・杉原理沙(すぎはら・りさ)

「……ねえ、あの飛び込み自殺した子供の事件なんだけどさ」
 朝食の席でする話にしては、いささか暗すぎる話題ではあるけれども、新聞の小見出しが目に入ったためにそんなことが口をついて出た。
「なあに、理沙? 私もあんまり詳しいことは知らないよ」
 かりっと焼けたトーストに自家製ぶどうジャムを塗りながら、加寿美(かずみ)お姉ちゃんは私のほうを向いた。既に身支度を終えている私は、たっぷりミルクを注いだコーヒーを口に運んでいる。
「結局、自殺の動機ってなんだったのかなぁ、って」
 さくっ。香ばしい音がリビングに響く。しばらくもごもごと口を動かしてから、
「……ん、まだはっきりとはわかってない。つてを頼って色々調べてるとこ」
「水谷(みずたに)さんね」
 秘密裏に情報をリークする警察関係者のことだ。シンパというふうに呼ばれるらしい。
「まあ、ね。あんまり口外しないでよ」
「わかってますって。ということは、捜査の進み具合もはかばかしくないってこと?」
「そうみたい。何せ、小学生の飛び込み自殺ってことで、話題性は豊富だけど関係者の口を割るのが大変らしいわ」
 傍らにあるシステム手帳をぱらぱらとめくる。雑誌記者であるお姉ちゃんの生命線とも言えるこの手帳は、常に手元に携帯しているとのことだった。
「今のところわかってるのは、こんなものね。
 八月*日、楠木駅で飛び込み自殺事件発生。死亡したのは市内に住む堤裕太くん、十一歳。停車間近の急行電車に轢かれて即死。頭部、体幹部、両腕、両足の六部に分断。左腕が電車の底部に引っかかっていて発見が遅れたため、かなりのダイヤの乱れがあった。ホームに置かれていた折りたたみ椅子の上から、『い書』と書かれた封筒を発見……と」
「裕太くんが自殺だということは、間違いないの?」
 こくんと頷き、「そうね、その駅員さんの証言によると、彼が自分から線路に飛び込んだのは絶対に確かだし、ホームに人影はなかったし。電車の運転手も、誰かが突き飛ばしたりしたようなことはない、そんなことが起こっていれば気づいたはずだと断言したらしいわ」
 ページを目で追いながら喋るお姉ちゃん。ふと、綺麗に整った両眉が寄り、皺を作る。
「そうそう、検死の結果、妙なことがわかったらしいの」
「何?」
「うん、発見された胴体の部分なんだけどね、ちょうど線路の間にすっぽりはまっていて、服も破れ目一つないような状態だったらしいの。でも、調べてみたら、体中に打撲や擦過傷が幾つも見られたんだって。骨にひびが入ってる個所もあったとか……」
「落ちた時についた傷じゃないのね?」
「違うの。喧嘩でもしたんじゃないかって、水谷さんは言ってたけど」
 すっかり冷めてしまったコーヒーカップを、両手で包み込むように持つ。お姉ちゃんは手帳から一枚のコピー用紙を取り出して、こっちに差し出した。
「折りたたみ椅子の上に置かれてた、遺書らしきものの写しはもらってきた。読む?」
 こくんと喉を鳴らして最後の一滴を飲み干すと、私は黙ってその紙を受け取った。
 子供一人分の、心の重さが染み込んでいる気がした。

『駅いんさんへ
 ぼくは堤裕太です。いつもおかしを買ってくれたりしてありがとうございます。
 駅いんさん、ごめんなさい。ぼくはたくさんめいわくをかけてしまいました。せんろの上に石をおいたり、大きな人形をおいたりしたのはぼくです。それから、でん車にとびこんだこともごめんなさい。でも、これであいつらにうらみがはらせます。どうかおねがいです、あいつらをこらしめてください。
 ぼくは死にます。もう生きていくのがいやになりました。今までありがとうございました。それからごめんなさい。さようなら』


・大西夏美(おおにし・なつみ)

 立ちこめる鉛色の雲がぱらぱらと振り落とす大粒の雨の間を縫うように、抹香の匂いと読経の響きが辺りを覆い尽くそうとしている。参列者には小学生ぐらいの子供の姿が目立ち、その小さな手を引く母親は、一様に白いハンカチを目頭に当てている。
 近くの公民館で執り行われている、ゆうちゃんの葬儀。ただの近所付き合い以上の感慨を胸に、私は焼香の列の最後尾についた。
 遠くに見える遺影。小さな写真を引き伸ばしたせいで、少しピンぼけしているのがここからでもわかる。黒いリボンの間からこちらを見ている幼顔に、笑みはない。
「ゆうちゃん……」
 握り締めた数珠が、ちゃらりと乾いた音を立てた。
 小さい頃は、よく遊んであげたものだった。高校からの帰り道、夕方になっても、公園のブランコに一人揺られながら、長い影を砂場のほうまで落としている姿を、今でも思い出す。植え込みの多い公園でのかくれんぼは、薄暗さも手伝ってなかなかに楽しかった。街灯に虫が集まり始めるような時間になっても帰りたがらないので、我が家に泊まっていくこともしばしばあった。
 そのゆうちゃんが、冷たく小さな骸となって、白木の棺に眠っている。いつの間にか、列は私の後ろへ伸びている。香をつまみ、額へ一度、二度。手を合わせ、遺影の虚ろな瞳を見た時、涙と共に嗚咽がこぼれた。

