菜園日記2016年4月

 3日(日)  4月に入りました。
 暖かな日曜日です。
 年度替わりのためか,街は日曜日の朝にしては,人が多く行きかっています。
 ニンニクとタマネギは背も高くなり,茎は太ってきています。
 葉物野菜とエンドウマメの跡地はそのままです。
 ブロッコリーは,側花蕾をたくさんつけています。また30個ほど採ります。
 ネギを2ケ所抜きます。あと2ケ所で終わりです。
 最後に残ったダイコンを全て抜きます。小さなものばかりとなりましたが,今年のダイコンはこんな感じでした。
 ベンリ菜は,その野菜の姿からは想像できないほど大きな花となっていました。全てを抜きます。
 ダイコンとベンリ菜の跡地を荒起こしして,石灰を入れておきます。
 後は,草抜き等・・・
 10日(日)  桜もほとんど散ってしまいました。
 暖冬で少し早く咲いた今年の桜でしたが,散るのも例年以上に早いものとなりました。
 昼からアヤハに行き,腐葉土,畑用の土,そして,万願寺トウガラシの苗を1つ,ピーマンの苗を2つ購入いたします。
 ニンニクとタマネギは茎をいよいよ太くしてきました。タマネギの根元は球になりつつある様子が分かります。
 葉物野菜とエンドウマメの跡地の南半分を耕し,トウガラシとピーマンを植えました。
 ブロッコリーは完全にお花場畑状態です。
 ネギは最後に残った2ケ所を抜いて終わりとします。夏に植えたネギでしたが,結局は冬になって育ちました。
 ダイコンとベンリ菜の跡地に腐葉土を入れ,また荒起こししておきます。
 後は,液肥,ビタミン剤等々・・・ 
 17日(日)  朝からの雨です。
 畑は中止となりました。
 24日(日)  暖かな4月最後の日曜日です。
 午前中から,先ず高山園芸店に寄り,ナスの苗,3種3個を購入して,畑へと向かいます。
 ニンニクとタマネギはかなり太くなってきました。
 ただ,ニンニクは今までになく太くなっているのに,トウもたたず,ちょっと??です。
 シシトウとピーマンは皆,元気な様子です。
 エンドウマメの跡地を耕し,畝を作り,そこにナスを植えました。
 ブロッコリーは完全にお花畑状態です。2本とも抜きます。今年のブロッコリーは,側花蕾がたくさんできました。
 ネギの跡地はそのままにしておきます。
 ダイコンとベンリ菜の跡地に米ぬかを少し撒いて,少し耕しておきます。
 後は草抜き等々・・・

 私の大学時代の親しい友人が何人も,若くして次々と亡くなっていったことについては,ここにも一度ならず書きました。
 (菜園日記2007年9月,同2013年1月)

 中でも一番初めに亡くなったIさんは,少し年上でもあり,我々の親分的存在でした。(プロボクサーのライセンスを取得して,リングに上がったこともある人でした。)
 大学1年か2年の頃,Iさんの発案で,語学のクラスが一緒の者を中心に親睦の会を作ろうということで,「民宿研究会」なるものが誕生いたしました。
 といっても,当然のことながら,民宿の歴史などを研究するわけではなく,民宿に泊まって酒を飲もう!という会であります。
 
 この研究会でも,I氏を追って若くして亡くなったFやYもメンバーでした。
 しかし,私の記憶している限り,この民宿研究会は1回だけの活動となりました。
 それは確か,秩父駅からバスに乗ってたどり着く山間の民宿で,一泊二日の,特にどこを観光するでもない飲んで騒ぐだけの旅行でありました。

 私は,実は残念なことに,この旅行のことをほとんど覚えていないのです。
 覚えていることは2つのシーンぐらいです。

 1つは,往路のバスの中で,傍若無人にもバス後方の座席を独占した我々は,そこで早くも酒盛りを始め,大きな声で歌を歌い始めました。
 そこでよく記憶している光景は,他のお客さんが,我々の「楽しそうな醜態」をとても暖かく「元気な学生だなあ」という感じで見ていただいていたことです。ある方には,ニコニコと「楽しそうだなぁ」と声をかけてもらったことを記憶しています。
 今でしたら,すぐに他の客から注意を受けてケンカ沙汰になるか,はたまた警察を呼ばれてもおかしくない状況であります。

 まあ当時は,旅先の交通機関の中だけでなく,学生の宴会といえば,ちょっとした街中の公園の中などでも普通に年中繰り返されておりました。
 特定の花見の時期などに特定の場所が花見客で騒がしくなることは,現在でも一つの社会的良識の範囲内として許容されているかもしれませんが,当時は,街中の公園で学生が飲んだくれて騒いでいても,大目に見てもらえる社会的風潮がありました。
 今でしたらパトカーが急行していることと思います。(何しろ町内の盆踊りでも,騒音が大きい!と110番通報される時代であります。)
 そーなると,加えてその場にいる少なからぬ割合の学生が未成年という可能性が高いでしょうから,またまたお叱りを受けることとなります。
 お叱りだけでなく,法律違反です。学校当局は,記者会見という場面を迎える・・・というのが現在でしょう。
 当時は,お叱りを受ける方も,叱る方も,まあ学生は仕方ねえなあなんて感覚ではありました。
 今のように,学校にも親元にも警察にも通報だ!責任問題だ!法律違反だ!退学だ!なんてことにはなかなかなりません。
 学生が,自由ではありますが,一種ぬるま湯の中で育っていた時代ではあると思います。

