菜園日記2019年7月


2019/07/07

 7月初めの日曜日です。昼遅くから畑へ。
 梅雨に入って続いていた雨のせいか、畑の作物はぐんぐんと大きくなって、実を太らせていました。
 シシトウ、ナス、キュウリ、ツルムラサキなど、大収穫です。
 ミニカボチャが今までなく、ツルを伸ばし、実をつけています。キュウリもゴーヤもその陰に隠れてしまっています。大幅に選定いたしました。実もたくさんつけています。
 トマトやナスなども剪定いたしました。

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2019/07/15

 梅雨の中の3連休となりましたが、所用のため、畑仕事はできませんでした。
 ただ、15日の夕方に少しだけ時間ができましたので、収穫だけいたします。
 シシトウ、ナス、トマト、キュウリ、ミニカボチャとたくさん採れました。

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2019/07/21

 祇園祭の前祭りは終わりましたが、まだ梅雨明けとはなりません。
 非常に蒸し暑い日曜日となりました。
 夕方から畑へ。
 シシトウは何十個か分からないぐらいたくさん採れました。
 ナスとトマトは数個ずつ。
 立ち枯れしそうだったトマトは、脇芽を伸ばしてきて、花をつけています。
 キュウリ数本とミニカボチャ1つ。
 あとは葉物を。
 草抜きをして終了といたしました。

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2019/07/28

 梅雨も明けました。
 7月最後の日曜日、夕方から畑へと向かいます。なかなか蒸し暑い日となっています。
 先週の雨のためか、シシトウ、キュウリ、ナスなど大収穫です。
 ゴーヤは1本採れました。
 エダマメも順調なようです。
 たた、今回は、ナスの株が大きくなりませんでした。
 畝の脇に追肥して、中耕しておきます。

   
   

 
 私は、テレビの熱心な視聴者ではありませんが、そんな私が「おっ、すごい!」と思った番組もあります。
 その一つが「夜はクネクネ」でした。

 これは、1983年1月7日から1986年12月23日まで毎日放送(MBSテレビ)で放送された「紀行バラエティ番組」です。
 「紀行バラエティ番組」って何のことだと思ってしまいますが、いわゆる「街ブラ」番組の源流とされています。
 まあ、その実態は「紀行バラエティ」なんて名前には似合いもしない番組ではありました。

 出演者は元「あのねのね」の原田伸郎と、当時毎日放送のアナウンサーとして人気を博していた角淳一。
 (「あのねのね」に「元」をつける表現が正しいかどうかは自信がありません。)

*「あのねのね」を知らない世代が増えてきました。
日本のフォークデュオですが、そのユニークな曲で、1970年代中期から1980年代初頭にかけて一世を風靡、正に「風靡」していました。
私は彼らの特なるファンではありませんでしたが、とにかくテレビをつけると彼らが歌っているという時代でありました。
なお、あのねのねは当初は数人のグループであり、その中に笑福亭鶴瓶や後に彼の妻となる女性がいたこともなかなか知られた話です。
皆、京都産業大学の学生でした。

 他に、当時NSC(吉本総合芸能学院)を卒業したばかりの新人だったトミーズ雅が元プロボクサーであることを買われ、原田たちのボディーガードとして同行していましたが、雅は基本的に探検隊風の衣装を着て彼らの後をついていくだけであり、番組中ほとんど喋っていませんでした。

 夜にあてもなくブラブラするという新しいスタイルの番組で「ボディガード」が必要だったというところが面白いところです。
 トミーズ雅がボデーガードとして、どこまでの役割を果たしたかは別として、そのような役割が必要な時代であり、また一つのパフォーマンスとしても誰もが納得する形であったことは確かと思います。

* トミーズ雅が出演できなかった回のボディガード役を公募したことがあるようで、その際に当時まだ無名だった格闘家の角田信朗が自ら応募して見事採用され、出演を果たしているという逸話があります。私はあまり記憶にありません。まあいずれにしろ、本当にボディガードを必要としていたのかもしれません。

 番組の内容は、原田たちが関西各地の街へ繰り出し、行き当たりばったりで出会った一般人たちととりとめもない話から突っ込んだプライベートな話までいろいろと雑談をしながらあちこちを練り歩くというものでした。

