菜園日記2020年6月


2020/06/07

 6月に入りました。
 暑い日曜日です。
 先にホームセンターで、二十日ダイコンと辛味ダイコンの種を購入して畑へ。
 ニンニクを収穫いたします。全15個となりました。そこそこの形です。
 小さなキュウリ、シシトウを幾つか収穫いたします。
 スナップエンドウの跡地に、二十日ダイコンと辛味ダイコンの種を蒔きます。
 トマトも大小それぞれの実をつけています。

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2020/06/14

 雨のため、お休み
 梅雨に入りました。
 本日もかなりの雨となりましたので、畑はお休みです。

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2020/06/21

 梅雨の晴れ間となりました。
 涼しい風の吹く日曜日となりました。
 昼から畑へ。
 先週は雨でお休みでしたので、2週間ぶりの畑となります。
 先日蒔いたダイコンはどちらもキレイに発芽していました。少し間引きます。
 立ち枯れしそうだった1本のエダマメモ元気を取り戻してきたようです。
 ただし、その隣のシソが完全に立ち枯れしてしまいました。私の意識では、「強 い」シソなのにという感じです。
 他の野菜もそれぞれ上部を支柱に留めたり、不要な枝葉を処理したりいたします。
 キュウリ、ナス、シシトウなど、少しずつ収穫です。
 ニンニクの跡地に肥料と石灰を入れ、耕して畝を作りました。

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2020/06/28

 またまた雨のため、お休みです。


   
   

 
 少し前のこととなりますが、週に1回ほどのペースで夕刻の阪急電車に乗ることが続いていました。
 私は中学の時に、通学で阪急電車を利用していましたが、その後はほとんど乗ることもなく、週に1度とはいえ継続して乗車することは久しぶりのことでした。
 車内の雰囲気はやはり大きく変化していました。

 その時間はちょうどサラリーマンの帰宅時間とも重なりますが、通勤などのメイン方向とは逆になり、また空いている普通電車を利用しますので、いつも座席がちょうどフルに埋まり、立っている人はほとんどいないといった状態でした。

 車内の乗客の様子を見ていますと、7〜8割がずっとスマホを触っています。
 この数や、ただジッとスマホを注視している人たちの様子を見ていますと、改めてスマホがいかに我々の生活へ浸透しているのかを感じます。
 スマホでゲームをする人。
 ニュースを見る人。
 SNSをしている人。
 スマホで読書をしている人もいますが、紙の本を読んでいる人にはめったに出会いません。
 高校生が友達と一緒に乗っていても、学校やテレビ番組の話をしている生徒は少なく、ほとんどは別々にスマホを見ています。あるいは、スマホでゲームをしている一人をもう一人が覗きこんでいるというパターンが多く見受けられます。

 私が中学の通学時間には、当時大人気であったプロレスの話題が盛況であったことを思い出します。

 今の車内の光景を見ていてなんとなく想起されたのは、昔々電車の中で大学生が漫画雑誌などを読んでいますと、
「大学生が漫画を読んでいる!」
と、一つの驚くべき社会現象として取り上げられたりしたことです。
 
 今では、ごく当たり前の光景であり、こんなことがマスコミで取り上げられたこと自体が「驚くべき」ことと考える人も少なくないと思いますが、ン十年前、一般的に言えば漫画などは大学生になる前に「卒業」するものだったのです。
 多くの若者は、少年マガジンを捨てて、朝日ジャーナルを手にしました。

 若い人は、エーっと驚くかもしれませんが、大学生は漫画を卒業して本格的な「活字」の世界に入る。 ある時期に漫画という「子ども」の読み物を卒業するという時代が本当にあったのであります。
 
 現代は、本のことに留まらず「卒業」ということがない時代であると言えるかもしれません。

 テレビゲームも代表的な存在です。
 ちょっと以前の考え方からすると、イイ年した大人が、電車の中でテレビ?(スマホ)ゲームに夢中になっている姿なんて、漫画以上に非難の対象となるべきものかもしれません。
 ただ、テレビゲームそれ自体は、現在の高齢者の多くが、テレビゲームの誕生の時からずっと付き合ってきたものではあります。
 喫茶店に置かれた単純な白黒画面のテニスゲームやブロック崩しゲームに「先駆的に」100円玉を投入し続けた人は、今や高齢者世代という年代です。
 スペースインベーダーのゲーム機に100円玉を積み上げて何時間も夢中になっていた世代も、今やスマホゲームに夢中になっている若者の親の年齢となっています。

 私には、今一つ非卒業の代表的なものとして女性のファッションが思い浮かびます。

 現代は、女性が流行のファッションを身にまとっている姿を、例えば真後ろから見ますと、その人の年齢はほとんど全く分からないものとなっています。
 いろいろな要素はあるにしろ、以前はしかし、年齢に合わせた服や髪型などがキッチリと存在していました。

 そのファッションやスタイルで、年齢等も判断できていたと記憶しています。
 サザエさんの妹のワカメちゃんのように、昔は、小学生の女の子はみんなオカッパ頭をしていました。
 男の子は、カツオくんのように皆が丸刈りというわけではありませんが、頭の後部は皆刈り上げていたと思います。
 中学校の制服を着るようになると髪型も変わり、その後も節目節目でその時々の髪形に変わっていた時代がありました。
 つまり、ファッションにおいても、一定年齢における「卒業」というイベントかあったように思います。
 
 私は女性のファッション等に全く疎い人間でありますが、しかし、今の女性は幾つになっても20代の時の髪形やファッションをそのまま継続しているような感があります。
 そのこと自体を悪いことなどとは決して思いませんが、この面においても以前のように「結婚したら、○○という髪型は卒業」というような意識は全くなくなってしまったものと思われます。

