91.「幼老共生」と「こころのケアー事業」

「幼老共生」とは?
精神科医である碇浩一(いかり こういち)氏の「母さん父さん、楽になろう 幼老共生のススメ」を読んだ。
私は元いた会社でスポーツクラブも長く預かっていた。ここの顧客は子供から元気な高齢者まで極めて幅広く、その数は年々増加していた。そこでスイミングスクールに多くの子供が来ていることの意味を友人のH氏から教えられてもきた。そして今回上記の本を読んでその理解が少し前進したように思える。

「顧客のニーズを知る」というとき、スポーツ事業の顧客である子供や高齢者の背景にあるものを理解することは不可欠である。
碇氏は、核家族の現在のありようから子供と老人の現状の問題点を浮彫りにし、結論的には老人に子供の養育の一端を担ってもらう「幼老共生」社会を提唱する。その要旨を自分なりに整理すると、
  • 核家族は産業社会の産物であり、それ以前は老人を中核とする親族家族が中心であった。
  • 夫婦子供からなる核家族は、当初男が生計の糧を稼ぎ、母親が子供の養育を担うという分業と考えられた・
  • ここでは老人は基本家族像の外に置かれ、福祉の対象として社会や家族の中核から外れた存在として意識されるようになった(1950年代、米国パーソンズの思想)。
  • 養育は主として母親の領分と意識されたが、母親一人の荷物としては重いものであるのに、近年は母親さへ家庭にいることが難しくなり、その矛盾は拡大されていった。
  • 子供のもうひとつの重要な空間である学校は、より均質化を求めて行く過程で不登校児をより多く生み出すようになり、幼児子供の逃げ場所がますます狭められていった。
  • 子供はもともと唯我独尊で、逃げ場所が必要だ。それがあってこそはじめて冒険もし、徐々に世界を知っていく。
  • 現在の核家族中心社会では、「幼老共生」の場所が必要だ。
  • 幼老が社会の真ん中で暮らす
    一 老人は幼い者と一緒に暮らすべきである
    一 幼老の共生から次代の文化が醸成される
    一 老人はその存在そのものが幼を包み、守る
        ──樹齢数百年の老木の周囲に数多くのひこばえが芽を出すように
    一 老いは自らその存在によって、幼い者に死を教える
    一 老いは尊敬され、慕われるべきである
    一 老いは権威を持つべきである
    一 しかし、そのためにも、老人は血族や物欲から少し離れ、自分なりの心地よい人生を目指さねばならない
スイミングスクールの退会は「不登校児」作りと同じ
「幼老共生」とはやや離れるが、スイミングスクールへ通う幼児や児童は碇氏の指摘するような時代背景を背負っている。

スイミングスクールへ通う子供の周りには、碇氏が指摘するように子供の家庭生活での葛藤、学校でのストレスが山ほどある。そう考えたときにスイミングスクールは子供にとってどういう存在で、どんなメニューや運営をすればよいのかを考える出発点となる。それはスイミングスクールも常に「こころのケアー事業」でなければならないという視点で、この点は理解してきたつもりだった。

ところが、子供を預かるスイミングスクールで、顧客である子供が何かが満たされなくて退会して行った場合、それは学校でいう「不登校児」を作ってしまったのと同じではないかと気づかされた。私の担当していた時期、退会について私はせいぜい「会員の満足向上で退会率の低下を!」というビジネス的視点でしか捉えていなかった。子供会員の退会は、病気怪我などでのやむをえない退会を除いて、不登校児を作ってしまったのと同じであり、「なぜ?」という点検を確実に行わなければならない。

スイミングスクールは子供会員を「養育」の一環のなかで捉えられねばならない。何かのメニューを教えるという枠に囚われていては、均質な「管理」の枠に押し込めてしまい、下手をするとここでもストレスを作ってしまう。そして退会という「不登校児」を作ってしまうのだ。

人の成長と老いに係わる事業はすべて「こころのケアー事業」
碇氏の「幼老共生」は、子供の養育に高齢者が積極的に係わることの効用を説いており、かなり共感を覚える。しかしその具体案はまだ部分的であり、発展の必要がある。しかし氏の主張を読んだとき、人間の成長と老いに係わる事業はすべて「こころのケアー事業」だという思いを強くした。

人の誕生から死までの過程はひとつのベクトルである。したがって、例えばスポーツ事業を営んできた我々が、問題の本質を考える過程で、更なる顧客ニーズの解決のために、保育園や介護事業者と提携したり、あるいは自らその事業に乗り出しても何もおかしくはない。スイミングスクールやスポーツジム、保育園、介護事業、これらはすべて相互補完し会える「こころのケアー事業」であることを改めて確認したのである。

しかしこれには突き詰めていくと、人間が生まれたときから死ぬまでの「死生観」まで問われることになる。つい2年前まで係わっていたスポーツ事業だけでなく、今ボランテイヤとして参加しているスポーツ少年団の指導のあり方、さらにはこれから取り組むかもしれない仕事を考えたとき、身震いするほどのテーマの大きさにたじろいでしまった。


ポイント: 核家族の背負う矛盾、それに立ち向かう「こころのケアー事業」という観点、さらには「死生観」、これが今後の私の宿題かも?。