菜園日記2018年8月

 5日(日)  8月に入っても,まだまだ暑さは続いています。
 夕方から畑へ。
 本日は実は,ニンジンの種でも・・・と思っていたのですが,この暑さで断念いたしました。
 ナスは元気です。10個近く収穫します。
 エダマメの跡地はそのままにしておきます。
 シシトウは最後に残った赤トウガラシも枯れてきました。昨年あれだけ豊作だったシシトウが今年はこんな感じではあります。
 ニンニクの跡地は,スコップで荒起こししておきます。
 トマトは完全に枯れてきました。
 キュウリは,もう枯れ枯れではありますが,2本採れました。
 葉物野菜もなかなかです。
 チシャは,トウが立ったような状態です。
 セロリは,枯れ枯れとなっています。
 ただ,ツルムラサキは青々としています。
 ゴーヤは元気です。5本ほど収穫。
 水をたっぷりやって撤退いたします。
 12日(日)  まだまだ酷暑の京都です。
 夕方から,先ずアヤハへ行き,畑用の土とニンジンの種を購入して,畑へ。
 ナスはこの暑さの中元気です。数個の収穫。
 エダマメの跡地はそのまま。
 赤トウガラシを10個ほど収穫。
 ニンニクの跡地に畑用の土を入れて耕して,畝を作り,ニンジンの種を蒔きます。考えると,ここ数年ニンジンの種を蒔くのはちょっと遅かったのかなと思ったりしてします。
 トマトは完全に枯れてきました。
 キュウリもそろそろ終わりです。
 葉物野菜の中で,ツルムラサキだけが元気です。茎も葉も収穫。
 ゴーヤもまあまあです。小さな実を10個ほど収穫。
 後は,たっぷりと水をやって退散いたします。
 19日(日)  五山送り火も済み,少し暑さも緩みました。
 朝から畑へ。
 ナスは相変わらず元気です。大きなもの10個ほど。
 エダマメの跡地はそのままにしておきます。
 シシトウは,全てが枯れてしまいました。
 先週蒔いたニンジンはまだ発芽していません。
 トマトとキュウリを撤去します。支柱を1本1本外します。
 葉物野菜は,ツルムラサキだけが元気です。また少し収穫いたします。
 ゴーヤはたくさんの実がついていますが,あまり大きなものはありません。
 後は,またまたたっぷりと水をやって撤退いたします。
 26日(日)  8月最後の日曜日となりました。
 また猛暑復活です。朝から先ずアヤハに行き,石灰,腐葉土,牛糞を買って,畑へ。
 ナスもかなり疲れてきました。実を数個収穫。
 エダマメの跡地は,そのままにしておきます。
 シシトウは跡形もなく,枯れはてました。
 ニンジンはきれいに発芽してきました。ここ数年の不調はやはり蒔く時期が遅すぎたのかもしれません・・
 トマトとキュウリの跡地に,石灰,腐葉土,牛糞を入れて,荒起こししておきます。
 ツルムラサキはまだまだ元気です。また少し収穫。
 ゴーヤは,先週の台風20号の風のためか,支柱が斜めになっていました。実は数個収穫できました。
 後はたっぷりの水やり・・・

 
 コンプライアンスということが花盛りではあります。
 花盛りと言いますと誤解が生じるかもしれませんが,今や社会のあらゆる領域において,コンプライアンスが語られないことはありません。

 遵法・・・と訳されることが多いと思いますが,ただ単に法律を守るというだけでなく,実践的には非常に多くの側面を有している概念でもあります。
 この辺を語り出すと,かなりのボリュームになりますので,またの機会としておきます。
 (実は私は現在,この語に非常に関わりのある仕事をしています。)
 1つだけ申しますと,「法を守るスタイル」ができていて,それを「自慢」しているにも関わらず,法の抜け穴を駆使したり,法の解釈を自らに有利なように行って,結局は自らの組織の利益確保にしか目がいかない(そんなケースの事件が連続した時期もありましたが),というような姿は,真の意味でコンプライアンスに適っているとは思えません。
 しかし,「遵法」という意味では,「適切」なのかもしれません。
 なかなかむずかしいですね。
 一方で,時代の変化に法がついていかないといった問題もあります。

(言っておきながら,ボリュームを増してきました。中略・・・としておきます。)

 さて,先日,車の中でFMラジオをなにげなく聞いておりましたら,あるロックミュージシャンが出演していまして,その前後の話の脈絡はあまり覚えておりませんが,その彼が言うには,
 「最近はロックバンドにもコンプライアンス云々と言われる。けれども,我々はコンプライアンスが守れないからロックバンドをしているのだよ」
ということでした。

 現代の多くの人々は,そんなことはロックバンドといえども「けしからん」と想うでしょう。ネット社会でも最近は,そのような「良識派」が圧倒的多数です。
 しかし一方で,ある人々は,「コンプライアンスを守ろーなんて言っているロックバンドは,ロックバンドとは言えないよ!」と想うかもしれません。
 この後者の考え方は現在では非常に少数派と断言できます。

 また,おそらくこのラジオで話していたミュージシャンも「ロッカー」らしい発言をしてはいますが,社会の則を超えた行動を実際にはしていない人であろうと思います。
 現代は,そのような人を白昼堂々とラジオ番組に登場させてはくれません。

 最近は猫も杓子もコンプライアンス!!と強調されている状況のように思えます。

 まあ,法律に違反することの多くは「犯罪」ともいえますから,遵法は当然のことではあります。ここでは,しかし,コンプライアンスをそのような意味だけに捉えるのではなく,社会規範や社会的常識などに従順かどーかという意味も含めて考えてみたいと思います。

