菜園日記2015年10月

 4日(日)  10月に入りました。
本日は,所用のため,畑には行けませんでした。
 11日(日)  2週間ぶりの畑となりました。
 先ず,アヤハに行って,腐葉土,畑用の土,石灰を買って,畑へと回ります。
 ずっと置いておいたキュウリを片付けます。
 シシトウは,まだまだ元気で今日も40個ほどの実が採れましたが,次のこともあるので,終わりといたします。
 オクラは2週間ぶりでしたので,大きな実がたくさん生っていましたが,食べ頃のものも3つほどありました。これもまた終わりといたします。
 キュウリとシシトウとオクラの跡地に石灰,腐葉土,畑用の土を入れ,荒起こししておきます。
 葉物野菜も元気です。少しずつ収穫いたします。
 エンドウマメはツルを伸ばしていました。また上部を支柱に留めます。
 カリフラワーとブロッコリーはかなり虫に喰われていましたが,概ね順調です。
 夏のネギはここにきて,ネギらしくなってきました。
 ダイコン,ベンリ菜はちゃんと発芽していました。ベンリ菜の小さな葉を間引きつつ収穫です。
後は,草抜き等々・・・
 18日(日)  秋真っ盛りの日曜日です。
 早朝から,畑へとまいります。
 キュウリ,シシトウ,オクラの跡地はまた少し耕しておきます。
 葉物野菜は順調です。少しずつ収穫いたします。
 エンドウマメもまた背を伸ばしてきました。本支柱を立てます。
 ブロッコリー,カリフラワーに寄せ土をしておきます。
 ネギも大きくなってきました。
 ダイコンも元気です。各箇所1本ずつを間引きます。
 ベンリ菜も同じく,たくさん間引きしつつ収穫します。
 後はビタミン剤等・・・
 25日(日)  10月も最後の日曜日となりました。
 この10月は,暖かな陽が続いていましたが,今日は急に冷え込み,風も強い日曜日となりました。車の中で聴いていたラジオでは,どこかで木枯らし1号が吹いたということでした。
 今日は先ず,高山園芸店に向かいます。タマネギはまだということでしたが,ニンニクがたくさん置いてありました。
 ニンニクをいただいて,畑へと走ります。
 キュウリ,シシトウ,オクラの跡地を耕し,畝を作って,南側のほぼ半分にニンニクを植えます。時期的にどうなるか不明ではあります。
 北側は空けておきます。
 葉物野菜は元気です。水菜がかなり大きくなっていましたので,少し収穫いたします。
 エンドウマメもまた背を伸ばしていました。支柱の上部にまた留めます。
 ブロッコリーとカリフラワーも大きく葉を広げてきました。
 ネギはここにきて元気に伸びています。
 ダイコンはまた各1ケ所ずつを間引きつつ収穫です。
 ベンリ菜もたくさん間引きつつ収穫いたしました。
 後は,水遣り等々・・・

 確か小学生の頃,何かの授業の中でか「将来何に成りたいか」というような質問があり,まあ当時の話でありますから,野球選手やら花屋さんやらの名前が飛び交っていました。
 このような子どもの意識調査は,現在でもいろいろなところで繰り返し実施されていますし,世相を表すモノサシの一つとしていつもマスコミでも大きく取り上げられています。私も,時代時代を良く表しているなぁと思って見ていたりします。
 今でしたら,男の子はサッカー選手が一番だと思いますが,私の小学生の時は野球選手がダントツの一番でした。
 当時は野球シーズンとなると,毎晩必ずテレビの野球中継がありました。放映時間の関係で,試合のいいところでテレビ中継が終わりますと,多くの人はラジオをつけてずっと聞いていました。ラジオもその時期,どの局も野球中継がメインでした。試合の最後の最後まで放送していました。野球大好き人間にとってこのシーズン中は,夕食後,毎日毎日野球視聴という至福の時間に浸れる時代ではありました。
 女の子は,どーだったのでしょう。看護婦さんや保母さん(敢えて当時の呼び名で書きましたが),そしてケーキ屋さん,花屋さんなどが上位であったような記憶があります。今は,なんと医師とパティシェということであります。
(調査主体によってさまざまな結果がでています。女の子の一位があいかわらず「ケーキ屋,パン屋」という調査もあるようです。男の子はいずれにしてもスポーツ選手が一番であり続けているようです。)

