菜園日記2015年8月

 2日(日)  8月に入りました。
 連日の猛暑です。夕方から畑へとまいります。
 キュウリはたくさんの葉を枯らせて,疲れていましたが,大小合わせて10本ほどの収穫です。
 シシトウはまたまた豊作です。小さい方の株はどこで交配したのか,赤トウガラシがたくさんできています。
 オクラも順調に育っています。数個の収穫です。
 トマトもまだまだ豊作です。本日はミニトマトも尻割れしたものはほとんどなく,全部で30個ほど採れました。
 ナスは大きなもの数個。株を全体に剪定しておきます。
 エダマメは残った全てを抜きました。
 夏のネギはまだまだです・・・
 葉物野菜も夏の暑さがシンドそうです。
 ゴーヤは元気いっぱいです。大きな実を4つほど・・・
 後は,化成肥料,水遣り等々・・・
 9日(日)  猛暑が続きます。夕方から畑へ。
 キュウリは思っていたよりも元気でした。数本が採れました。まだ若いツルも伸びてきています。
 シシトウは相変わらず,たくさんの収穫となりしまた。ただ,万願寺とうがらしは元気なのですが,今一つの普通のものが株を枯らせてしまっていました。
 オクラも元気です。実は少し大きめのものばかりです。
 トマトは,またまた数十個の収穫となりました。ここにきても例年と違い,尻割れしたものはほとんどありません。
 ナスも数個採れましたが,ちょっと実に張りがありません。水分不足なのでしょうか・・・
 エダマメの跡地をスコップで荒起こししておきます。
 夏のネギは相変わらずです・・・
 葉物野菜のスペースはモロヘイヤだけが元気です。
 ゴーヤは大きな実が2つ採れました。
 後は,たっぷりと水遣り,草抜き等々・・・
 16日(日)  五山送り火の日となりました。
 夕方から畑へと向かいます。
 キュウリは,若いツルも伸びていましたが,実はついていませんでした。
 シシトウは,1つは枯れてしまいましたが,1つはまだまだ元気です。本日も大きなもの10個ほどの収穫です。
 オクラも数個採れました。
 トマトはそろそろ終わりのようです。今日は,中玉が3つ,ミニトマト数個だけの収穫です。新しい実もあまりありません。
 ナスは大きなもの2つを採りました。
 エダマメの跡地はそのままにしておきます。
 夏のネギは相変わらずです。
 葉物野菜はモロヘイヤがかなり大きくなってきました。
 ゴーヤはここにきて,実を大きくしてきました。大きなもの10個ほどの収穫です。
 そうこうしているうちに,大粒の夕立がきました。
 早々に退散いたします。
 23日(日)  夕方から所用がありましたので,昼過ぎから畑へとまいります。
 キュウリは終わりのようです。全体に枯れ枯れになっていました。
 シシトウは元気です。畑を始めた頃,シシトウの苗は直ぐに立ち枯れしてしまいましたが,その時とは全く違う様相となっています。10個ほどの収穫です。
 オクラもグングンと大きくなっています。数個の収穫です。
 トマトもそろそろ終わりです。いつもはこの時期になると青いままの実がたくさん残っていましたが,今年ほぼ全てが熟して採れました。理由はよく分かりません。ミニトマトを数個収穫です。
 ナスは数個採れましたが,かなり疲れてきた感じです。大幅に剪定しておきます。
 エダマメの跡地はそのままにしておきます。
 夏のネギは相変わらずです。
 葉物野菜のスペースは,モロヘイヤだけが相変わらず元気です。
 ゴーヤは大きいもの1つが採れました。小さい実はたくさん出来ています。
 後は,草抜き,液肥等々・・・
 30日(日)  昨夕から強い雨が断続的に降り続いていますが,その間をぬって,朝から畑へ。
 キュウリは本格的に終わりです。全体的にすっかり枯れていました。
 シシトウも,さすがに終わりです。大きな実は2つだけ採れましたが,2つともクネクネと曲がったものでした。
 オクラはグングンと背を伸ばしています。大小10個ほどの収穫となりしまた。
 トマトも終わりです。ミニトマトが数個色づいてはいましたが,皆尻割れしています。
 ナスは,大きなもの2つ。また全体的に剪定しておきます。
 エダマメの跡地はそのままにしておきます。
 夏のネギは相変わらずです。
 葉物野菜のスペースはまたモロヘイヤが背を伸ばしています。
 ゴーヤは大きいもの3つ採れました。まだまだ小さな実もたくさんつけています。
 後は草抜き等々・・・