 ゆうちゃんのご両親のことは、直接知っているわけではなかった。絶えず流れてくる噂話には、悪意も確かにあっただろうが、尾ひれだけとは言い切れないような内容も少なからず含まれていた。その一つが、今目の前で明らかになった。
 父親の義明(よしあき)さんは、喪主であるにも関わらず、似合わない礼服をくたびれたように着崩し、ポケットサイズの瓶に入ったウィスキーを煽っている。赤ら顔に貼りついた目を参列者に向けることも、黙礼をすることもなく、ただ無気力な表情でどこかに視線を泳がせている。
 重度のアルコール中毒。仕事もせず、ふらふらと酒を食らう毎日を過ごしているという話に偽りはないようだった。
 その隣で、どこか怯えたように落ち窪んだ目を動かしている女性が、母親の祥子(しょうこ)さん。ろくに手入れもしていなさそうなぼさぼさの髪、つやとは無縁の、象皮と見紛うほどかさかさに乾いた肌。喪服の黒さは、美しさを際立たせるどころか、かえってその姿をみすぼらしく見せている。
 憔悴した表情を隠すように機械的なお辞儀を繰り返しているが、参列者からかけられる悔やみの言葉すら耳に入っているかどうか疑わしい。後追い自殺でも図ったのか、くすんだ黒の袖から覗く、手首に巻かれた白い包帯がやけに痛々しく映えた。

 焼香が済んでからも、しばらく近所のおばさん達と取りとめもない話を続けていた。このまま立ち去ってしまうと、永遠にゆうちゃんと別れなければならない。その時間を少しでも引き延ばしたいと思ったから。
 自殺だってねぇまだ小学生よショックよねぇ世も末だわもうすぐ夏休みも終わりねぇあれマスコミじゃないやぁねぇハイエナみたいに両親があれじゃかわいそうよねぇそういえば最近生命保険に入ったとか蝉が少なくなったわ奥さんお香典はどれくらいうわぁぁん裕太くんが死んじゃった裕太くんが裕太くんが裕太くんが――。
 あちらこちらで交わされる会話の隙間を縫って、叫び声が私の耳に届いた。式場の裏手から聞こえてくる。砂利をゆっくり踏みしめ、近づいてみた。
 祥子さんだ。凄い剣幕で、背広姿の男の人に怒鳴り散らしている。そのうちの一人に見覚えがあった。楠木駅でよく見かける駅員だ。
(ということは、みんな枚高電鉄の社員かな……)
 角度が悪いので表情は読み取れないが、祥子さんの喚きをじっと聞いているように見える。断片的に響く言葉を拾うと、どうやら息子を奪った相手に罵倒を浴びせているらしかった。
「……どうして…今……んな…私達………酷…冗談じゃ……嫌よ……」
 今にも掴みかからんとする狂気の母親を羽交い締めにする、数人の参列客。いたたまれなくなり、私は哀しい風景に背を向けた。


・ 増川幸奈(ますかわ・ゆきな)

「ここが、裕太くんの席?」
 小さな体を覆い隠してしまうほどの花束を抱えた弟・徹(とおる)が、涙をこらえながら頷いた。その頭に、ぽんと手を置いてやる。そっと背中を押すと、歪に並んだ数十のパイプ机の一つに、徹が弔いの花束を供えた。
 昨日、この幼い弟から、花屋についてきてくれと頼まれた時には驚いた。最近はおよそ聞かなくなった「やんちゃ」「わんぱく小僧」という言葉を地でいく弟のイメージからは、あまりにもかけ離れたものだったからだ。ところが、子供に大人気のアニメキャラクターを模した貯金箱をすっと差し出し、
「これ、俺のお小遣い溜めたやつ。買えるだけの花束が欲しいんだ」
 と言われて、ようやくその意図を理解した。
 連日、新聞やワイドショーを賑わせている、小学生の飛び込み自殺。亡くなった堤裕太という少年は、この弟と同級生だった。五年生になってクラス替えがあったばかり、新しい友人とどれくらいの交流があったかは知らないが、新しいゲームが欲しいからと、少ないお駄賃などをせっせとかき集めていたその貯金箱を全額差し出してまで供養をしてあげたくなるほどの仲ではあったようだ。私は快く承諾し、近くのフラワーショップの外で徹を待たせ、自分の財布から数千円を足して、分不相応なほど立派な花束を持たせてやった。
 かの事件の余波で臨時休校となった小学校に潜り込むのは、徹にとっては容易だった。どこのフェンスに抜け穴があるか、どこの通用門の鍵が壊れているかなど、十二分に知り尽くしているから。教室の鍵でさえ、ドアとドアの隙間からちょっと小枝を突っ込んでやると簡単に外れた。
 そして今、私は弟と共に、今は亡き彼の親友がいた場所に立っている。

 ふと触れた机に、何か違和感を感じた。目があまりよくないので、遠目にははっきりとわからなかったけど、よく見ると机の表面におびただしい数の傷がついている。いや、これはただの傷ではない。彫刻刀か何かで削ったような文字が、
「くっそぉ!」
 いきなり背中のほうで、どがん、というもの凄い音がして、私は飛び上がった。
「徹?! あんた、何してるの!」
 振り返った私の目に飛び込んできたのは、一つの机を持ち上げて壁に投げつけ、更に何度も踏みつけている弟の姿だった。
「やめなさい!」
 慌ててその机から徹を引き剥がす。はぁはぁと荒い息遣いが、私のお腹のあたりで響く。しゃがみ込んで、肩からそっと抱き締めてやった。
「……みんな、みんなこいつが、悪いんだ。こいつが……」
 ぼろぼろととめどなく涙を流している弟。憎しみを湛えた瞳が、へこんだ机を見据えている。
「お父さんが校長先生だからって、いばりやがって。自分は全然偉くも強くもないくせに。こいつが悪いんだ、全部こいつが!」
 悲痛なまでの叫び。花束の下に隠された呪詛の言葉が鮮やかに脳裏に浮かび、焼き付いて離れなかった。

『おまえなんか死んじまえ』

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