菜園日記2019年12月


2019/12/01

 12月に入りました。
 12月と言っても、京都は紅葉狩りの観光客で溢れています。
 昼から畑へ。
 ニンジンをまた間引きながら収穫。
 ダイコンは1本が大きくなっていましたので、抜きます。この畑でのダイコンの初収穫です。
 コマツナもきれいに発芽していました。
 後は、草抜き、水やり等々・・・

・・・・・・

2019/12/08

 本格的な冬が近づいてきました。
 昼前から畑へ。
 ダイコンはまた太くなってきた1本を抜きます。
 ニンジンをまた少し間引きます。
 ブロッコリーは、小さく頂花蕾を見せてきました。
 後は、草抜き、ビタミン剤等。

・・・・・・

2019/12/15

 だんだんと寒さが増してきました。
 昼から畑へ。
 ニンジンを少し間引いて収穫。
 他は、草抜きと水やりぐらいとなりました。
 この時期なのに、けっこう草が次から次へと生えてきます。
 コマツナは年内に食べられるかどーか、微妙な感じです。

・・・・・・

2019/12/22

寒さが増してきました。
本日は所用のため、畑はお休みです。

・・・・・・

2019/12/30

 今年最後の畑となりました。
 朝から雨が降っていましたが、止むのを待って畑へ。
 なかなかの雨量でしたので、本日は、ダイコンを2本、ネギを3ケ所、ブロッコリーを1つ収穫して帰ります。
 途中で蒔きなおしたコマツナは、正月には間に合いませんでした。


   
   


(その1から続く)

 戻ってきたバス通りを、昔バスで通った道筋を、歩いて北上いたします。

 この通りは、当時国道248号線だったのですが、その後できた広いバイパスにその地位を奪われ、今は県道になっているようです。
 小1の時まで市電も走っていたとのことですが、私は記憶がありません。
 岡崎の人はこの道のことをよく「電車通り」というようです。
 同級生もそのように呼んでいましたし、帰路に乗ったタクシーの運転手さんも言っていました。
 50年以上前に市電がなくなっているのに、面白い話ではあります。

 実は、朝早く家を出てきましたので途中で朝食でも・・・と考えていたのですが、見事にそのような店はありませんでした。
 まあ、昼は豪華な宴席でしょうから、朝食は諦めることといたします。
 このように立派な道筋に飲食店がほとんど存在しないというのは疑問ではありますが、国道でなくなってしまってさまざまな施設が新たな道路沿いの方にできるようになっただろうと想像はできます。
 また、市の南部は以前から住宅街であったようで、商店街などはあまりなかったようです。

 歩き続けますと、・・・今度は思ったよりけっこうな時間を歩きました。この道程はバスしか経験がありませんでしたので、余計にそう感じたのかもしれません・・・懐かしい川の景色と出逢いました。
 私はずっとこの川を矢作川と思っていたのですが、乙川(おとがわ)というようです。
 ここから西に入ったところで、矢作川と合流します。
 また、菅生川という別称も、看板などでよく見かけました。

 この川は、毎日バスで渡っていた川でありますが、もう一つの思い出としては、ここで行われていた花火大会があります。
 私は当時、家族と一緒にこの川に浮かべた船から花火見物をしていた記憶があります。
 今思うと、非常に贅沢ではありますが、ちょっと危険な見物場所だったかもしれません。

 あと誰かと釣りにきた記憶もあります。
 その誰かが誰か分からないのですが、我々が小さかった時というのは、近所で知り合った「知らない」人と一緒に遊ぶ・・・というような行動も多かったのではと思います。
 公園でたまたま会った子ども同士が、その辺を走り回って仲が良くなったりするのですが、お互いに名前も知らず、その公園でも二度と会うこともなく、考えてみれば不思議な逢瀬ではあります。
(ただ、さまざまな事件が生じる昨今のことですから、今は子ども同士といえども「知らない人とは遊ぶな」と親から言い聞かされているかもしれません。)

