いたたまれなくなった僕は、煙草を吸いに行ったきり戻ってこない雅輝の後を追うように、未だ泣き崩れている夏ちゃんと、貰い泣きの理沙ちゃん、二人を慰めている幸奈を残したまま部室を出た。雅輝の姿は既にどこにもない。僕はふらふらと部室棟をさ迷い、足の赴くままに、行き付けの学内ブックセンターへと向かった。

 もうすぐ閉店というのに、相変わらず人影はまばらだ――というか、ない。夏季休暇の只中で、まだ大学に来ている人が少ないせいもあるだろう。カウンターの向こうで暇そうにしている内倉綾乃(うちくら・あやの)さんを見つけ、僕はひょいと片手を挙げて挨拶した。
「あっ、葉月さん、こんにちはっ。お久しぶりですね」
 頬杖(顎杖とは言わないのだろうか)をついていた綾乃さん、久々のお得意さんと見るや、学生や教授連の間で人気爆発の華やかな笑顔を惜しみなく披露してくれた。部室からずっと僕に纏わりついていた重苦しいものを吹き飛ばしてくれるような、そんな笑みだった。
 所属クラブがクラブだけに、僕はかなり足繁くここへ通っている。店員さんと親しくなるのにそう時間はかからなかった。中でも人気ナンバーワンの綾乃さんは、ご他聞に漏れず一番お近づきになりたかった人だ。そこで、今まで僕が関わった、ちょっとした「事件」のことを話題にしているうち、こんがらがった毛玉のように見えた謎を、まるで蝶結びの紐をするりと解くように解明する綾乃さんの魅力に、すっかりとり憑かれてしまった僕だった。
「今日はどうされました? 随分暗い顔をされているようですが……」
 心配そうに覗き込む綾乃さん。まぁるい瞳に僕の情けない顔が映っている。
 誰かに話したかったから、話して一緒に少年の想いを背負って欲しかったから、ここへ来たんだろうか。
 自分の弱い心に毒づきながら、僕は少しずつ、裕太少年に関わる三人の女性達の話を始めた。

 そらで覚えていた『い書』の内容までメモに書いて全てを話し終える頃には、閉店時間を回ってしまっていた。要領を得ない僕の話をじっと目を閉じて聞いていてくれた綾乃さんは、時計を見るや慌てて片付けを始めた。そして、どこか哀しげな色を帯びた瞳をこちらに向け、
「それでは、葉月さん、また……」
 と、早足に歩き去ってしまった。呼び止めようとする隙さえ見せず、なぜだか逃げるようにして。取り残された僕は、一人ぽつんと「CLOSED」の札の前で佇んでいた。

 あれから、数日が過ぎた。
 しばらく大学に行く用事もなかったので、あの日以来綾乃さんには会っていない。そろそろ長い夏季休暇も終わろうかというある日のこと、部屋で相変わらずミステリを読んでいた僕に、理沙ちゃんから電話がかかってきた。
「珍しいね、どうしたの?」
『……ごめんね、突然。この間の、裕太くんの事件のことなんだけど』
「あ、ああ。あの時はごめんね、みんなほったらかしで……」
『ううん、いいの。それより聞いて。お姉ちゃんから聞いた話』
 何かあったんだろうか。
裕太くんの父親が、児童虐待の疑いで事情聴取を受けるって』

 綾乃さんは、あの日の時点でこの可能性に気づいていたのだろうか。いや、そうとしか考えられない。
 哀しいことだが、クラス替えで運悪く、くだんのいじめグループと同じクラスになった裕太少年がその被害にあっていたのは事実だろう。が、それで痕が残るような傷がついたり、骨が折れたりするとは考えにくい。そんなことになったら、いくら学校側としても隠し通すことは不可能だろうからだ。では、一体誰が少年にそんな傷を負わせたのか?
 考えてみれば、アルコール中毒の父親と、腕に包帯を巻いた、何かに怯え続けている素振りの母親、小さい頃から、家に帰りたがらなかった裕太少年。そこから、家庭内暴力という悲劇に思考を巡らせるのは、そう困難ではなかった。
 更に、夏ちゃんが葬儀の席で耳にしたという、裕太少年への生命保険。母親の祥子が加入させたということだったが、義明の度を越した虐待により、近いうちに我が子が命を落とすという可能性が高いと見て、間接的な保険金殺人を企んでいたのではないだろうか。
 残された『い書』にあった一文、『これであいつらにうらみがはらせます』の『あいつら』とは、堤義明・祥子夫妻だったのだ。線路の間に挟まるようにして残された幼い胴体。それは両親の悪行を告発するための、まさに執念の成せる業だったのかもしれない。

 そして、裕太少年はその全てを見越して、憎悪の対象である両親に二重の足枷を、裁きの十字架を背負わせる計画を立てた。それが、あの二度の悪戯であり、自殺以外に疑いようもない状況での飛び込みだったのではないか。死後、悪戯が自分の仕業であったと公開することに何か意味を見出すなら、それしか考えられない。三度の緊急停車で、一体何が起こったか。
 まず一つは、保険加入後一年以内に自殺を行ったことによる保険金の支払い拒否
 ……そして二つ目は、電車運行妨害による、電鉄会社への莫大な額の補償金

 会社によって多少の違いはあるものの、一分ごとに数百万円という幅で賠償金を請求するという話を聞いたことがある。飛び込みなどの場合は恩赦がある、などの噂もあるが、現実にはそれほど甘くはないようだ。当人が死んでいる場合、請求は当然両親に対して行われる。とはいえ、既に一生かかっても払い切れない金額になっていることは間違いない。二度の運行妨害は、賠償額を大幅に釣り上げる目的で行われたのだった。
 子供を利用して大金を手に入れようと目論むような輩には、もっとも重い枷であることは明白だ。凄まじいまでの憎悪、怒り――そして、驚くべき計算高さである。

 だとすると、綾乃さんはなぜその推理を披露せずに立ち去ったのか。
 恐らく、虐待の事実が判明していない段階でのその発言は、両親に対する単なる誹謗中傷になりかねないと判断したからだろう。胸の内に秘めておくのは勝手だが、それを他人に話すことは躊躇われたのかもしれない。
 あの日、薄く目を閉じたままで話を聞いていた綾乃さん。
 それは、少年に捧げる黙祷だったのだろうか。

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