 他のことについても、若い時にしていたことをずっとずっと継続してやっていくことが現代の特徴の一つにあげられるかもしれません。

 ロックバンドもその一つです。

 我々が中学、高校の時に世界のトップスターであったロック・ミュージシャンの多くが、今も現役で最前線にいます。
 50年前にレコードのトップセールスを記録していたスター達が、いまもレンタルCDショップの上位に君臨しています。
 ローリングストーンズ、ポールマッカートニー、エリッククラプトン等々、等々・・・
 ストーンズのミック・ジャガーは、1943年生まれ(77歳)
 ポール・マッカートニーは、1942年生まれ(78歳)
 エリック・クラプトンは、1945年生まれ(75歳)

 もうオッサンどころかオジイサンになってしまったのだから、ロックは終わり・・・という感じには、しかし、なりません。
 若者の音楽=Rockは、当時から支えた世代がそのまま高齢化を迎えています。
 ・・・日本の演歌も同じじゃないの・・・という意見もありそうですが、その状況と、Rockが長く聴き続けられる状況はちょっと異なると考えています。機会がありましたら、また書きたく思います。

 さて、まあ私もオールド・ロック・ミュージシャンに勇気づけられて、素人バンドを続けております。
 ありがたいことに、以前でしたら私のようなオジイサンがエレキギターを背負って街を歩いていたら、若者に指をさされ嘲笑の対象になっていたかもしれませんが、現代は私の姿を気にする人は全くいません。
 音楽スタジオの中でも、私と同じような年齢の人は決して少なくありません。 
 そういう意味では、いろいろなことを愉しみやすい時代かなと思います。

 そしてまた、これらの現象を違う角度から見ますと、多くの人を夢中にさせる魅力的な新しいものが生まれない時代といえるのかもしれません。
 Rockに替わる音楽もなかなか生まれてきません。
 また、Rockに代表される8ビートが生活の中核ともなっていますから、Rockを卒業してクラシックへ・・・という流れも多くの若者にとっては支持されることのない流れとなっています。

 いわゆるアイドルなんかのあり方も面白く思えます。
 私は、アイドルとかには詳しい人間ではありませんが、例えば現在、ジャニーズなどの男性アイドルは、40代、50代になっても引き続きアイドルであり、40代、50代の女性ファンがアイドルとして応援を続けていてくれます。
 これは、例えば、沢田研二(1948年生まれ(72歳))のタイガース時代のファンのコアな一部の人々が、いつまでも沢田研二を追いかけている姿とはちょっと違うのではないかという感じがします。
 
 以前でしたら、グループサウンズファンを卒業した女性たちが、他のスターやグループを離れた個人を「大人」の芸能人ファンとして贔屓するというような形が多くあったと思いますが、今は、アイドルはアイドルとしてそのまま歳を取り、アイドルのファンはアイドルのファンとして、そのまま歳を取っていって、アイドルはそのままの形でアイドルであり続けているような感じがいたします。

 このようなことを色々と考えていますと、私には、いつまで経っても学生であることや青年であることを卒業しない、できない人々の増加ということと、現代のニートの増加という現象は関係があるのではないかという感じがいたします。

* ニート(イギリス英語: Not in Education, Employment or Training, NEET)とは、就学・就労・職業訓練のいずれも行っていないことを意味する用語です。日本では、15〜34歳までの非労働力人口のうち通学・家事を行っていない者を指しており「若年無業者」と呼称しています。
(ウィキペディア)
  
 ニートの定義は、主だった官庁間等でも、微妙にずれているところがあるように思えます。以下は私のイメージでの解釈です。

 卒業とは、何かを捨てることでもあります。
 少しはやはり「捨てる」ことが必要なのではと思います。

 例えば、大学を卒業して社会人として生活をするためには、学生時代に有していたありあまる「自由な時間」の多くを捨てなければ成立しません。
 そういなければ、満足な収入を得ることはできませんし、三度の食事をすることも不可能でしょう。
 しかし、ニートの多くは、幾つになっても親と同居し、年金も含め親の収入で生活し、あるいは最低限のアルパイト収入で、最低限の生活費を確保するという状態にあります。
 結果として、学生と同様、かなりの自由な時間を確保できます。
 しかし逆に、その自由な時間を使うための金銭的余裕があるかというと、そこはなかなかかもしれません。
 また、自らの配偶者や子供を連れて自家用車でレジャーに出かける余裕は生じないかもしれませんが、一人で学生時代からのテレビゲームを継続するには十分な余裕があるのかもしれません。
 そのどちらが正しいのかは別として、ここではテレビゲームに長時間浸る生活からの「卒業」は経済的にも困難なのでしょうし、卒業するつもりもないのでしょう。

 彼らの多くは主に経済的理由から年金にも加入していませんから、そのほとんどは将来生活保護に流れ込んできます。
 その状況は一定明白であるように思えます。
 年金制度で世代が世代を支えることへの議論があるように、ここではまた、社会の中で確信犯的に年金に加入しなかった人々を税金で支えることへの議論も生じます。

 卒業をせずに、いつまでも若く愉しい時代なのかもしれませんが、その先にあるものが愉しいのか否か。
 なかなか未来ではあります。

6月末の畑の様子



二十日ダイコン

辛味ダイコン



イチゴ





エダマメ

 

シシトウ


 

トマト


 

ナス

 

キュウリ


ゴーヤ



バナナウリ



(なし)


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