カラッポ


「先生、うちの息子が全然しゃべらなくなっちゃったんですけど……」
 子どもの背中をそっと押しながら、少し疲れたような表情で診察室に入ってきたお母さん。二歳と少しの男の子は、見た目にはどこも悪くないという感じの血色の良さで、熱もないし待合室でも元気に走り回っていたらしい。確かにドタバタという足音は聞こえていたが、考えてみると、このくらいの歳の子が挙げそうな大きな声は聞こえていなかった。
「はーい、じゃあ喉見せてね。お口あーん」
 あー、と大口を開けて舌を出すその奥を覗く。扁桃腺も腫れていないし、喉に異常はなさそうだ。もしや、とお母さんに確認する。
「お母さん、最近息子さんは毎日特別よくしゃべったりしていませんでしたか?」
「は? ええ、まあ普段はうるさいぐらいに色々と……」
「お母さんご自身は、昨日今日あたり、調子を崩されたりは?」
「……はい、昨日の夜くらいから体調はあまり優れませんが……」
 ふむ、と鼻を鳴らして、聴診器を喉仏の下あたりに当てる。耳を澄ますと、呼吸音に混じって聞こえてくるはずのものがない。指を揃えて軽くトントン。やはり感触がない。
「ご心配ありません、普段通りに接してあげれば、すぐに話せるようになりますよ」
「……何かの病気ではないんですか?」
 お母さんを安心させるために、男の子に笑いかけながら三十秒くらい、他愛もない話をしてみた。すると男の子は嬉しそうに「あうー」「きゃっきゃっ」「たーた」と声を上げ始めた。驚いて目を見開くお母さん。
「このくらいのお子様は、自分の限界がわかりませんので、はしゃぎすぎて突然寝てしまうことがありますよね。それと同じで、この子のまだ小さな『言葉の器』に入っている以上にしゃべってしまって、言葉がカラッポになってしまったんです。
 お母さん、昨日から体調がよろしくないとおっしゃっていましたね。この子と接する時間があまりなかったのではありませんか? いつも通りに話しかけてあげれば、またすぐに言葉を溜め込んで、たくさんしゃべってくれるようになりますよ」
 私は男の子ではなくてお母さんを簡単に診察した上で、総合の風邪薬を処方して診察は終わった。
「お大事にどうぞ。――はい、次の方お入りください」

―了―


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