 2020年に東京オリンピックが再び開催ということであります。
 まだ少し先のことですので,老体の私はそれを見ることができるのかどうか不明な点もありますが,前回の東京オリンピックの時,私は小学校5年生でした。
 私はその前年,小学校4年生にあがる春に,愛知県岡崎市から京都市へと引っ越してきましたが,車での移動であったことを覚えています。そして,さらにその3年前に東京から岡崎市に引っ越しした時は,確か国鉄の「つばめ」という名の列車だったと不思議にも覚えています。
 東海道新幹線が開業したのは,東京オリンピック開会直前の1964年(昭和39年)10月1日のことでした。東京オリンピックの開会式が10月10日であったことは,我々世代より上の人間は誰でも覚えています。何故なら,その日が体育の日となったからです。しかし,2000年からは「ハッピーマンデー制度」の適用により,10月の第2月曜日となってしまいました。

 その頃の日本社会は,まだまだ戦後の復興期という状況を残しつつ,高度成長期に突入していたという感じの時代でしょうか。(まあ,今や戦後といっても,「何」の戦後なのか知らないという人もかなり増えているようではありますが。)
 当時,小学生の1クラスは45人ほどだったと思いますが,その中で電話を自宅に引いているのは,オリンピックの開催前後の時代に多分10人もいなかったのではないでしょうか。私は良く覚えていますが,その時の担任の先生が,電話を申し込んだけれども工事の順番待ちでなかなかつかない・・・と言っていました。急速に電話が普及する時代でもありました。
 一方で,当時の生活は今のように裕福ではありませんでした。
 一人の女の子は,雨が降ると学校を休んでいました。家族全員の傘をそろえることができないのだと自分で言っていました。
 ある級友が住むアパートの一室で,彼の誕生日パーティーがありました。友達を自宅に招くことなどなかった彼でしたから,ちょっと嬉しくも不思議な感じがしていたのを覚えています。何人もの友人が集まり,プレゼントを渡したり,ゲームをしたり,食事をしたり・・・。特に彼とお母さんが嬉しそうにしていた光景が今でも少し思い浮かびます。でも,彼は次の日から登校してこなくなりました。その事情は,幼い我々にもなんとなく分かりました。

 私の住んでいた近くでいいますと,東京オリンピックが終わって間もなくして,丸太町通りが新丸太町通りという名で,西へと延びていきます。
(旧来の丸太町通りの西端は中京区の円町交差点まででしたが,1966年に西ノ京円町から妙心寺前交差点まで西に延伸し,1970年にはさらに右京区嵯峨釈迦堂大門町まで延伸していきます。概ねこの延伸区間を新丸太町通と呼んでいます。と,京都の人間しか分からぬような地名ばかりですみません。この時期に京都の「街」が大きく拡大したとも言えるのでしょう。また1970年といえば,大阪万博の年であり,関西は東京オリンピックの時と同様,かなりの「開発」が行われたように思います。)
(ついでにもう一つ。上京区に,春日学区という小学校区がありますが,これはその面している東西の通りの一つ,平安京の春日小路に由来しています。この春日小路が現在の丸太町通りです。通り沿いに材木商が多かったため,この名がついたと言われています。)
 吉田兼行が徒然草を執筆したという双ヶ岡の西側で,その新丸太町通りと当時の国鉄山陰線をまたぐ高架道路ができたのもその頃でした。
 また,私の家のすぐ近くには,東映撮影所の馬場がありました。その後すぐに無くなってしまいましたが,何頭もの馬が,東映お得意の時代劇のために飼われていました。ちょっと離れて松竹の撮影所もあり,映画産業がまだまだ盛況な時代でもありました。

 さて,その年はオリンピックのテレビ中継を見るために,学校の授業はかなり短縮されていたように記憶しています。児童を家に帰して,テレビ中継を見てもらう・・・それほどの国家的行事でもあったわけです。
 私も個々に良く覚えているわけではありませんが,女子のバレーボールや重量挙げ,アベベにヘーシンク等々,印象深かったものが幾つもあります。
 いずれにしても,私のような完全に戦後生まれの子どもでもそれなりの感慨を有した東京オリンピックですが,戦中戦後を生き抜いてきた方々にとっては,一人一人に深い思い入れが伴っていたように思えます。

