少年の残したものは
Prologue
「くそっ、最近どうもついてないな……」
レバーを握りながら、誰に聞かせるわけでもなく、遠山均(とおやま・ひとし)は呟いていた。流れ行く風景には目もくれず、進行レバーを引き上げる。少しずつブレーキを絞り、先頭車両をきっちり停止線に合わせるための作業に入った。聞き慣れた相棒のアナウンスが車内に響いている。
枚高線というローカル私電の運転手として働き出してから、今年で五年目となる。ようやく仕事の要領も掴め、収入もある程度安定してきたので、そろそろ恋人との結婚も真剣に考えようかな、と思い始めていたこの頃、彼は何かにとり憑かれたように連続してトラブルに巻き込まれていた。
五日前のこと。線路上に一抱え弱ぐらいの石が置かれており、電車は緊急停止した。以前は東京で鴉が似たようなことをしていたという事件があり、「鳥が相手じゃ賠償請求もできないなぁ」という地元の友人のぼやきを聞いて苦笑いしたものだったが、こちらが人為的なものであることは明らかだった。
その三日後。同じポイントに、今度は枕木と平行に人影が横たわっており、運転手は慌ててブレーキを引いた。二車両分ほどオーバーしてやっと停車し、絶望的な思いで安否を確かめてみると、それは人間ではなく、近くのデパートで廃棄処分になり、粗大ゴミ置き場に打ち捨ててあった小さなマネキンであることが判明した。例え作り物であっても、やはり首が転がり落ちていたり手足がもげていたりするのは、見ていて気持ちのいいものではない。
ちょうど監視カメラの死角に位置していることもあり、どちらの悪戯の犯人も未だ不明のままだ。そして、その二回とも電車を急停車させたのが、他ならぬ遠山運転手だったのである。お咎めがあるわけではなかったものの、気分がよかろうはずもない。
その後、周辺を捜索したところ、石やマネキンが置かれていた地点の近くにあるフェンスに穴が空いていることがわかった。老朽化によるものらしかったが、これを機に線路沿いのフェンスの全面改装が行われた。そして昨日、工事は無事に終了したらしい。
今、彼はその問題のポイントに近付きつつあった。まさか今日は……と思いながらも、もしや、という意識も捨て切れない。不安と緊張が交錯した微妙な感情をそのまま顔に浮かべ、彼は緩やかなカーブを曲がっていった。
(……どうやら、大丈夫らしいな)
知らず、ほっと溜め息が出る。幾分リラックスした面持ちで、モスグリーンの車体を次の停車駅構内へ滑り込ませる。
その時。
ホームから、何かが飛び込んできたように見えた。
一瞬躊躇したものの、次の瞬間には力の限りブレーキレバーを手前に引き倒していた。車輪とレールの擦れ合う音が耳をつんざく。慣性の法則に従って前のめりや横向きに倒れる乗客と、悲鳴と怒号が交錯した地鳴りのような響き。
(……い、今のは……まさか……あの子か?! ああ、何てことだ……!)
先頭車両は、ホームの中ほどを過ぎたところまで来てようやく停車している。レバーを握り締めている手が白く変色し、徐々に大きくなっているはずのざわめきを含めた全ての音が、彼の耳から遠ざかっていった。
(…………最悪だ)
目を硬く閉ざし、血が出るほど唇を噛んだ。
八月も終わりかけたある夏の日。皮肉にも空は抜けるような晴天であった。
少し時間は遡る。
このローカル私鉄のほぼ真ん中に位置する住宅街最寄りの駅・楠木。このプラットホームで、駅員の一人である三平幸二郎(みひら・こうじろう)は、いつものところにいつもの姿を認めた。
「ああ、あの子また来てるのか」
自然と頬が緩む。随分長い間この仕事に就いているし、今までに色々な人も見てきたつもりだが、こんなに熱心な子は初めてだった。
「やあ、こんにちは」
ホームの端、市内に向かう電車が真っ先に見える位置に小さな椅子を置き、その上にちょこんと座っている少年は、大きな瞳を持つあどけない顔を声の主に向け、
「……こんにちは」
と、小さく挨拶をした。
少年の名は、堤裕太(つつみ・ゆうた)といった。世間の小中学生達が一斉に夏休みに突入し、やれプールだ海だ山だと騒ぎ始めた七月中旬から、彼は毎日のようにここへ現れては、やって来る電車を眺めていた。別に乗ったり写真を撮ったりするわけではなく、ただ「見て」いるのである。
「坊や、電車が好きかい?」
と、かつて三平が尋ねたところ、突然の質問に驚いた様子ではあったが、やがてわずかに頷くのが見て取れた。それ以来、駅員の口添えで入場フリーの待遇となり、ほとんど一日中そこに座っている彼に、売店のお菓子やジュースを買い与える者までちらほら見受けられるようになった。
よほど電車が好きなのだろう、と思っていた。鉄道マニアは決して珍しくはなかったし、この子と同じぐらいの小学生だって何人もいる。確か五年生だと言っていたように記憶している。
その日も、少年は椅子に座り、次に来る電車を今か今かと待ち構えている……ように見えた。いや、確かに待ってはいたのだが「見る」ためではなかった。
三平が背中を向けた瞬間、少年はホームからダッシュして線路に身を躍らせた。その向こうから、悲鳴のような警笛とブレーキ音を響かせながら突っ込んでくる急行電車が!
「危な――!」
少年が生きている間に届かなかった三平の叫びは、凍りついた空気の中をシャボン玉のように緩やかに漂い、消えた。
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