菜園日記2022年3月


2022/03/06

 3月に入りましたが、冷たい風の吹く日曜日となりました。
 時々、雨やあられが降ってきます。
 そろそろ夏野菜の準備に・・・ということで、ブロッコリー、カリフラワーを終わりにし、立ち枯れしたスナップエンドウを抜き、その跡地に腐葉土を入れて、スコップで荒起こししておきます。
 今年のブロッコリーについては、一つの株に頂花蕾が2つ、3つついたのを確認したのですが、ブロッコリーを抜いてみますと、根元から太く株が分かれていて、このためかなと納得したりいたしました。
 収穫は、ダイコン、ネギ、キャベツ、ホウレンソウなど。

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2022/03/13

 暖かく風の爽やかな日曜日となりました。
 ダイコン、ホウレンソウ、正月菜を片付け、その跡地に腐葉土を入れて、荒起こししておきます。
 今年のダイコンは、あまり大きくなりませんでした。いつもこの時期にできる大きな大きなダイコンはできず、最後まで小さなものが残ってしまいました。寒かったためか、その他の理由があったのか・・・
 ホウレンソウは、去年に引き続き肉厚で美味しいものとなりました。土が合ってきたのかもしれません。
 キャベツは、鳥か虫に食べられているようです。
 ソラマメは花を咲かせ始めました。
 後は、草抜き、水やり等々。

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2022/03/20

 少し寒さが戻った日曜日となりました。
本日は荒起こしをする場所もありませんでしたので、ネギ、わさび菜、シュンギクなどを収穫。
 後は、最近の暖かさでたくさん生えている草を抜き、水やりを少し。

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2022/03/27

 3月最後の終末となりましたが、所用のため、畑はお休みです。


   
 


 私はまぎれもない前期高齢者でありますが、なにせ「涙もろく」なりました。
 テレビでドキュメンタリー番組を見ては泣き、ニュースを見ては泣き、それどころか短いCMを見ても泣き、果ては歌詞の一節を聴いただけで泣いてしまいます。

 歳を取ると多くの人が涙もろくなると思います。
 これについては皆さん、「感情移入しやすくなった」からとか「感受性が豊かになった」からとかと自らの状況を説明することが多いようです。

 しかしながら、医学的に言われていることは、歳を取ると涙もろくなるのは感情移入しやすくなったのでも感受性が豊かになったのでもなく、大脳の中枢の機能低下が真の理由であるということです。
 「背外側前頭前野」と呼ばれる部位が脳全体の司令塔となっていて、記憶や学習、行動や感情を制御しているわけですが、涙もろくなったのは、この部位が担っている感情の抑制機能が低下したからだと説明されます。

 その関連で、涙もろさだけでなく、高齢社会では「暴走老人」が増加していること、「キレる高齢者が目立つこと」等々が語られます。
 即ち、「暴走老人」の増加も、背外側前頭前野の機能低下により感情を抑制できない高齢者が増えたためだということです。

 このような形で医学的な原因が語られることは理解できますし、それ自体を否定するつもりはありません。
 しかし、一方で年齢とともに「キレなく」なった、「我慢強くなった」高齢者も多く存在するのではないでしょうか。

 私など若い頃は、商店や飲食店の店員の態度にすぐキレ、職場の部下のやる気のなさに瞬間湯沸かし器が沸騰し、趣味や遊びの範囲においても、約束事や時間を守らない人間とはすぐ喧嘩して付き合わなくなったり等々と朝から晩まで「キレる」人間でしたが、歳と共に「キレなく」なりました。

 自分が正しいと思う考え方と異なる主義主張や行動などに対してすぐカッと血が上っていた時と比べ、今では世の中にはいろいろな人が存在していて、それぞれの考え方があるのだから、それぞれをそれぞれとして認めるべきではないかと考えるようになりました。
 自分で「正しい」と考えていたことが長い年月の中でかなり相対化されてきたということもあります。

 また、明らかに間違っていると思える他者の行為などについても、それが犯罪的なものでない限り、直接大声で咎めたりすることは誤った方法ではないかと思うようにもなりました。
 一時的な考え方の表出あるいは本人も意図せぬ表現に過ぎない可能性のあるものを全否定して怒鳴りつけることは無意味なことかもしれません。
 加えて、他者の行動内容を一定の範囲で「許容する」ことはその人間のためにも我々のためにもある意味必要なことではないかと、最近思うようになりました。

 このような変化は、私の解釈では、歳を取ることによって社会的経験が増え、さまざまな「生き方」「行動」などを理解し、その多くを受け入れることができるようになったからだと思っています。
 他者の考え方や行為を理解する能力が一つに「想像力」という言葉で表されるのであれば、私は歳を取り入院するような病気もした中で、生来乏しく貧しかった「想像力」が少しは成長してきたのではないかとも思っています。