 今一つ覚えているシーンは,夜の宴会時に遅くまで大声で騒ぎ過ぎて,ついに堪忍袋の緒が切れた民宿のご主人に怒られてしまったことです。
 少しは許される学生のどんちゃん騒ぎも,当然度を越してはいけません。
 これまた今は亡きFは,「俺たちは新聞配達で学費を稼いで,たまにこんな風に自由にどんちゃんと騒ぐことだけが楽しみなのだよ」とご主人に逆らったりしていましたが,まあ,聞くに堪えない類の文句であって,酒の上であるにしろ,周囲の大人の好意で許されていたどんちゃん騒ぎではありました。
(まあFのために少し附記しますと,彼は実際家出をして,新聞配達や牛乳配達をしながら,自分で学費や生活費を稼いでいた時代があったことは事実ではあります。)

 早々に旅立ってしまったメンバーが勢ぞろいしているイベントなので,もっといろいろと思い出したいのですが,残念ながら記憶はどんどんと劣化してしまっています。

 その後Iさんは,この民宿研究会を大学公認の同好会として認めさせたいとも考えたりしていましたが,現実的には自然消滅してしまいました。
 まあ,研究会というより,親しい仲間との一泊二日の旅行があったという思い出ではあります。

 そういうこともあり,また後年,4年生の時のゼミの合宿も秩父で行われたということもあり,秩父という地名にはなんとなく懐かしさを感じています。
 テレビで,秩父出身の落語家が秩父のことを話しているだけで,ちょっと親しみを感じたりもいたします。

 さて,秩父といえば,和同開珎で有名なところでもありますが,私の興味の対象としては,明治17年に生じた秩父事件が存在いたします。
 これは,一言でいえば,自由民権思想に接していた自由党員らが中心となって,負債に悩む秩父の農民たちが結成した「困民党」と呼ばれる組織を核とした大規模な武装蜂起です。
 租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を政府に訴えました。
 また,彼らは,高利貸,役場,警察署,裁判所などを襲い,武器や金銭を奪ったりもいたしました。
 政府は,警察や憲兵隊のみならず最終的には東京鎮台まで動員して,徹底的な武力鎮圧を図ったというものです。
 事件後の裁判の結果,死刑7名を含む4,000名余が処罰され,日本史上最大規模の民衆蜂起とされています。

* 鎮台=鎮台とは,明治前半に置かれた日本陸軍の編成単位です。常設され  るものとしては最大の部隊単位でありました。鎮台の設置とその後の徴兵制   実施をもって日本の近代陸軍の始まりとされています。師団への改組で廃止  となります。
* 自由党=板垣退助らによって作られた,日本で初めての政党。

 「恐れながら 天朝様に 敵対するから 加勢しろ」の言葉が有名なこの事件は,しかし,長らく秩父ではタブーであったようです。
 それはそうかもしれません。
 国家に対する反乱であります。
 政府からは「凶徒」と呼ばれ,板垣退助すら後に「暴動」と切り捨ててしまっています。
 戦後,秩父市出身の歴史学者井上幸治が,改めて秩父事件に光をあてました。膨大な警察調書や裁判記録,官庁の報告書に当時の経済状況を重ねて分析し,事件を「自由民権運動の最後にして最高の形態」と位置づけます。

* 井上幸治 『秩父事件 自由民権期の農民蜂起』,中公新書,1968年
  (これは,私にとっても印象深い1冊です。)

 その後,さまざまな取組みや研究が行われ,秩父事件は見事に復権を果たしました。
 現在では,秩父の住人は秩父事件を誇りに思っておられます。公式公的な秩父案内のホームページや観光案内の記事を見ましても,それが見て取れます。秩父の方々の,バイタリティを感じます。
 そして,この武装蜂起で発揮された秩父農民の楽天性や高揚したエネルギー,より良い未来をめざした志は,今もなお多くの人ぴとに感銘をあたえていると言えます。

 上記「恐れながら 天朝様に 敵対するから 加勢しろ」と今一つ「圧制ヲ変ジテ自由ノ世界ヲ」というスローガンが有名でありますが,同じ「自由」という単語でも,ぬるま湯の学生の「自由」とはどうしようもなく大きな違いです。
 民宿研究会のどんちゃん騒ぎとは対極にある事件でありますが,そのような貧しい農民の命をかけたエネルギーの爆発が,あの風光明媚な秩父で生じたということが,学生時代の私にも不可思議な感覚を生じさせていました。
 秩父の山々の姿と,歴史的事件,西南戦争に比される蜂起への徹底的な弾圧,そして昭和のぬるま湯の中でエネルギーを発散させていた学生時代,多くの友人の若い死,共通項は秩父という場所しかないのですが,私にとっては,何故か同時に脳裏に浮かぶ光景ではあります。

4月末の畑の様子


タマネギ

 

ナス


(なし)

(なし)


シシトウ

ピーマン


ニンニク


(なし)




(なし)




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