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 結局、このままでは午後からの講義も身にならないと勝手に判断した僕は、軽く食事を取った後も二つの暗号文とにらめっこし続けていた。ヒントだと言うからには、この二つは同じ換字法で解読できるはずなのだが、情けないことにさっぱり見当が付かない。僕にだってミス研部員という意地がある。謎を前にして屈服することは、ある種の屈辱でさえある。
 いつまで経ってもその糸口さえ掴めない状況に少々うんざりしていたので、小休止を挟むことにした。人間、何事も根を詰めるとうまくいかないものだ、うん。
 食堂の横には、某巨大本屋のチェーン店であるブックセンターがある。本屋と文房具屋が一緒になっていて、休み時間になるとコピー機とレジ前は戦場と化す。勿論、大学の中の店など大した規模じゃないが、僕は結構気に入っている。何より、全ての本や文具が一割引で買えるのだ。貧乏学生の僕にとっては願ったり叶ったりである。
「あら、こんにちは」
 既に三時限目の講義が始まっているので、店内は閑散としている。入り口のガラス張りのドアを開けた途端、みーさんと目が合った。みーさん≠ニは無論愛称で、本名は三上智恵美(みかみ・ちえみ)。単純に頭文字を取ってみーさん≠ニいう説と、『ちえ』でみ≠ェ三つだからみーさん≠ニいう説があるが、別にどっちだっていいと思う。優しい目をした女性で、ブックセンターの店員の中では一番年上だろう。在庫整理をしていたのか、書類を片手に本棚をチェックして回っている最中である。
「どうも」
 軽く会釈をした。クラブの性質上、僕はこの店の常連客に位置づけられている。当然、店員さん達とも顔見知りだ。
「今日は何をお探しですか? また推理小説を?」
「いえ、冷やかしです」
 みーさんは「まあ」と言ってくすくすと笑った。
「あ、いらっしゃーい」
 その時、背後から突然声がしたので驚いて振り返った。ポニーテールを揺らしながら、貴志智香(きし・ともか)さんがそこに立っていた。この人もブックセンターの店員の一人だが、私服なら学生でも通用するくらい若い。といっても、純白のカッターシャツにセピア調のチェックのベスト、タイトスカートという制服姿以外の服装を見たことはない。
「……びっくりさせないで下さいよ、全然気が付いてなかったんですから」
「あら、ごめんなさい」
 目を細める独特の笑顔で、いつの間にか丸め込まれてしまった。どうも僕は女性というものに全般的に弱い立場にあるようだ。ふと視線を下げると、赤いナプキンに包まれた楕円形の箱が、人差し指を支点にして前後に揺れている。
「お食事ですか」
「はい、綾ちゃんが交代で行ってますよ、食堂に」
 あなたの目的はそっちでしょ、とでも言いたげに、貴志さんは左手を挙げて挨拶をした。薬指に光る、真新しいシルバーリングが眩しい。
 胸の内を見透かされたようで気恥ずかしいが、そのまま僕は店を後にした。背中に二人の忍び笑いが届いてきた。
 再び食堂に足を運ぶ。きょろきょろと辺りを見回すと、まばらな学生群のにぎやかな喧騒に混じって、今しがた見てきた色のベストに包まれた背中を発見した。
「……こんにちは、内倉さん」
 前に回って挨拶をすると、驚いたように顔を上げて、
「あっ、葉月さん。……こんにちはっ」
 可愛らしいフォーク片手に、小さなお弁当を広げている内倉綾乃(うちくら・あやの)さんが弾けるような笑顔を見せた。
愛嬌のある丸っこい顔とくりくりした瞳。この間までは上へ束ね上げていた髪を、今は襟首の辺りでゴムで纏めてある。貴志さんと同じく、私服姿なら(恐らく)女子学生だと言われても納得してしまうだろう。我が校の学生間はおろか、学校職員にもファンがいるという話だが、どうやらもう一人のブックセンター店員である貴志さんが結婚したために、双方のファンが綾乃さんに流れたらしい。元から綾乃さん派≠ナある僕にとって、この状況はいただけない。優勝争いを始めた途端に急増したにわか阪神ファンを見つめる、根っからのトラキチの気分だ。
そんなことを知ってか知らずか、綾乃さんはとても愛想がいい。誰とでも気軽に気さくに話をしてくれるのが、人気の理由の一つかも知れない。一言お断りをして、僕は綾乃さんの前の席に腰を下ろした。
「今日はどうされたんですか? 何か難しい顔をしていらっしゃいましたが……」
「あ、いや、別に大したことじゃないんですけど……」
 話の種にと思い、僕は今朝からの出来事をかいつまんで喋り始めた。綾乃さんはニコニコしながら相槌を打っていたが、やがてフォークをケースに片付けると、
「その暗号文ですけど、よろしければ拝見させて戴けませんか?」
「は? まあ、別に構いませんが……」
 僕は愛用の手帳のメモ覧を開いて見せた。覚え書きのつもりだったので字が乱雑この上ない。二つの文章を見比べていた綾乃さんが、ヒントの文を指さして言った。
「この文章は、下に書いてある『細川吾郎』という方を表しているのですね?」
「……はい、先輩はそう言ってました」
「そうですか。では、葉月さんのクラブに所属する、三回生の女子部員の方々の名前を書き出して下さいませんか」
 そう言って綾乃さんは、胸ポケットからボールペンを取り出し、僕に差し出した。訳が分からないまま、僕は三人の先輩達の名前を列挙した。その名前の一つを見て、綾乃さんは嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり、この読み方で間違いありませんね」
「? ちょっと待って下さいよ、じゃあ綾乃さんは、この暗号が解けたと言うんですか?」
「はい、多分これで正解だと思いますよ」
 事も無げに綾乃さんは言った。僕が今日の活動時間の約半分を費やしても手がかりすら掴めなかった難問を、ものの一分程度で解いてしまったというのだろうか。
「い、一体どうやって……?」
 僕は思わず身を乗り出していた。綾乃さんは愛用のマグカップに口をつけ、上目遣いで、
「……教えちゃっていいんですか?」
 と悪戯っぽく聞いたのだった。

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