菜園日記2022年11月
2022/11/06 11月に入りました。 昼から量販店で、水菜と菊菜の苗、そしてビーツと壬生菜の種を買って畑へ。 西側の畝のエンドウの北側に水菜と菊菜を植えました。その北側に壬生菜とビーツの種を蒔きます。これで畑は全て冬野菜で埋まりました。 エンドウはまだあまり大きくありませんが、倒伏しないように支柱を立てて、紐で留めておきます。 ダイコンとニンジンを間引きます。小さな根が形となってきています。 あとは全体に草抜き、水やり等々。 2022/11/12 非常に暖かな土曜日となりました。 朝から畑へ。 道中は他府県ナンバーの車でかなり混んでいました。 全体的に、追肥、土寄せなどをいたします。 ニンジン、ダイコンそしてコマツナを間引きます。 先週種を蒔いた壬生菜とビーツはまだほとんど発芽を確認できません。 草抜き、水やり等々。 2022/11/20 冬が近づいてきました。 雨の止むのを待って、昼から畑へ。 少し前に種を蒔いた壬生菜とビーツですが、ビーツが全く発芽していませんでしたので、再び蒔きます。ただ、時期的にもう遅いのかもしれません。 ダイコン、ニンジン、コマツナを間引きながら収穫いたします。 カリフラワーは頂花蕾を見せ始めました。 草抜きなど。 2022/11/27 所用のため、今週は畑には行けませんでした。 |
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私が現在の居住地である京都市中京区の壬生に転居してきましたのは25年ほど前のことです。 それまで何回も転居を繰り返してきた私としては、今では一番長く住み続けている場所となりました。 この「壬生」をブリタニカ国際大百科事典 小項目事典のサイトで調べますと、 「京都市中京区西部の一地区。東は大宮通,西は西大路,北は三条通,南は松原通までの地域。 地名は,古来より湧き水が多かったため「水生」と呼ばれたことの転化。 平安京の壬生大路 (現壬生川通付近) が東寄りを南北に通る。低湿なため明治期まではセリ,ミブナなどを産する近郊農村であった。 現在では中小工場の多い市街地として発展し,特に染色業が行われる。 幕末には新撰組の屯所がおかれた。壬生狂言 (重要無形民俗文化財) で知られる壬生寺 (地蔵院) がある。」 と説明されています。 非常によくまとまった説明であると思います。 他の同様のサイトでも、壬生を「染色の街」としているものが多くあります。 ここに記されている湧き水は、現在は「見えにくい」ものとなっていますが、染色業に欠かせないものの1つです。 今も操業しておられるある会社のサイトには、 「染色の全工程に“壬生”の地下水を使用しています。 “壬生”一帯はかつて、水が生まれる場所《水生》と呼ばれていたほど、良質な地下水が湧くことで知られています。 その水は現在もなお、豊富な水量を誇っています。私たちが高品質な染色を実現するのに不可欠なものです。」 と書かれていました。 (「株式会社京都紋付」のサイトから引用。http://www.kmontsuki.co.jp/outline/) 今や全国的な野菜となっている壬生菜のことや新選組、壬生寺のことなど壬生に関しては興味深いことが多くあるのですが、今回は染色の街としての壬生について少し書きたく思います。 外部から転居してきてマンションに暮らす私のような人間にはピンとこない面もあるのですが、この街はやはり「染色の街」と称するのが相応しいようです。 私がこの場所に転居して間もなくの頃、たまたま近所の事業家の方と仕事の関係で話す機会がありました。 その方は、今は手広く事業を展開しておられますが、以前にはこの地で染色業を営んでいたということでした。 大きな布等を扱うにはそれなりに大きな場所が必要であり、当時の壬生はそれに適した土地があり、豊富な地下水を利用できたので、染色業が集まってきたというお話でした。 またこれも25年前に転居してきて直ぐのことですが、近所を歩いていますと近くに「東洋捺染」の本社を見つけました。 