 職場その他の関係者だけでなく、街の中ですれ違う人々やたまたま話す機会のある人々等々に関しても、非常に遅まきながらではありますが、共感できることが多くなってきたものと自覚しています。
 これらは、以前には頭の中で「理解」していたつもりのものが、今ではごく普通にわざわざ理解しようと努めることもなく、自然に共感的に接することができるようになったものと思っています。
 瞬間湯沸かし人間であった私が、この歳になってやっと普通の人間に近づいてきたのでしょうか。
 以前は、返事をなかなかくれない人、時間に遅れる人、言葉遣いが不足している人、謝らない人、お礼の言葉を発しない人等々に対しては全く許すこともできませんでしたが、今では自然体で対応できるようになりました。

 このような意味では、高齢者は背外側前頭前野の機能低下により、感情を抑制できずキレやすくなるという説明はなかなかそのまま了承できるものではありません。
 (まあ説明する側も全てを包括するものとしては考えてはいないでしょうけど。)

 また、涙もろくなったことについても、医学的説明はともかく、歳とともに経験が増えたことによって、さまざまな光景や状況などに対してその背景や類似事項をより多く想定したり、自分自身の経験と重ね合わしたりすることが可能になり、それらに「共感」できる要素が増えたからこそ涙が多くでてくるのではないかと考えています。

 小学生の子供は失恋の悲しみを知らないので、恋愛映画のそのような場面で悲しみ涙することは非常に少ないでしょう。
 核家族化の中の多くの若者は、身近な人間の死に接する経験が圧倒的に少ないため、他者が死を迎えることや「お別れ」することに悲しんだ経験が非常に少ないかもしれません。
 また、多くの健康的で元気な若者は、病気などで痛みを感じたり動かすことの辛い身体や精神を抱えている人々の想いを理解するのに苦労するのかもしれません。
 歌を聴いて、その歌詞から情景や背景を深く読み取ることのできる人は、経験や想像力といった力の下で直接間接に大きく広がりのある世界を自らのものと認識できる力を有するようになったのだとも言えます。

 そういう意味では私はこの歳になってやっと他の人間の気持ちや状況を理解することができる想像力を少しは身につけることができたのかと重ねた年齢に感謝したく思っています。

 医学的か脳科学的かは知りませんが、背外側前頭前野の機能低下という言葉で一律的に整理するよりは、感情の発露機能が年齢と共により発展したと理解する方が正解ではないでしょうか。


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(追記)

 悲しくて悲しくなってすぐ涙するのは上に書いたとおりですが、嬉しくても涙いたしますよね。

 まあ最近の私には嬉しいこともほとんどないのでありますが、最近一つとても嬉しかったことがあります。それは自動車免許が更新できたことです。

 自動二輪の免許を16歳で取得してから50年にわたる自動車免許ではあります。
 バイクや4輪での思い出は千夜一夜語っても語りつくせないぐらい存在いたします。
 しかし、一昨年昨年と眼の手術も行い、加齢により視力もかなり下がりましたので、今回はまず99%更新は不可能と諦めていました。

 そんな中で更新の時期を迎えましたが、経験上視力はその時々の体調に大きく左右されることを知っておりますので、その点にわずかな期待をかけ、朝起きてからそれなりのケアをして運転免許更新センターに向かいました。
 ダメだったら更新期間中に繰り返しチャレンジし、その結果としてダメなものはダメと受け止めざるを得ないと考えていました。

 運転免許更新センターに入りますと、申請書類を書いて、お金を収めて・・・と淡々と手続きが進められます。
 担当者があっち行ってこっちに行ってと指示するとおり会場をグルグルと回ります。

 このような順番で視力検査で不合格になったら、手数料とかは返還してくれるのだろーか、再度チャレンジしにくる時は本日分の手続きはどーなるのかなどと思いつつ、終盤で視力検査の順番となりました。
(私の記憶では以前は、視力などの適正検査をかなり早い段階で実施していたと思いますがいかがでしょうか。)

 しかし、あえて言いますと(自慢できることの非常に少ない私の)勘の良さ、テスト本番に強いという特性が十二分に発揮されることとなりました。
 左目で3つ、右目で3つ、両目で3つ視力検査の対象について答えましたが、結局はあっさり全問正解となり、適性検査をクリアしてしまいました。
 
 免許がなくなることに備えて、かなり以前から車のこと、車でしか行けない別荘のこと、遠方のゴルフ場の会員権のこと等々等々、いろいろと段取りを考え、なかなかメランコリーな状況ともなっていましたが、それらの多くについてもう少し先延ばしにできそうです。

 私にとってはこのところ最大の嬉しい話ではありますが、嬉し涙は出ませんでした。
 このような嬉しさを衆人の前で涙と共に爆発できなかったことは、「背外側前頭前野」が担っている感情の抑制機能がまだまだ正常に機能していたということでしょうか。
 (ただし、講習時間はその内容は全く入ってこず、数多くの「お別れ」から救われた余韻に浸っておりました。)

 まあ、いずれにしても社会的に迷惑をおかけしない内に免許返納も考えなくてはいけないと考えています。

 それから、最近は特に悲しくもなく、特に嬉しくもない「想い出」で泣くことも多くなりましたが、思い出しては泣いてしまうという
この現象はなんなのでしょうか!?
 改めて考えたく思います。

3月末の畑の様子




ニンニク


すずなりキャベツ




(なし)




(なし)

 


ネギ



シュンギク



ワサビ菜



玉ねぎ





 

キャベツ



ソラマメ




(なし)



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