 男性芸能人が,未成年の女性とキスしたりしたら,現代では明らかに犯罪行為です。
 ちょっとした犯罪行為というだけでは済まず,彼はほぼ確実に人気絶頂であった芸能界を去らなくてはいげなくなります。
 被害者が存在するのですから,当たり前でしょうか。まあ,現在の社会的状況は,そーすることがほぼ「当たり前」です。

 では,「被害者が存在しない」と主張されることもある「麻薬」などについてはどうでしょうか?!
 (もちろん,薬物による行動によって「被害」や多くの「損失」また特殊な「利益」が生じていることなどは承知していまし,私も麻薬等を弁護する立場には立ちません。)
  
 いわゆるミュージシャンなんて,ちょっと前までは,有名どころも含め,みんな(?)「麻薬」をしていました。
 若いミュージシャンが急死でもしたら,ほぼ間違いなく「薬のやり過ぎ」でありました。

 日本の有名どころを少しだけ挙げてみましょう。執行猶予になったかどうかなどは捨象して,とりあえず逮捕された(芸能界に疎い私でも知っている)人達です。(逮捕年は書きませんが,記憶に新しいものから古いものへという順番となっています。)

ASKA(覚せい剤),酒井法子(覚せい剤),桂 銀淑(覚せい剤),田代 まさし(覚せい剤),江木 俊夫(覚せい剤),長淵 剛(大麻),尾崎 豊(覚せい剤),美川 憲一(大麻),萩原 健一(大麻),カルメン マキ(大麻,ヘロイン,覚せい剤),北 公次(覚せい剤),上田 正樹(大麻),錦野 旦(大麻),内藤 やす子(大麻),内田 裕也(大麻),研 ナオコ(大麻),井上 陽水(大麻),桑名 正博(大麻,コカイン),ジョー 山中(大麻),柳 ジョージ(大麻),ミッキー 吉野(大麻),加橋 かつみ(大麻)

 これだけでもそうそうたるメンバーであります。このメンバーだけで,歌番組が何時間分も制作できます。
 彼ら以外に,私の知らない(あまり有名でない)芸能人などを含めますと,あるいは,音楽関係だけでも有名バンドのメンバー等まで対象を広げると,実に膨大な数になります。

 彼らは,しかし,(再犯者は別として)その後も第一線で活躍している人が大部分です。
 今も,大手企業のCMなどに出演したり,楽曲を提供したりしてもいます。
 そのようなことが,少なくとも再犯をしなければ,一定許されていた時代もあったのだともいえます。

 ミュージシャンと比較しても,さらに,いわゆる芸人といわれる人たちには,これらに輪をかけた状況があったように思えます。

 社会的に破綻していると言わざるをえない状態の人が,家では暴力をふるい,街では酒を飲んで破廉恥な言動を繰り返し,しかし,舞台に上がれば,誰もが見入り聴き入る芸を披露して,見ている人も,私生活は別のものとして,その芸によって芸人の評価を行う・・・という時代があったように思えます。

 今は,例えばDV=domestic violenceで訴えられたら,それだけで,彼の活躍する場はなくなってしまいます。

 これについては,社会意識の変化ということ,そして,テレビ社会ということが言えるのでは・・・と思います。
 舞台などは,お金を払って見たい人が見に行くのですから,気にくわない犯罪者の舞台は見にいかなければいい・・・という理屈も成り立ちます。そこへ行かなければ,見なくて済む。
 テレビは,しかし,茶の間に偶然でも犯罪者の映像が飛び込んできますから,そういう人間を出すわけにはいかないという理屈も成り立ちます。見たくないものも見えてしまうのが,テレビではあります。

 しかし,現代は,そのような理屈以上に,犯罪者というよりも広く社会不適合者を舞台に出しているということ自体,極端にいえば,社会の表面に出していること自体がいかがなものかと問われる時代とも言えます。

 さてさて,始めに書きました「コンプライアンスが守れないから,ロックバンドをしているのだよ」という言であります。

 もともとロックは,反体制的なものとして成立してきたものです。
 現在に続くいわゆる「ニューロック」の発生が,世界的な「異議申立運動」の時代と重なっていることは,偶然ではありません。

* ニューロックについては,さまざまな概念,解釈があると思いますが,私的には「主に1970年前後から登場した,それまでのロックンロールやカントリーなどの一種定型的な音楽を乗り越えようととした一連のウエーブ」としておきます。

 エスタブリッシュメントに異議を申立て,ドロップアウトした人間が反体制的な言動をアピールする・・・というようなことが,正統的ロック?!の在り方なのであります。
 反体制的なものは,概して?!,反社会的なるものと仲がよろしい。
 
 さてさて,良いことなのかどうかは別として,現代は,遵法ということを超えて,反社会的なるもの,また反体制的なものを許そうとしない,許容しようとしない社会,時代であるようにも思えます。

 体制を批判する。エスタブリッシュメントに異議を唱えるということ自体が何か悪いことのように扱われています。
 「右」であれ,「左」であれ,改革を目指さなければ,「右」である必要も「左」である必要もありません。
 「保守」の象徴のようなエドマンド・バークも「保守するための改革」という言葉を残しています。

 そういう意味では,「コンプライアンスが守れないから,ロックバンドをしているのだよ」とは,現代社会的には少々「はみだした」表現ではあるかもしれませんが,ロックとして「正しい言い分」とは言えます。
 彼がその立場を貫けるのか・・・というと,1970年代とは全く異なった環境ではあります。

 まあ,そんな立場への支持が極めて少ないのが,現代なのかもしれません。
8月末の畑の様子



(なし)



 

ニンジン



(なし)




ゴーヤ

(なし)


ナス

(なし)

ツルムラサキ


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