嚥下
「ちょっと聞いてくださいよ先生、うちの子がまったくご飯を食べないし体型も変わらないのに、体重だけものすごく増えてるんですよ! こんなことってあり得るんですか?」
十歳の男の子を連れてきた恰幅のいい母親は、診察室に入ってくるなり挨拶もそこそこにまくし立てた。相手に口を挟ませないキンキン声の嵐は、まるで大雨で増水した濁流のように辺りをうねり、とどまるところを知らない。半ば呆然としている私に向かい「ちょっと先生、ちゃんと聞いてください!」と注意を飛ばしてなお喋る始末だ。
私はお母さんの口を塞ぐことを諦め、椅子に腰掛けた少年を見た。確かにどちらかと言えば痩せ型で、驚くほどの体重があるようにはまったく見えないのに、診察用の華奢な椅子がキシキシと悲鳴を挙げている。なるほど尋常な子どもの重さではなさそうだ。
甲高い声の響く中、私は男の子を体重計へと促した。表示された数字は、成人男性の標準体重をも上回っている。母親の様子を見ても、症状の原因はほぼ明らかだった。
私はもっともらしく聴診器を胸に当てたり、喉の奥を見たりしつつ、おなかの辺りを触診した。ごりっという感触。母親に気づかれないように小さく溜息をつき、さもびっくりしたような表情を作ってやった。
「わっ! 大変ですお母さん、これは恐ろしい感染症です! 今すぐにこれをつけてください!」
と、わざと慌てて引き出しから取り出したマスクには、隅のほうに『30min』と書かれている。そんなところに目をくれるはずもなく、びっくりした母親は大急ぎでマスクをつけた。と、すぐに何かおかしいと気づいたようだ。外そうとしても、唇に貼りついたようにびくともしない。むがむがもが、と何か文句を言いたそうな母親の目に向かい、芝居がかった仕草でぴっと人差し指を突き立ててこう告げた。
「お母さん、実はそのマスクは、うるさく騒ぎ立ててどうしても言うことを聞かないお子さんを静かにさせるために使うものなのです。どんなに頑張っても三十分間は取り外すことはできません。息はちゃんとできるでしょう? どうぞご心配なく」
真っ赤な顔をして怒る母親に、私は畳み掛ける。
「いいですか? あなたのお子さんの症状は、こうでもしないと治まりません。応接室へご案内しますから、そこでどうしてこんなことになったのか、彼の話をじっくりしっかり聞き噛み締めて、よーくお考えください。わかりましたね?」
私はほとんど無理矢理に、二人を奥の客間に連れていった。男の子の、ほんのわずかに救われたような、ほっとした表情が胸に突き刺さった。
本当は五時間くらい黙らせておいてもよかったのだけれど、今からの三十分間はあの母親にとってそんなものでは済まないほどの長さに感じることだろう。少年が今まで言いかけては飲み込んできた言葉の重さを、嫌というほど思い知るはずだ。胃の辺りで鉛のように凝り固まった彼の思いが、少しでも軽くなりますように。そう願った。
「はい、次の方どうぞお入りくださーい」
―了―
次の方
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