 その中で,1人の級友が将来の夢として「平凡なサラリーマンになって平凡な家庭を築くこと」というような発言をしました。
 担任の先生もその発言に対して,平凡なことを継続することは難しく,平凡に生き続けることは大変なことなのだと応えていたような記憶があります。
 しかし,その発言者も多分,父母か誰か,あるいはテレビの出演者等がそのように発言していたことを真似ていたのでしょう。
 小学生が平凡を目標にするのはなかなかレアなことでしょうし,ある意味小学生がそのような志向でいいのか・・・という気もいたします。

 そういえば,昔『平凡』という雑誌がありました。
 この雑誌名や平凡出版等の名称等々については,なかなか紆余曲折もあり,それを語るのには一筋縄ではいかない面もあるようですが,私が小学生である頃の『平凡』は,若い女性向けの芸能雑誌といったものでした。小学生が定期購読するような雑誌ではありませんでした。理美容や医院に行った時に置いてある,または兄妹に妙齢のお姉さんがいる小学生が読める・・・という感じの存在でした。
 ですから私も,この雑誌の熱心な読者ではありませんでしたが,マンガオタクでしたから,石森章太郎の「気ンなるやつら」が連載されていたことを覚えています。昔日の漫画少年的に言えば,青年コメディ的な分野での石森章太郎の代表作の1つであると思います。
 調べてみましたら,当作品は『平凡』に1965年から1968年に連載されていたようです。ちょうど私が小学生高学年から中学に入った頃のものです。
 後に,虫プロから虫コミックスとして発売もされました。いずれにしても,当時の石森作品は,私にとって,実験精神にあふれたセンス抜群のものでした。
 新鮮なコマ割,斬新な擬音表現,そして登場人物のちょっとした表情やしぐさが見せる子ども心にも感心してしまう役者的カッコ良さ=石森漫画については,洋画俳優的カッコ良さと言うほうが適切なのかもしれませんが・・・等々等々・・・
 まあ少なくとも,決して平凡な作品ではありませんでした。

 閑話休題。

 さて,当然のことながら小学生の私は,平凡であることの素晴らしさを理解できる存在ではありませんでした。
 繰り返しにはなりますが,その発言をした級友も,自分の内在的な思いとしてそういう言葉を発したというよりも,恐らくは身近な大人の発言をコピーしたのではないかと思えます。
 一方,歳をそれなりに取った私がテレビなどでニュースを見ていて最近特に強く感じることは,平凡な人々の暮らしが突然崩される数々の理不尽なアクシデントの存在です。
 ある日突然大きな天災が襲来する。
 日課として近くのスーパーに買い物に来ていた老夫婦が,薬物使用の暴走車にはねられる。
 サラリーマンが残業の帰路,疲れた身体を休めつつ乗っていた電車が脱線事故を起こす。
 毎年人間ドックを受診していたのに,ある日突然,進行度の高い病気を宣言される。
 休日の繁華街で,狂信的な人間の確信犯的な行為により,偶然その場にいた人の生命が奪われる。
 等々,等々。
 この世は,個々の善良な人々の意思や希望,努力といったものなどに関係のない脈絡で,物理的化学的確率的なものとして淡々と進行しているということがよく分かります。
 しかし,当然のことながら,宇宙的な時空間では単なる小さな「淡々とした」確率的な現象であっても,一人の人間にとっては,その人生の全てが崩壊される瞬間ではあります。
 平凡な人生を襲う「突然」であります。
 そのように考えますと,生き方,志向の問題というよりも,結果としての「平凡」なあり方ということは極めて確率の低い,幸甚な境遇であるように思えてまいります。

