菜園日記2013年5月

 5日(日)  ゴールデンウィークも終わろうとする5月初めの日曜日は,暑いくらいの陽気となりました。昼前からアヤハに寄り,キュウリの苗を2つ,ミニカボチャのものを2つ,それから野菜用の土を購入して,畑へと走ります。
 トマトは,元気になってきました。支柱を添えて紐で留めておきます。
 トウガラシはまぁまぁといった感じです。
 ナスも青々としてきました。ここにも支柱を添えて,紐で留めておきます。
 ゴーヤは少しずつ大きくなっています。
 ダイコンの跡地を耕して畝を作り,キュウリの苗を2つ植えました。支柱を添えておきます。
 ニンニクは,葉を少しずつ枯らし始めてきました。
 タマネギも少しずつ根を太らせてきています。
 葉物野菜の跡地を耕して畝を作り,ミニカボチャの苗を2つ植えます。ここにも支柱を沿わせておきます。
 後は,液肥,草抜き等々・・・
 12日(日)  暑い日曜日となりました。
 お昼から畑へと走ります。
 トマトはなかなかのスピードで大きくなっています。脇芽を撤去いたします。
 トウガラシも元気な様子です。
 ナスは,少し下の葉を弱らせていました???
 ゴーヤは,いつものことですが,初期の成長はかなり遅い感じです。
 キュウリは青々と葉を広げてきました。
 ニンニクは少しトウが立ってきました。例年と比べると少し遅く感じます。
 タマネギも球を太らせてきました。収穫にはまだ少しかかりそうです。
 ミニカボチャも元気に葉を広げています。
 あとは,活力剤,草抜き等々・・・
 19日(日)  所用のため,畑へは行けませんでした。
 26日(日)  5月も最後の日曜日となりました。朝から畑へと向かいます。
 先週来れませんでしたので,伸びた野菜はちょっと横倒し状態です。
 トマトは急激に背を伸ばしていました。脇芽などを処理して,上部を支柱に留めます。
 トウガラシは,少しずつ大きくなっています。支柱を添えて,紐で留めておきます。
 ナスは,とても元気な様子で,青々と大きくなっています。
 ゴーヤはちょっと元気がないように見えました。葉の裏にアブラムシをたくさんつけていましたので,ガムテープで駆除いたします。ゴーヤも,支柱に紐で留めます。
 キュウリも少しずつ大きくなっています。これもまた支柱に紐で留めます。
 ニンニクはだいぶ葉が枯れてきました。ただいつもと比べて茎が細いのが気になります。
 タマネギは半分ほどが葉を倒伏させていました。そろそろ収穫が近づいています。
 ミニカボチャも青々と大きくなっています。これもまた支柱に紐で留めました。
 後は,草抜き,化成肥料等々・・・

 現在の地球上の人口は,71億人強と推計されているようです。
 当然その中に私もカウントされているはずで,同時期に生存する人類の71億分の1という生命体ではありますが,やはり私は私という全的な1個の存在でもあります。
 というか,1個の全的存在という意識を超えて,何かを感じたり考えたりすることは非常に難しいことであると思うのですが,同時に,長い長い時間の中で,また広い広い空間の中で,たまたま同じ時空間に存在する家族や友人との身近な関係性,とりわけなんともいえない偶然性による結びつき等々には,大きな驚きを感じざるをえません。
 まぁ単純化していえば,人間は,特に私のような視野の狭い人間は,自分やその周囲だけでしか,人と人とのつながりとか共感などを思うことができない存在なのかもしれませんが,一方でふとした時に,身近ではない他者の生活に不思議な共感等・・・とりわけそれぞれが独自に確実に生きているのであろうという相互の存在感・・・を感じる局面があります。
 特異な,ちょっと変わった例かもしれませんが,私の場合,一つには電車に乗って,踏切を通過する際に,その踏切が上がるのを待っている人々の姿を見るような時がそうです。
 特に,長距離旅行の最中に,初めて通過する見知らぬ街の踏切で,駅近くの商店街で買い物を済ませたであろう人々が,カンカンと響く警報音の中,遮断機の向こう側で,私の乗った電車が通過するのをジッと待っている・・・というような光景の下,私は彼らに,同じ時空間を生きている他者の生命を強く感じたりいたします。
 ほんのわずかな刹那的感慨ではありますが,私にとっては,以前から繰り返し生じる不思議な感覚でもあります。
 彼らが存在しているところが,ある意味で異世界と言い得る空間だからかもしれません。
 瞬間,電車の中の私と,遮断機の前の彼らは,数メートルの距離と縮まり,目と目が合ってしまう局面も生じるのですが,その時間はコンマ何秒かの世界で,なおかつ,その数メートル以上に接近することはほぼあり得ない分離された世界でもあります。
(感覚的には,異次元の2つの世界が一瞬生起したトンネルでつながったような時空間の真ん中に踏切と私がおります。)
 もし万が一,その時に遮断機を挟んで目があった人と,何年か後にどこかの街の雑踏ですれちがうことがあるとしたら,きっと何かのサインを強く感じるに違いないと思うほどのドキドキする刹那ではあります。
 他の場面であれば,私は例えば商店街で一瞬すれちがう人に,話しかけたりすることも可能ではありますし,また,交差点で隣に並んだ車の運転手と目が合うことは,ある意味で道路上の「日常」でもあります。
 その運転手とは,数分後に接触事故を起こしてトラブルになっているかもしれませんし,数時間後に私の職場にお客さんとして立ち現れる人かもしれません。
 しかしながら,電車の中から向かい合う踏切の人々は,遮断機という「結界」の向こう側で,駅近くの商店街で買い物をし,学生は今日のテストのことを思い出しながら佇み,おばあさんは強い日差しを嫌がりながら,ジッと遮断機があがるのを待っています。
 ある意味,それだけの光景なのですが,自分の生活とは違う,71億分の1の生活がそこにあるんだと不思議にも強く感じてしまう私でありました。
 踏切を超える時の,警報機の連続音と,電車の振動音,そして無表情に並ぶ人々,ある意味,私の日常と遠い場面に,私が何故他者の生活感やそこで生きる人々への共感を感じるのか,よく説明はできません。
 数メートル先の数秒で見えなくなる世界に,私の生が根源的につながる何かの郷愁を感じているのかもしれません。

5月末の畑の様子



トウガラシ

 

ゴーヤ

ニンニク

ミニカボチャ


ナス



トマト




キュウリ

タマネギ


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