菜園日記2020年12月


2020/12/06

 12月に入りました。まだまだ暖かな12月です。
 全体に草抜きをし、葉物野菜などを採ります。
 ネギとブロッコリーは、今年の初収穫です。
 ブロッコリーはまだ小さな頂花蕾でしたが、今後の側花蕾のことなどを考えると採り頃でしょう。ただ最近の寒暖の激しい気候のためか、あまり締まっていない頂花蕾ではあります。
 その他、コマツナ、ホウレンソウなど、今年の葉物野菜はなかなか良い出来です。

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2020/12/13

 12月も中旬となりましたが、まだまだ暖かな日曜日です。
 ダイコンが大きくなってきましたので、1本を抜きます。今年の初収穫です。
 コマツナ、ホウレンソウ、ブロッコリーを採ります。
 コマツナは、多くが白い斑点のできる病気になっていました・・・??
 後は草抜き等。

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2020/12/20

 良く晴れた日曜日です。
 寒さもほんの僅かですが、緩んでいます。
 ジャガイモの茎が完全に枯れてしましたので、イモを掘り起こします。予想通り??量も大きさも今一つでした。
 ネギ、コマツナ、ホウレンソウ、ダイコンなど一通り収穫いたします。
 後から蒔いた正月菜は正月に間に合うかどうか・・・という感じではあります。

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2020/12/31

 大晦日となりました。
 京都は厳寒、朝からの雪です。
 昼には雪も止みましたので、畑へ。
 年末年始用にネギ、ダイコン、コマツナを採ります。
 採れたてネギのすき焼きは毎年楽しみにしています。


   
 


 私はいまだかつて所謂「ファンレター」なるものを出したことも出したいと思ったこともありません。
 たった1回の例外を除いて。

 それは、漫画少年であったことから手塚治虫に対するものでもなく、ロックに目覚めた高校生がジミー・ペイジに宛てたものでもありませんでした。
 もちろんアイドル歌手等には、当時も今も興味はありません。
 相手は落語家の柳家金語楼さんです。

 小学校の時でした。 
 当時のテレビ番組は、今のように漫才師などが活躍する時代ではなく、落語家や役者が多かったと思います。
 名司会者としての桂小金治さんのこともよく覚えていますが、今でいうMCは、ほとんどはアナウンサーでした。

 柳家金語楼さんは、当時爆発的な人気を有する落語家でしたし、リアルタイムにテレビを見ていた人には、「ジェスチャー」はきっと鮮明な記憶を残しているのではないでしょうか?!
 小学生の私は柳家金語楼さんの落語のファンでもなく、芸能人として特に氏のファンでもなく、彼がある時「趣味はプラモデル」と言った一言にとても親近感を感じて、何故かハガキを投函したものと思われます。

* 柳家金語楼(1901年2月28日〜1972年10月22日)は、明治大正昭和にわたってお笑い界のトップに君臨した爆笑王。6歳で初舞台。落語に始まり、レコード、ラジオ、舞台、映画、そしてテレビと常に時代の先端を行くメディアに果敢に挑戦し、新しい笑いを開拓し続けてきた。創作落語の作者としても知られ、生涯に2000篇の新作落語を発表し演じた。( NHK人物録 | NHKアーカイブス)

* 桂 小金治(1926年10月6日〜2014年11月3日)1947年、2代目桂小文治に入門して落語家となる。次代の名人候補として将来を嘱望されたが、川島雄三の要請で映画俳優に転身。昭和中期から映画やテレビドラマ、バラエティ番組に数多く出演し、ことにワイドショーの名司会者として名を馳せた。江戸前の歯切れの良い滑舌で、高座では古き良き時代の江戸落語を聴かせていた。(Wikipedia)

* ジェスチャー:1953年2月20日から1968年3月25日までNHKで放送されたクイズ番組。柳家金語楼率いる白組(男性陣)と水の江瀧子率いる紅組(女性陣)に分かれ、視聴者が応募した問題を解答者がジェスチャーのみで表し、それを時間内に当てていくゲーム。10年にわたり司会を務めた小川宏(当時NHKアナウンサー)も番組の顔だった。(Wikipedia)

 そして、柳家金語楼さんから返事がきたことを覚えています。
 もちろん、非常に忙しい氏がプラモデル好きな小学生にそのことでわざわざ返信するはずもなく、恐らく大量に発送する年賀状か暑中見舞いに一言添えられてあったのではと思います。
 まあそれもご本人の筆かどうか不明ではありますが、小学生の私はとても嬉しく思っていました。