 しかし、そういう「誰か」との遊びについては、今でも断片的ではありますが、けっこう覚えています。
 誰かと!、ちょっと離れた土手に土筆を採りに行ったこと。(採ってきた2〜3本の土筆は、家で料理されることもなく廃棄されてしまったことも記憶にあります。)
 家の近くの畑で、年上の子である誰かに!、畑に投げた石を探して持ってきたらお菓子をあげるといわれて、背より高いトウモロコシ畑を走り回って探していたこと。
(この時に膝を怪我して血がちょっと出たことも記憶にあります。賞品?のお菓子は確かポップコーン1粒だったような・・・)
 また、どこかから誰かと!バスに乗って帰ってきたのですが、私にバス代がなく、当時のバス代5円を誰か!に10円を借りて支払い、お釣りの5円をその誰かに!「借りたのはバス代の5円だから、この5円を返してお終い」と渡して、双方納得していたこと。
 等々。 

 このような誰か!ではなく、近所の特定の年下の子とよく遊んでいたことも覚えているのですが、その子の家とか名前とかは全く記憶にありません。
 この人とは、奇跡があれば、再会してみたいものです。

 さてさて、バス通りが乙川をまたぐ橋は殿橋という名でした。
 殿橋を渡って、西に入りますと、岡崎公園となります。
 同年会の会場となるホテルもここにありますが、まだまだ時間がありますので、岡崎城などを見に行きました。
 言わずと知れた徳川家康生誕の城であります。

 家康が生まれた城ですから、江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視されていたようです。
 本多氏、水野氏、松平氏等、家格の高い譜代大名が城主となり、石高こそ5万石前後と少なかったのですが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられています。

 この岡崎公園で開催されていたお祭りなどに出かけた記憶はあるのですが、岡崎城に登った記憶がありません。
 * お祭りについても記憶は定かでないところが多いのですが、「見世物小屋」があったことを覚えています。半世紀の昔という時代の流れを感じます。
   「見世物小屋」については、私的には、おどろおどろしい雰囲気の楽しいとは思えない空間でありました。まあ、そういう空間が多くの人の興味を引くのでしょう。当時は、日本のどこにでも「見世物小屋」はありましたが、ちょっと調べようとしますと、なかなか複雑な様相で、一筋縄ではいきそうになく、ここではやめておくことにいたしました。ただ、現在でも一社が「見世物小屋」の興業を続けているようです。

 明治維新を迎えた岡崎城は、新しい時代に城郭は不用であると明治6年から7年にかけて取り壊されてしまいます。
 しかし、後年、復興天守として再興されることとなり、1959年(昭和34年)3月30日に完工式が行われ、4月5日に一般公開されたということです。
 従って、私が岡崎に来た頃にはピカピカの新天守がそびえ立っていたはずですので、そこへ行かなかったことはなかったと思うのですが、多分記憶から消えてしまっているだけなのでしょう。

 岡崎城に隣接して、龍城(たつき)神社があります。
 家康公生誕の朝、城楼上に雲を呼び風を招く金の龍が現れ、昇天したという伝説が残るパワースポットとか。

 岡崎公園は、その他にも、三河武士のやかた家康館、二の丸能楽堂、巽閣、茶室葵松庵・城南亭、からくり時計などがあり、全体に渡り公園としてよく整備されていました。
 春の桜は、「日本さくら名所100 選」にも選ばれているとか。

 また当日も、グルメフェスタが開催され、ちょうど七五三の時期とも重なり、なかなかの人出でした。
 例によって、外国人観光客もたくさんいました。

 岡崎城を見た後、岡崎公園内を少しウロウロして時間をつぶし、同年会会場のホテルへと向かいます。

 (まだ続きます。)

12月末の畑の様子



エンドウ




イチゴ





タマネギ



レタス

 

ネギ

 

コマツナ

 

ブロッコリー

 

カリフラワー

 

ニンジン



ダイコン






ニンニク


2020年1月へ 菜園日記topへ