 今考えると、単純な番組ではあります。
 今は、街を歩いて市民や店の方々と話したりする番組は、山のように存在しています。
 しかし、当時、スタジオから飛び出した芸能人が、偶然出会った街の人々と話をするということ自体、非常に珍しく、とても新鮮な画面でありました。
 逆に、街の人々サイドから言いますと、テレビカメラに映される、何かの舞台にあがることなどは、何か特別な特技を持っているとか、非常に低い確率の抽選で選ばれてというような時代から、街の人々それ自体が情報の発信者となっていく、正に現代につながる黎明期であったと、私などは思うわけであります。

 まあ、単純な構成であるにもかかわらず番組が4年間にわたって放送され続けた理由として、ラジオパーソナリティを長く続けていた原田たちが素人の扱い方が上手かったこと、関西人ならではの面白さや素人のサービス精神を十二分に引き出していたことが語られています。
 確かに、この時代であれば、関東、特に東京では成立していない番組だったかもしれません。
 東京でしたら、ちょっとした芸能人が横を歩いていても「無視」するのが「礼儀」みたいなものでした。

 多くの評論家達が、「何をするわけでもなく、ただ行き当たりばったり」「作られていない感」そして「伝説の深夜番組のひとつ」と評したりしています。
 そのこと自体も大きなエポックメーキングでありました。

 しかし、私は、そのようなことよりも、やはり生の視聴者がそのままテレビに参加してしまう面白さが一番だったと思っています。

 当時は、雑誌などでも「全投稿」雑誌といわれるものが幾つか発行されていました。
 読者自らが自分のことを書く、そして他の読者がそれを読む・・・というような、その30年後に一般化されるSNSのような関係性が当時のメディアの大黒柱である書籍の中にも、ぼんやりと求められていた時代といっていいと思います。
 人々は、有名人の書く文書でなく、自分たちと同じような学生やサラリーマンの日常生活やアイデアを面白く「観る」のです。

* その全投稿雑誌の一つである『ポンプ』に私は創刊以前から関わっており、継続して投稿していました。
読者からの投稿で全誌面を埋めていた投稿雑誌です。創刊者の橘川幸夫は「投稿頁を大事にした雑誌は、それ以前にも以後にもありますが、テキストもイラストも写真もすべて投稿で作られた市販雑誌はないと思います」と述べています。そのとおりの雑誌でした。
「ソーシャルメディアの先駆け」、「紙メディアのインターネット」、「現在のインターネットを予感させるような雑誌」として再評価する向きもあるようです。
また、今では有り得ないことですが、当時はその投稿の最後には、投稿者の住所、氏名も記載されていたのです。
このため、私も多くの『ポンプ』つながりの友人知人ができました。

 「夜はクネクネ」が放映されていた時代、私は既に就職して数年を経ていましたが、その放送の翌日などには、けっこう熱く、この番組の意味などを職場で語ったりしていました。

 一方で、全投稿雑誌などは廃刊していく時代を迎えます。
 そのような形を喜んで支持していた者は、やはりまだ少数派だったのかもしれません。

 しかしまたその一方で、我々は、dosパソコンとワードプロセッサーを入手することとなりました。

 極端に言えば、個人の文書、アイデアなどが、デジタルデータとして、無限に拡散、共有化できるような条件を獲得していたのです。
 雑誌というメディアがなくても「全投稿雑誌」の理念が実現できる時代を迎えつつありました。

 この時、インターネットの時代に先立ち、いわゆるパソコン通信が、新しいコミュニケーションのスタイルを作りだしていきます。
 例えば、ニフティのフォーラムの中で、どれだけ多くの人がどれだけ多くの関係性を作り上げていったのか、改めてゆっくりと書きたいと思っています。

* ニフティサーブ(NIFTY-Serve、のちにNIFTY SERVE)は、1987年から2006年までニフティ株式会社が運営していたパソコン通信サービス。
当時のパソコン通信は、大手2社が有名でした。ニフティと今一つはPC-VAN、こちらはNECの運営でした。

* ニフティのフォーラムとはある特定の趣味や話題に興味のある会員同士がコミュニケーションを取ることのできるサービス。当初はフォーラムの数は少なかったが、趣味・志向の細分化に対応して1,000を超えるフォーラムが生まれました。

 人々は、バラバラに個に分解され、また個々の存在が、それぞれ無限に連なっていく時代の到来でもあります。
7月末の畑の様子

 

エゴマ

 

エダマメ

 

ツルムラサキ

 

レタス

 

レタス

 

ゴーヤ

 

ミニカボチャ

 

キュウリ

 

トマト

 

 

ナス

 

 

シシトウ


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