菜園日記2016年2月

 7日(日)  2月に入りました。
 本日は,所用のため,畑には行けませんでした。
 14日(日)  またまたかなり暖かな日曜日となりました。
 昼から畑へと走ります。
 この週末の雨で,畑はかなり濡れていました。
 ニンニク,タマネギは,順調な感じです。
 ミズ菜はまた葉を広げています。
 エンドウマメは相変わらずです。
 ブロッコリーは,側花蕾を10個ほど収穫いたしました。
 ネギを2ケ所抜きます。
 ダイコンは,相変わらず太くなりません。1本を抜きます。
 ベンリ菜は相変わらずです。
 後は,草抜き等々・・・
 21日(日)  京都マラソンの日です。
 本日は所用のため,ちょっと畑には行けません。
 28日(日)  2月最期の日曜日となりました。
 相変わらず,とても暖かな日が続いています。
 ニンニク,タマネギは,茎を太らせてきました。
 ミズ菜は丸々と葉を茂らせていましたが,全て採って終わりとします。
 エンドウマメも全面撤去です。
 葉物野菜とエンドウマメの跡地を荒起こしして,石灰を撒いておきます。
 ブロッコリーは,側花蕾がたくさんできていました。20個ほど採ります。
 ネギは,残り少なくなってきました。
 ダイコンはなかなか太くなりません。2本を抜きます。
 ベンリ菜は相変わらずです。
 後は,液肥,ビタミン剤等々・・・

 少し前に(=昨年12月の菜園日記に)<年寄りの楽しみ>として書いた件なのですが,何故歳を取っていろいろなことが楽しくなるのだろうということでありました。
 これについて,その時に書いていたこととは別に,最近ひょっとしたら・・・と思いつくことがありました。
 それは,定年とか金銭的あるいは時間的余裕とかのいわば外在的理由ではなく,ひょっとしたら,自分自身が変わってきたことによることかもしれないということです。
 こんなことを書くと,しかし,なんか若い時に酒を飲みながらしょっちゅうしていた議論の1シーンを思い出したりします。

「世の中を変革するためには,先ず自分自身が変わらなくてはいけない!」
なんていう者がいると,
「お前が変わって,なんで世の中が変わるんだよ!」
と攻められたりいたします。私はどちらかというと,この場合,攻める側でありました。
 そのうち酒の力も加わって,声もだんだんと大きくなり,果ては殴り合いになったりいたしまします。
 最近の学生などは,殴り合うような議論はしないようです。
 酒も程々のようですし,親御さんからお預かりしている大事なお子さんの通う大学当局としても,非常に喜ばしい姿ではあります。
 しかし,学生として,情けない状態だと私は思います。
 
 まあ,何をどのように変えたいのかということにもよるのでしょうけど,少なくとも自分のプライベートな空間(もちろんそこは他者との関係性において初めて成立している空間でありますが)は,自分自身が変化していくなかで,変化の連鎖が起こったり,見えてくる景色が変貌したり,さまざまな状況変化が生じると思います。
 それを見ている他者も影響を受けるでしょうし,それがまた自分にフィードバックされることもあるでしょう。

 私は若い時は,ちょっとしたことに非常に厳しいというか,こだわるというか,例えば約束の時間を守らない人間がいると,それだけでその人間とは付き合いを切るなんてこともあったわけですが,歳を取ると,まあ彼にもいろいろと理由もあるだろうからと寛容になってまいります。
 これは,長年の社会的訓練と言うか,厳しくこだわってばかりいたら,仕事も前に進まなくなってしまうというような現実の積み重ね等からくるものかもしれません。 
 最近は,時間ばかりか,以前は全く許せなかった「嘘」まで許容するようにもなってしまいました。
 前から決まっていた会合の直前になって,家の中に宇宙人が侵略してきて,家族総出で戦闘状態に突入しているので会合には行けなくなったというような連絡が入りますと,若い時でしたら,
「来られないなら来られないと,もっと早く言え!」
「言い訳をするなら,下手な嘘をつかずに,言いたいことを言え!」
などと,そーいう人間とはもう口もききたくないなどと強く思うのでありますが,最近では,まあみんなそれぞれ都合も考え方もいろいろあるのだから,あまり責めたりするのは止めておこうと思ったりいたします。

