菜園日記2012年9月

 2日(日)  9月に入りました。
 最初の日曜日ですが,所用のため,畑には行けませんでした。
 9日(日)  先週は所用で畑に来られませんでしたので,2週間ぶりの畑です。
 早朝から車を走らせました。
 畑は,想像どおり雑草が大量に伸びていました。
 ゴーヤは,大きい実が10個近く採れました。
 インゲンは,少し実をつけていますが,かなり固くなっていて,食用としては終わっている感じです。
 ニンジンは,元気に伸びています。少し間引きつつ,収穫です。
 トウガラシの跡地を耕して畝を作り,ブロッコリーの苗を植えました。例によって,1つは通常のもの,1つはスティック・セニョールです。
 トマトは,色づいたものが3つ採れました。今年のトマトは本当に最後の最後までよく採れました。トマトもしかし,終わりとします。
 ニンニクとトマトの跡地に,石灰,油かす等を入れて,荒起こししておきます。
 ナスは,3つほど採れました。状態はあまり良くはありません・・・
 キュウリは,完全に枯れています。
 後は,草抜き,水遣り等々・・・

 

去年はちょっと失敗したブロッコリー。今年は・・・
(9/9)

 16日(日)  仕事のため,畑には行けませんでした。
 23日(日)  先週は仕事で畑に行けませんでしたので,2週間ぶりとなります。
 初めに高山園芸店に行って,ニンニクとダイコンの種を,そして六基グリーンに回り,ベタ掛けシートを購入して畑へと向かいます。
 ゴーヤとインゲンを終わりにします。最後のゴーヤは大小合わせて10数個,インゲンも10個ほど採れました。
 その跡地に石灰と肥料を入れて,荒起こししておきます。
 ニンジンは順調に大きくなっています。少しずつ間引きます。
 ブロッコリーも元気です。
 ニンニクとトマトの跡地を耕して畝を作り,南側にニンニクを,北側にダイコンの種を蒔きました。ベタ掛けシートをしておきます。
 ナスも元気です。また10個ほど採れました。
 キュウリは完全に枯れています。
 後は,草抜き,水遣り等々・・・



今年もゴーヤは豊作でした。
(9/9)

 
 30日(日)  大型台風がやってきました。
 本日も畑はお休みです。
 


ちょっと雑草に囲まれてしまったニンジン
(9/9)