 当時は、雑誌の付録などに芸能人などの住所録が普通についていました。
 最近では、このことは驚きをもって受け取られますし、今の常識からすれば確かに驚きではあります。しかし、芸能人もスポーツ選手もごく普通にこの住所禄に名を連ねていた時代ではありました。
 これを見て、私のようにファンレターを書く人間もいれば、プレゼントを贈るファンもいたかもしれません。
 家の前で待ち伏せするとか、犯罪的なことの発生は極めて少なかった時代ではなかったかと思います。
 今でしたら、ありとあらゆる犯罪やいたずらなどが大量発生するのでしょう。

 さて、そのようなファンレターを書くだけのことはあって、小学校高学年の私は小遣いのほとんどをプラモデルに費やしていました。

 しかし、精緻なプラモデルを作る人間ではありませんでした。
 セメダインをつける時は、軽く薄く塗るということできず、いつもベタベタとはみ出していました。

 背景が透明なシールを少し水に濡らして台紙からはがし、プラモデルに張り付けるのですが、いつも大量の水に浸して貼りますから、ノリも薄くなり、水分が多くて、ちゃんとした位置に納まりません。

* 調べてみますと、このシールはデカールというものということです。模型で主に使われているのは水転写デカールと言って、台紙ごと水に浸して剥がして使用するもので、現在でも使われているようです。

 まあそれでもプラモデルを作ることが好きで、戦艦や潜水艦を作っては神社の庭池に浮かべに行ったりしていました。
 潜水艦は、実際に戦争に使われたものよりも、当時の漫画に登場したものが興味の対象でした。「サブマリン707」、「青の6号」などなど。
 他には、戦車や戦闘機など、第二次世界大戦関係のものが多かったと思います。私が戦争ファンであった?ということではなく、そのようなプラモデルが「売れた」ということなのでしょうか。
 
 あとは、スポーツカーやロボットなど、やはり男の子の世界ではありました。

 私に限らず、当時の男の子の趣味としては、プラモデルは圧倒的な人気がありました。
 街の中でも多くの店でプラモデルが売られていました。
 プラモデル専門店もたくさんありましたし、玩具屋さんの多くのスペースはプラモデルが積まれていました。
 文房具屋にもプラモデルのコーナーがありました。

 街の玩具屋さんも減りました。
 玩具屋さんと言えば、ちょっとした想い出があります。
 私の祖母は、祇園のいわゆるお茶屋のおかみさんでしたが、孫の私が遊びに行きますと、私を引き連れて四条縄手の角にあった玩具屋へ行き、なんでも好きなものを買ってくれました。
 もちろん、私はプラモデルをねだっておりました。

 さてさて、話は変わるようで続くのでありますが、いわゆる地球温暖化論に反対する人々の代表として、テレビ番組にもよく出ている武田邦彦教授がいます。
 氏の論が正しいのか正しくないのかは別として、氏がよく言っておられることの一つに
「私が若かった時、地球は氷河期に向かっていると言われていた」
というものがあります。

 武田邦彦さんは、ちょうど一回り私の年上となりますが、私もこの「予言」に記憶があります。
 当時の漫画雑誌は、巻頭にグラビアのページなとがあって、子供向けの冒険談やニュース、また絵物語などを掲載していたのですが、ある時期に大きく「将来の地球は氷河期になる」と取り上げられていたことを鮮明に覚えています。
 これは少年誌のネタの予言というだけに留まらず、当時一般的な予測として成立していたのではないでしょうか。

 そしてもう一つ、私が大きくショックを受けた「予言」として、近い将来に石油が枯渇して、石油製品は無くなってしまうというものがありました。
 この問題は、しかし、現実的には石油採取技術の発展などにより、かなり先延ばしされているようです。
 けれども、当時は、かなり早期に石油は枯渇するものと予想されていました。

 そうしますと、即ち、プラモデルも作れなくなってしまうのであります。
 ある意味で、当然の帰結です。

 で、私がどうしたかといいますと、プラモデルの趣味を止めることを決断いたします。
 そうなると、当時はなかなか徹底していた私ですので、家に飾ってあったプラモデルの全てを廃棄してしまったのです。

 まあ一つの区切りではありましたが、「ずっと続けられない」のであれば、趣味としての存在価値がないというように考えたわけではあります。
 困った??性格ではあります。

 しかし、石油はなかなかなくなりませんね。
 どーしてなのでしょう???

12月末の畑の様子




葉物野菜


ニンニク


ネギ




ブロッコリー
カリフラワー


 


ソラマメ


タマネギ


ホウレンソウ
 

正月菜

 

ダイコン


コマツナ


(なし)



(なし)


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