 一方で,そのようなことが身に染みて分かってくるのか,歳を取りますと同じことの繰り返し,再現といったことがある意味非常に喜ばしいものとなるのも事実であります。
 例えば畑をしていますと,毎年同じ時期に同じように作物が生長し,同じように収穫できる,そういったいつもながらの同じ景色を迎えることが大きな喜びとなりますし,年末年始の街の風景やその他の年中行事に,あとまだ何回かはこれを経験できるのかなぁと感じ入ったりします。
 換言すれば,とりあえずは途切れることなく,今年もこの瞬間に去年と同様の時空間の中に存在していられるという,小さなしかし基本的な喜びであります。

 さて,こうなりますと,平凡な生き方とかいうその定義は,なかなか困難です。
 平凡という言葉は,例えば,一般的なとか平均的なとか多数派とか説明されることも多いのですが,それだけではないでしょう。
 多くの人が結婚して子どもを作るから,結婚しないで子どもを作らない人生は非凡かというと,その人数的な構成比だけで非凡と呼ぶのはいかがなものかという気がいたします。
 また大きな病気にもかからず,健康的に淡々と年を取る様子を平凡と呼ぶにふさわしいかというと,まあ現代では何かの病気にかかって,病院で死ぬようなことが一般的なのでしょうから,そちらの方が平凡=多数派なのでしょうけど,人々が望む「平凡」な姿とはやはり違うような気がします。
 となると,おそらく平凡な人生とは,その言葉それ自体の直接的な定義とは別に,多数派か少数派かというような数字的安定ではなく,危険な冒険などをせず,大きな病気にもかからず,淡々と日常生活が繰り返されるような状況と言っていいのかもしれません。
 即ち,リスクのない人生を歩む,リスクを生じさせたり大きくさせたりする案件等からは結果としてなるべく遠ざかって生きる,生きることができているという状態でしょうか。

 これはしかし,確率的には,また現実的には,極めて「非凡」な状態であるのだろうと思います。
 自分で選択する余地のない偶然の積み重ねの中に実現している状態でもあるでしょう。
 しかし,その「非凡」な状態こそが,少なからぬ人の望む理念的に「平凡」な人生でもあるのでしょう。
 なんか逆説的なというか,グルグル回った表現となりました。 

 平々凡々,非凡な中の平穏ではあります。

<追伸>

 少年サンデーに少年マガジンがあるように,『平凡』のライバル雑誌といえば『明星』でありましょう。『平凡』に対抗してできた後発誌であり,私はあまり読んだ記憶もなく,掲載漫画にも記憶がないのですが,ちょっと取り上げるべき存在としては『明星』の裏表紙をメインの活躍場としてデビューした(という私の記憶ですが)「日ペンの美子ちゃん」があります。
 調べてみますと,美子ちゃんはボールペン習字通信講座のマスコットキャラクターであり,日本ペン習字研究会の広告塔として大きな役割を担った存在でもあります。また,早くから漫画の魅力に気づきマーケティングに取り入れた漫画マーケティング界における“先駆者”としても高い評判の取組であるようです。
 ある年代以上の方であれば,誰でも思い出すことのできるキャラクターではないでしょうか?
 多くの人々の支持を受けて,現在の美子ちゃんは5代目だそうです。

 閑話休題

 よく会議やなんかでも冴えないアイデアを発したりすると「平凡」な意見だなぁーと一笑に付されることがありますが,今回はテーマがテーマですから,
少しでもその類から遠ざかろうと文章構成をちょっと工夫いたしました。
 石森章太郎的コマ割りのイメージが出せたらという意図ではありましたが,しかし,当然のこと叶いません。
 凡々たる思いつきではありました。

10月末の畑の様子



(なし)

 

エンドウマメ


ネギ


ベンリ菜

ミニキャベツ

サラダ菜

水菜



ニンニク


ブロッコリー

カリフラワー




ダイコン




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