 一方で歳を取ると,気になることも多くなります。
 それなりの期間,組織の中で集団生活やマナー等々について叩きこまれてきたのですから,特に訓練を受けていない年下の人間を中心に,腹の立つことは増えます。
 満員のバスや電車に乗ると,右も左も前も後ろも腹が立つことばかりです。
 私がスーパーマンであれば,この全員を宇宙空間に放り投げたい気分です。
 でも,そんな現象については,一時はそれなりに身をはって抵抗したりもしましたが,最近は既に諦めの境地です。
 かなり大きな変化です。
 仕方ないのか・・・という部分もありますが,社会的ルールについても,私の考えていることは,ひょっとしたら現在,目の前にある現実には適用できないものなのではないかと思うようにもなってきました。
 それがいいことなのか,悪いことなのかは別といたしまして,少なくとも,こーいう変化によりまして,怒りを発する機会はかなり減ります。
 それだけでも,相対的に楽しい時間が増えるといえるのかもしれません。
 
 対人というだけでなく,対モノの面でも,こだわりはかなり減りました。
 例えば,机の上に置いた小さなクリップが,何かの作業の拍子にどこかに飛んで行ってしまう・・・なんていうことは日常の中で良くあることですが,私の場合,すぐさまそれを見つけないと気がすまない性格でありました。
 そんな時にでも,すぐ替りの新しいクリップを引出しから取り出して,それを使用する人もいますが,私はクリップがもったいないとか言う事よりも,それが現在確かにこの部屋の中に現存しているということを確認しないと気が済まないのです。
 従って,机の下から,本棚の隙間,果ては洋服の布の縫い目まで探します。
 見つかるまで探す人でした。
 しかし,これもまた最近は,こだわりがなくなってきまして,どこかにいってしまったものは,まあ仕方ないか,その内また姿を現すだろうというような気持ちを持つようになってしまいました。
 それから,例えば,本を買います。
 本には,カバーといわゆる帯がついているものもありますが,私は,帯なんかも大事にそのままつけて本棚にしまうタイプです。
 一方で,私の友人でも,本を読む前に帯を取って捨ててしまう,あるいはレコード(!)なんかの帯もパッと引きはがして捨ててしまう人間がいます。
 彼からすると,帯を残しておくようなことは,将来中古ショップに売ったりする時に,少しでも高い値段がつくことを考えてのことなのか?という程度のことになります。
 私の方からすると,帯も含めて,本であり,レコードであるということになります。
 まあ,これに関しても最近は,取れてしまったら取れてしまったでいいし,破れたら仕方ないか・・・というような感じになってまいりました。
 それがいいことなのか,悪いことなのかは,別といたしまして,少なくとも,いろいろな時間を節約できますし,ものは無くなったり壊れたりするものだと,諦めもよくなります。
 執着が減れば,相対的に楽しい時間が増えると言えるかもしれません。

 ひょっとしたら,長年の経験からほぼ無意識に,楽しくない事柄から離れようとしているのでしょうか。
 そうであれば,歳を取って何か楽しい・・・ということはある意味自明のことなのかもしれません。

 ついでにもう1つ言えば,ある年齢から・・・だいぶ以前になるかもしれませんが・・・写真をあまり撮らなくなりました。
 以前は旅行などに行きますと,写真を撮ることが目的であるかのように,カメラの前でピースサインばかりをしていました。
 当時の私が,SNSをしていたら,今の多くの人がしているように,食事の時に料理の写真ばかりを撮って,サイトにアップしているだろうと想像いたします。これまた,写真を撮ることが目的であるかのように・・・
 写真については,良く考えたわけではありませんが,とりわけSNSの料理の写真などは,自己愛の表出の一つのように思えます。
 ブログの中にあふれる料理の写真は,「私はこんなに美味しい料理をこんなに楽しく食べているこんなにいい女(男)よ!」という姿と見えます。
 歳を取ると,逆に自己愛もしんどくなるのかもしれません。

 さてさて,なんやかんやと自分自身が変わっても,浮世の世界がガラっと変わることはないとは思いますが,自分の身の回りの「見え方」は確実に変わるのでしょう。
 これは,また,自身が軟弱になったということでもなく,逆に,人を許す,あるいは自分の感情をコントロールするようになるという意味では,強く変わっているともいえそうです。
 亀の甲より年の功といいますが,正にそんな感じではあります。
 テキトーな言い回しでありますが,それがイーのであります。

2月末の畑の様子



タマネギ

 

(なし)


ネギ


ベンリ菜


(なし)



ニンニク


ブロッコリー

カリフラワー




ダイコン




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