96.終末医療と医師の役割
     
徳永進著「死の文化を豊かに」を読んで

終末医療の受け止め方
流通の世界だけでなく、サービス業の世界ではどこでも「顧客中心」という課題がある。介護や医療の世界も同じだ。
介護の世界は医療の世界と同居しており、その医療の究極には終末医療の世界がある。終末医療の世界では顧客である患者が死をどう迎えさせてあげるかという課題があり、今抱えているプロジェクトにもつながっている問題でもあった。
これに関連して友人の紹介でこの人の後輩でもある徳永進氏の著書「死の文化を豊かに」(筑摩書房)他2冊を読んだ。非常に感銘した。

この方は長く鳥取に身を置き、地方医療に係わって多くの患者の死を見つめ、やがて終末医療に関心を寄せられ、「死との柔軟につきあう大切さ」を多くの書や講演を通じて提言されている著名な方である。
「死の文化を豊かに」の最初の方に、次のような趣旨のことが書いてあった。
  • 人の死にはいろいろある。
  • 「あーあ、気の毒な死であったな」という死、「よかったね、死が来て」という死、「立派な死でしたね」という死、「申し訳ありませんでしたね」という死や「もう少し楽にしてあげなければならないのにゴメン」という死、さらには「思いがけぬ急変に対応しきれず、すみません!」という死、などさまざまだ。
  • 死はあってはいけないものではなく、あるものだ。
  • 死を覚悟した人は人によっていろいろであるが、どこかで「死、YES」の態度を取る。でも死の道を歩かぬものはそのことを見取れない。
  • 医療の発達していない、栄養や衛生が貧しい、戦死も日常的にあった昔は、死は今よりも多彩で個性があった。
  • 今は医療の手が尽くされることも多くなって、「養殖の死」が多い。
  • 生も死も次の世紀には何者かによって操作されてしまうかも知れない気がする。生が養殖され続ける危険性を、今の管理社会ははらんでいると思う。
  • コンピュータ社会、マニュアル・ガイドライン社会、子供から老人までがベルトコンベアに載っけられて分類される社会で、個性が失われ、誰もが交換可能な部品のような人生を生き、同じように死も色あせ画一化してきたように思える。
  • 死をもう少しやわらかく見つめ、その深さや広がりに接することができれば改めて一日一日の日常のことごとの深さや有難さをぼくたちは取り戻すことができるのではないかと思う。
もうこれだけでも十分な死生観を語っておられると思う。

医療は、患者、家族、医師の三者関係だが・・・
終末医療を迎えた人の周りには、普通それを心痛している家族や親しい友人知人、それにそれを診て取る医師がいる。患者、家族、医師(医療機関)の三者関係が出来上がる。病気が治癒可能性のある段階では当然患者、家族とも治癒に向けての意志があり、医者もそれに沿って治療活動に全力をあげる。

しかし終末を迎えている患者の場合、患者の思いと家族等周囲の思いは一致するとは限らない。そしてこの場合は「生ある限り長く生かせてほしい」という家族等の思いがこれまでは優先されてきたのではなかろうか? 家族等からすれば、肉親の死は「あってほしくないこと、死=No」であり、その感情は当然でもある。だが、終末患者自身の主体的意志はどう理解され、どうケアされていくべきかの視点はややもすると後退しがちではなかったのか?

医師からすれば、患者と家族両方が顧客である。医師はまた病気怪我治療のプロと見られている。このことが終末を迎えた患者の場合、家族の思いだけを受け入れ、患者の生き方死に方についての患者の思いへの配慮が薄くなっていたのかもしれない。

終末医療を向かえた患者といっても自分の意志をはっきり言える状態の方もいればそれが出来ない方もいる。医師は単純に患者の言うとおりにすればいいというようなものでもない。
終末医療に向けての医師の役割は、患者の様子を見ながらまず患者と家族に十分な情報とアドバイスを与えること。そして患者と家族が意思の疎通を図ってどう残された患者の時間を迎えていくかのまとめの場作りを、当事者の視点に立ってしてあげることではないかと思うようになった。
しかし医師のこの仕事は手続きや事務という観点では済まされない重い仕事であろう。患者、家族と医師とのよき人間関係作りがまず前提になるのではなかろうか。

現時点ではこれ以上のことをいう下地がまだ今の私にはない。

「それじゃ愉しく昇天してください」
「死の文化を豊かに」という本の帯に、「それじゃ愉しく昇天してください」ということばが書かれている。死をこのような言葉で話せる医師と患者、家族との関係がふさわしいのかもしれない。医者には医療技術とともに、患者とその家族を仕切る哲学と人間としての大きさも必要なようだ。


ポイント: 終末患者と家族両方の意志と安らかさが尊重されない医療は顧客無視と同じであるか、あるいはそれ以上の貧しく寂しいことなのであろう。

追伸
12月7日に鳥取で徳永進氏にお会いすることが出来た。短い時間しかお話が伺えなかったが、肩を張らない、気さくで話はユーモアにあふれるまだ50歳代半ば過ぎの小柄な医師であった。私には70歳以上の人生経験をお持ちでスケールの大きな方に見えた。
徳永進氏は文才も豊かな方で著書も多い。下記にホームページがあり、エッセイも読める。
http://homepage3.nifty.com/nonohana/