 そして,この年はオリンピック以外にも,一定以上の年齢の人にとっては,なかなか思い出のつきない年でもあります。
 まあ,当時は毎年毎年が,そんな・・・エポックメーキングな!・・・連続ではありましたが。
 今に続く輝かしくも懐かしい商品が次々と発売開始となります。森永製菓が,日本初の高級チョコレート「ハイクラウン」を発売,大ヒットいたします。カルビーが「かっぱえびせん」を発売,これはもう今でもスーパーに山積みになっています。ロート製薬が新しい目薬「V・ロート」を発売,1年間で1500万個を売り上げたそうです。ライオン歯磨が「デンター」を発売,誰でも知っているデンターライオンであります。
 漫画雑誌では『ガロ』創刊,同時にそこで「カムイ伝」(白土三平)が連載開始となります。「サイボーグ009」(石森章太郎)が『週刊少年キング』で連載開始。そして「オバケのQ太郎」(藤子不二雄)が『週刊少年サンデー』で連載開始。片や「おそ松くん」発の「シェー」が大流行語となっていた時でもありました。私は当時,1週間に150円の小遣いをもらっていましたが,サンデーとマガジンとキング,それぞれ50円の漫画週刊誌を毎週買って,それでお仕舞でした。確か,3誌とも同じ曜日の発売でした。
 当時は少年漫画週刊誌は,この3誌しかありませんでしたから,そこに詰まった漫画の質の密度はすさまじいものだったと思います。
 日本人の海外観光渡航自由化。観光目的でのパスポート発行が可能になりました。当時,漫画少年として,少女漫画も熱心に読んでいた私としては良く覚えていますが,海外旅行は「行くこと」だけでも,夢のような世界であり,少女漫画の格好のテーマでもありました。

 その他,私の気になるものを列挙しますと,
 私は大学時代に下宿で良く聴いていたものですが,TBSラジオで「全国こども電話相談室」が放送開始。2008年まで,44年間続きます。
 逆に学生時代もあまり読みませんでしたが,当時の,特に団塊の世代の若者文化の象徴であった週刊誌『平凡パンチ』(平凡出版)が創刊。この『平凡パンチ』は,1980年代最後期に休刊を繰り返し,今も復刊は果たしていません・・・
 今でも良く歌われる,坂本九「明日があるさ」。(今年は,御巣鷹山への日本航空123便墜落事故からちょうど30年の年でもあります。)
 映画の世界は「モスラ対ゴジラ」,「宇宙大怪獣ドゴラ」,「 三大怪獣 地球最大の決戦」と怪獣映画が盛況,そして「日本一のホラ吹き男」・・・クレイジーキャッツ!私は,怪獣物にはそれほど興味はありませんでしたが,クレイジーキャッツは,テレビ黎明期の怪物と言っていいと思います。子ども心に,凄いなあという感じで見ておりました。
 テレビは「ひょっこりひょうたん島」(NHK),「忍者部隊月光」(フジテレビ),「ミュージックフェア」(フジテレビ)。
 ミュージックフェアは今も続いていると思いますが,全ての音楽番組の中で最長寿番組と聞いたことがあります。忍者部隊月光は流行りましたね。よく忍者部隊ごっこをしました。そして,もう我々の共通基礎土台的風景でもある,ひょっこりひょうたん島。
 新幹線だけでなく,東京モノレールも開業。
 池田前首相に続いて,佐藤政権発足。
 大相撲はまだまだ大鵬の全盛期。あの頃の少年誌の表紙は,大鵬とそして長嶋ばかりだったように思えます。この年はまた王貞治55号ホームラン日本記録の年でもあります。

 さてさて,前回の東京オリンピックは,このような時代の中で,日本にとって,大きな意味を持つ一大イベントではありました。
 次回の東京オリンピックはどーなのでしょう?!

8月末の畑の様子


オクラ

シシトウ

 

ナス


ネギ


ゴーヤ


トマト



キュウリ




(なし)




キワーノ
ツルムラサキ
モロヘイヤ
リーフレタス
サニーレタス



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