しかし、一般的な解釈とは少し違っていて、「情けは人の為ならず」の意味は「情けは自分の心の満足のためにかけるものであって、見返りを求めるものではない」ということになるのでしょうか。

 言葉としての起源がどこにあるのかは別として、新渡戸稲造的な解釈、理解が私にはしっくりときます。

 同様な使われ方、理解のされ方をされているものに「たらいの水」の話があります。
 これは二宮尊徳の話なのてすが、「情けは人の為ならず」と同様、教育や福祉の現場などでよく紹介されている話です。

 これも一般的な理解で言いますと、
 「たらいの中の水を自分のほうに引き寄せようとすると向こうへ逃げてしまうけれども、相手にあげようと押しやれば自分のほうに戻ってくる。だから,人に譲らなければいけないのです。」
というお話です。

 そして、この話をネタにして、学校の先生は子どもたちに教育いたします。

 「優しくしたら優しくされる。友達を助けたら困っている時に助けてもらえる。いじめたらいじめられる。悪いことをすれば悪いことをされる。」

 これまた、「情けは人の為ならず」と同様の私の嫌いな状況が生まれています。

 二宮尊徳は、10代前半で両親と家・田畑を失い,親戚の家に身を置いて働きながら苦学を続け、相次ぐ飢饉に苦しんだ江戸時代末期の荒廃した農村再建に一身を捧げ、生涯をかけて600余の農村復興を果たした人間です。
 その二宮尊徳が、このような因果応報的な、利害から人間関係を考えるような話を本当に上記のような解釈の下に語ったのでしょうか?

 二宮尊徳の七代目子孫であるの中桐万里子さんは,この話について以下のように伝え教わったと書いています。

 「人間は皆,空っぽのたらいのような状態で生まれてくる。つまり,最初は財産も能力も何も持たずに生まれて来る。そして,そのたらいに自然やたくさんの人たちが水を満たしてくれる。その水のありがたさに気づいた人だけが他人にもあげたくなり,誰かに幸せになってほしいと感じて水を相手のほうに押しやろうとする。そして,幸せというのは,自分はもう要りませんと他人に譲ってもまた戻ってくるし,絶対に自分から離れないものだけれども,その水を自分のものだと考えたり,水を満たしてもらうことを当たり前と錯覚して足りない,足りない,もっともっと,とかき集めようとしたりすると,幸せが逃げていく。」
(中桐万里子『二宮金次郎の幸福論』致知出版社、2013)

 幼少期に薪を背に『大学』を一心不乱に読む姿で親しまれてきた二宮金次郎=二宮尊徳の像は、昔の小学校にはどこにでも必ずありました。
 「情けは人の為ならず」と同じく、一般的な解釈や流布のされ方と違って、「勤労・勤勉」の代表者である二宮尊徳にふさわしい姿はやはり後段の中桐万里子さんの伝える言葉ではないかと思います。

 しかし、因果応報的な、あるいはプラス・マイナス的な考え方で人々の行動を「律しよう」とするような考え方が勧められている社会は、やはり私の大嫌いな社会ではあります。


1月末の畑の様子


ハクサイ

キヌサヤ

スナップエンドウ

ダイコン

カリフラワー


ブロッコリー


キャベツ


正月菜


 タマネギ



ネギ

キャベツ

ブロッコリー


コマツナ


ニンニク


ダイコン

壬生菜


レタス

キャベツ

ソラマメ


ネギ


ホウレンソウ


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