  私が今に続く仕事に就きましたのは,他の方よりもちょっと長く学生生活を送っていた関係で,25歳の時でした。(といっても,浪人や留年をしていたわけではありません。)
 父はその頃からゴルフや釣りを始めました。
 それまでの父は,決して堅物というような人間ではありませんでしたが,趣味と言えるような趣味を持ってはいなかったように記憶しています。(一時ボウリングに熱を入れていましたが,この時までは継続していませんでした。)
 この時点で父は,私のような文字通り不肖の息子が無事学校生活を終えて,なんとか定収を得られる「社会人」になったという安心感を得て,自分の趣味を,自分自身の後半生を楽しもう・・・という気になったのだと思います。
 今も痛感していますが,親に心配ばかりかけていた私でした。
 その頃,父の口癖は「俺もサラリーマンだったら,もう定年の歳だ」というものでありました。
 なんとか就職を果たした私に対して「早く一人前になって,俺の苦労を減らしてくれよ!」という気持ちだったのでしょう。
 今も痛感していますが,いつまでも学生気分の抜けない私でした。
 当時は一般的に55歳が定年でしたし,父はちょうどその歳でありました。
 父はいわゆる自由業でしたから,それからも仕事は続けていきますが,この頃から少しずつ仕事量を減らし,自分の時間を増やし始めていたように思います。
 瀬戸内海の島にささやかな小屋を建て,船舶免許を取り,小型のボートを購入して,嬉々として魚釣りに出かけておりました。
 実は私も感化されて船舶免許を取得いたしましたが,免許の制度が改正されて,いつの間にか失効してしまいました。短い期間でしたが,どんよりと静かな瀬戸内海の波間にボートを浮かべて父と過ごした時間も,懐かしい光景の中にあります。
 また,父がその歳になってから始めたゴルフはそれほどの腕前には至りませんでしたが,まぁ技術の上達が目的でもなかったのでしょう,人脈を生かして,東へ西へとラウンドの回数を増やしておりました。
 私は,就職当時ゴルフに興味はなく,どちらかというとゴルフなどバカのするものだという考えの持ち主でしたから,父と一緒にラウンドすることもありませんでした。
 けれども,35歳になる頃に突然東京勤務を言い渡され,バタバタとその準備をしたりする中で,どういう心境の変化か,ゴルフをしてみようと思い立ち,父に練習場に連れていってもらいました。
 家のすぐ近くにある,小さな,いわゆる鳥かごと呼ばれるような練習場でした。年月を重ねたそういうゴルフの練習場には独特の雰囲気があり,何かホテルのバーに初めて入るような空気感があったように記憶しています。
 よく昔から,ゴルフ嫌いがゴルフを始めると非常にはまり込んでしまう!と言われていますが,私もその例にもれず,それから1ケ月間ほど,毎日,本当に毎日,掛け値なく毎日,仕事が終わると打ちっぱなしの練習場に出向き,連日連夜,練習場に蛍の光が流れるまで,パコパコとクラブを振り回しておりました。
 父の自己流の手ほどきを受け,そして何も分からぬままの力まかせのスイングでありましたから,一日に何百発打とうと,身になる練習とはなりませんが,まぁ新鮮な楽しい時間ではありました。
 東京勤務時代もゴルフ仲間に恵まれ,関東周辺でのラウンドを重ねることができました。また,まとまった休暇が取れますと,父の別荘に出向き,一緒に2〜3日連続でゴルフをしたりもしておりました。
 そして,3年間の東京勤務を終えて京都に戻ってからは,父がメンバーとなっていたコースへ月に一度は一緒に行きました。
(東京勤務時代は,まだバブルの空気の残る平成の初めでしたから,1ラウンドの料金が50,000円丁度というラウンドも経験いたしました。しかし,そんな料金を支払うことに不自然さを感じない特殊な時代ではありました・・・)
 当時,私と父は既に別々の住処でしたから,正月に集まるようなことを除いて,父と一緒に過ごす時間のほとんど全ては,ゴルフ場でのものでした。
 それから間もなく,私が42歳の時,父は癌で亡くなります。
 初めに肺癌を言い渡されてから,1年ちょっとの闘病生活がありましたから,それらを差し引くと,私が父と一緒にゴルフをしていた期間は,それほど長いものではありません。
 今計算すれば,ほんの数年間しかなかったことになります。
 想えば,父と一緒のフィールドで時間を共有できたのは,ゴルフぐらいでした。
 父もゴルフが大好きだったのでしょう。最後期に闘病生活で痩せた父は,会うたびに「ゴルフに行きたいなぁ」と言っていました。
 そして,父の葬儀の出棺の際,父のゴルフ友達が「また一緒にゴルフに行きましょう!」と大きな声をかけてくださったことを今でもよく覚えています。
 高齢になってから始めたゴルフでしたから,父はそれほど上達はしませんでしたが,ゴルフ場でボールを打つことが本当に楽しいという感じのゴルフでした。ミスショットをした時の,笑顔で悔しがる表情などは,今でもよく覚えています。
 私は,最後までろくな親孝行もできず,情けない息子でありましたが,父とのゴルフはとりわけ瀬戸内海の海や空の色と合わせて,懐かしくも楽しい想い出の景色です。
 またいつかどこかで一緒にゴルフをしたいものです。

9月末の畑の様子



(なし)



 

ブロッコリー

ダイコン

キュウリ

ニンジン



(なし)




ニンニク

ナス


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