シャドウ
「せんせぇ、うちの子の背が一晩で伸びちゃったんですけど、そんなことってあるんですかぁ?」
ちょっと何かを勘違いしているようなどぎつい化粧のお母さんが、マスカラで三倍くらいに膨れ上がった睫毛をばちばちさせながらそう言った。傍らに立つ少女は、問診表によると九歳。平均身長からすれば確かに背は高く、幾分か大人びた顔立ちをしているとはいえ、それほど違和感があるわけではない。
「一晩で……どのくらい?」
「そうねぇ、昨日がわたしのおなか辺りで、今これでしょ? 大体一〇センチ前後ってとこかしら」
カラフルな爪を立て、とんっと少女の頭を小突く。大して力を入れていた様子はないのに、彼女は大袈裟なほどに顔をしかめた。睨みつけていると表現しても差し支えなさそうな、険しい表情だ。
「マキちゃん、どうしちゃったんだろうねぇ」お母さんが喋るたびに、グロスでてかった唇が別の生き物のように蠢く。一つ思いついたことがあって、私はポケットから取り出したペンライトを、少女の右の瞳に閃かせた。光に呼応して瞳孔が収縮するその瞬間、眼球に映った薄い影。うん、やっぱりね。
私は、様々な医薬品の収められている棚から、『M洗浄液』というラベルの小瓶を取り出した。口の広がった一〇t用容器に無色透明の液を満たし、こぼさないようにそっと診察台に戻る。そこに少女の右目をあてがった。しみないからぱちぱちしてねー、と言うと、ぎゅっと閉じられたまぶたが恐る恐る隙間を作る。しばらくすると、洗浄液の中に薄い紫の膜のような汚れが浮かんだ。
「はい、もう大丈夫ですよ」
驚いたのはお母さんだ。マキちゃんの身長はあっという間に、お母さんが言うところの元の高さに戻ってしまっていた。しかし切り替えの早いこと、関心がないのか症状が治まって安心したのか、原因を深く追求せず一礼してそのままマキちゃんの手を引いて帰ろうとする。その少女に、そっと耳打ちしてやった。
「今度、学校の帰りにここに寄ってごらん。先生もあんまり上手じゃないけど、やり方を教えてあげるからね」
彼女はすべてが見抜かれていることを悟ったようで、満面の笑みでうなずくと、スキップせんばかりの勢いで診察室を出て行った。強烈な香水の残り香のせいで鼻がくすぐったい。窓を開け、空気を入れ替えることにした。
あの母親にメイクの仕方を聞くのは、実の娘でも勘弁ということか。隠れて真似事をしてみたものの、アイシャドーを誤って目につけてしまい、取るに取れなかったのだろう。
しかし、以前はあんな真似をすれば、下手すると高校生レベルまで高くなってしまうこともあったのに、わずか一〇センチ程度とは。ちょっと背伸びをしてみたい、という気持ちを持つ年頃と、実際に化粧を始める年齢の幅がどんどん狭くなっているんだなぁ、と変に感心してしまった。
私は苦笑いを少女の後ろ姿に投げかけ、すくめた肩のまま声を挙げた。
「はい、次の方お入りくださーい」
―了―
次の方
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