私でも知っている通販で有名な会社でもあり、ここに本社があるのか!と思って見ていたことを覚えています。 また、これは最近になって気づいたことなのですが、ちょっと年代物のピルなどを見上げてみますとその壁面に大きく「〇〇染色業云々」と書かれているのが残っていたりします。 そして、この街でなんとなく不思議に感じていましたのは、単なる住宅街にはないような商店街や大人数を相手にするような商店、飲食店などが少なからず存在している光景でした。 そんな疑問を解いてくれるヒントにある日たまたま出合いました。 テレビで女優さんが京都の街をその「通り」ごとに巡るという番組(*)があり、ある日(再放送でしたが)たまたま見ていますと、ちょうどこの地域の中にある「西新道錦会商店街」を歩いておられました。 西新道通りは、京都市内を南北にはしる通りの1つで、四条大宮から西へ約1キロのところにあります。 北は四条通から南は松原通に至る全長約500mほどの通りです。 *「原日出子の京さんぽ」 KBS京都制作。碁盤の目に道がはしる京都の町を女優の原日出子さんが通りごとに歩いて、店や街の光景を紹介する番組。 そこで商店街の方が話していたことの一つに、この一帯は以前染色産業が盛んで、そこで働く人によってこの商店街が繫栄したということでした。 壬生は多くの若い労働者が集まる街でありました。 *西新道通りがありますから、東新道通りもありますし中新道通りもあります。この中新道通りは、七本松通りと重なっています。 「新道通り」という名称は、しかし、全国的に存在するようです。京都市内でも東山区などにその名の通りがあります。 またこの一帯は、ただ染色業が盛んだったこと以上に戦後の時期に栄えていた地域でもあったようです。 原日出子さんが歩いた西新道錦会商店街だけでなく、多くの商店街が縦横に連なっていたようです。 昔日の写真などを見ますと、映画館やパチンコ屋などの遊技場も写り、多くの人々が往来しています。 ある人の話によりますと、昭和38年に阪急が四条大宮から河原町へと延伸したことによって京都の街の中心が動き、さびれてきたという要素もあるとか。 それ以前は大宮駅の名称も(電鉄会社名も今と異なりますが)「京都駅」でありました。 大宮は正に「京都駅」であったわけです。 この地域は正に京都の街の中心的要素を有するターミナル駅周辺の繁華街であったようです。 電鉄会社の合併、名称変更などかなりヤヤコシイ歴史がありますが、これらのことはまた改めて詳しく調べてみたいと考えています。 *昭和26年に写されたという<大宮>駅の写真を見ますと、駅名は「京都駅」となっており、そこに立てられた看板などには「阪急百貨店」、「阪急食堂」、「名所遊覧バス」というような文字が並び、人々で溢れています。 さて、これを書いていて1つかなり古い記憶がよみがえりました。 高校時代の友人の家は当時右京区で染色の仕事をしておられましたが、その友人が言うには、父親は以前千本四条を下がったあたりで染色の仕事をしていて友人家族もその場所に住んでいたとのこと。 当時は私も右京区に住んでいましたが、その友人の言う以前の住処は現在私の住んでいる場所、壬生であります。 その話を聞いた時は、まだ幼かった友人が寒い夜などに親に命じられて四条通りまでたこ焼きなどを買いにいかされていたというような想い出話が印象的でしたが、今となるとこの地で染色の仕事をしていた方々がその後多く独立して、いろいろな地域で染色の仕事を継続されていたのだなあと感じます。 そんな高校時代からン十年後の今年11月のある日、私は地域のボランティア活動のリーダーをしておられる方と夕食をご一緒する機会がありました。 この方も長年この場所で染色業を営んでおられた方です。 氏に連れていただいた居酒屋は、我が家からも歩いて10分ほどでいくことのできる住宅街の中に最近できた店でした。 聞きますと、その店主の父親も永年壬生の地で染色業をしておられたとか。 「染色の街」は今も続いているようです。 |