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目覚めは緩やかに、そして久しぶりに心地よく訪れた。クラヴィスはぼんやりと目を開けて、数度、まばたきを繰り返す。喉の渇きを最初に、次いで胃が動き出しているという感触を、覚えた。一つ目はともかく二つ目は、ここ数日全く感じなかったことだ。
視界がはっきりすると、今ひとつ見慣れていない天井が目に入った。何だ? と疑問を抱いてすぐに、朝方のことを思い起こす。
ああ……あの鬱陶しいジュリアスの腰巾着が、何やら勝手にあれこれやっていたな……
目に痛いほど鮮やかな赤い髪が脳裏を掠めて、不快げに眉根を寄せる。
赴任当初は呼びもせぬのにあれこれ話しかけてきていたものが、三ヶ月のうちにジュリアスの隣を居場所として、気が付けば挨拶しかしてこなくなっていた、尊大で不遜な子ども。会議での強引で攻撃的な喋り方も、過剰なまでに自信たっぷりな態度も、感情に走っているようで、実際には理詰めで相手を追いつめてゆくやり方も、煩く目障り以外の何ものでもなかった。
見たくもないのにあの赤い髪と声が人一倍目立つせいで、群がる蝶にまんべんなく愛嬌を振りまき、見境なく口説き文句を垂れ流す姿を、幾度目にしたか。しょっちゅう外界に無断で降りているのも、知っていた。自分には小言と説教ばかりを垂れる、規律大事で潔癖性な首座が、あれに限っては褒めることが多く、そのたびに、ではお前はあれの本性を理解しているのか、聖地を抜け出しているのを知った上で言っているのかと、あざ笑ってやりたい気持ちになったほどだ。
まったく……リュミエールもいらぬことをしてくれる……
顔を合わせたら無理にでも謝辞を口にしなくてはならないと思っただけで、クラヴィスはうんざりせずにはいられなかった。
ほう、と、長くため息をついて、身を起こす。サイドテーブルに水差しを見つけて、手を伸ばした。その隣に、小さなアレンジメントの花を見る。
あやつが持ってきたのか……?
一瞬、忌々しいものを目にしたかのように眉をひそめたが、ふいと目をそらして、水差しからコップに、水を注いだ。
水で喉を潤すと、いかに喉が渇いていたかを、実感する。それが呼び水となったのか、身体はより多くの水分と、栄養を求めてきた。
「……今日は、人が、いないのであったな」
低く呟き、のろのろと立ち上がる。一週間近く寝込んでいただけあって、身体には微妙な浮遊感があった。椅子にかけてあったガウンにどうにか手を通し、ふらつく足取りをだましだましして、部屋を出る。階段を下りるために壁に支えを求め、そんな自分に彼は、苦笑いを浮かべた。
一階に下り、キッチンに繋がる通路を歩くうちに、胃の腑をくすぐる香りに気づく。そういえば……と、クラヴィスは朝方のことを、再び脳裏に思い浮かべた。
キッチンを借りると、あれは言っていなかったか? もしかしてまだ、館にいるのか?
細い眉をひそめ、面倒な、と呟いた。顔を見て食事を摂る気も、話をする気もないというのに。朝の傍若無人で強引な扱いを、また、押しつけられなくてはならないのか。いや。
礼だけ言って、さっさと帰らせればよいか。どうせあやつも、好んで長居をしているわけではない。
逡巡の後にそう結論づけて、再び歩き出すが。
不意に耳に聞こえてきた声に、鬱陶しい、面倒だといったそれまでの感情が、強い不快感へとすり替わった。
「世辞だなんて、とんでもない。俺は心の底から、貴女を射止めた男を羨ましく思っていますよレディ・マーサ」
ダイニングから聞こえてくる低く、甘い声は、赤毛の男のものだ。
「できれば、取って代わりたいほどに」
「……そんな、勿体ない」
返事は、紛れもなく女性のものだった。
「勿体ない? まさか。貴女と共に毎日を過ごせる以上の幸運は、ありませんよ」
あやつは……他人の館でまで、女を連れ込んで……
不愉快で、不快な。どろりとした感情がクラヴィスの身の内を巡った。どんな顔で囁いているのか、目に浮かぶようだ。言葉を受け取る女が、どのように頬を染めているかも。
苛立ちと怒りが、心を波立たせた。金髪の潔癖性の傍では、そんなそぶりは欠片も見せぬくせに、ここでなら、見境も何のはばかりもなく不埒な真似をできるというのか。恥知らずが。
クラヴィスはそんな己の感情の揺らぎに嫌悪を抱き、そうさせた相手に、いっそう強い怒りを覚える。
彼はダイニングの出入り口へと歩みを進め、不快感を顕わに、声を低くして言い放った。
「こんな場所でまで女を連れ込んで口説いているとは、相変わらずお盛んなことだな。炎の守護聖。だが、あいにくここの主人は私だ。不埒でみだらな真似をする輩に貸す屋根は……」
ない、と、言いかけ、言葉を失う。
視界の中で、オスカーがテーブルに座り、きょとんと、こちらを見ていた。手にはスプーン、彼の前には小さな空の器。そして。
彼の向かい側には、六十歳を越えた白髪の女性が座り、顔面蒼白で、クラヴィスに怯えきった目を向けていた。
* *
口元を抑えて、笑いをかみ殺そうとしつつも失敗して肩を震わせているオスカーを、ダイニングテーブルに座ったクラヴィスは、苦虫を噛みつぶしたような顔で睨む。
「ああ、申し訳ありません……」
また、思い出したのだろう。神妙そうに言いかけたくせに、目が合うと語尾を揺らしそうになった。クラヴィスはいっそう、むすっと顔をしかめる。
「……笑いたければ、笑えば良いであろう」
「そういうつもりでは、ないのですが」
必死に我慢しようとしている男の脳裏にどのような映像が浮かんでいるのかを、クラヴィスは知っている。
自分のバカ面を……そう、オスカーが若い女を連れ込んでいちゃついている現場に踏み込んだつもりが、闇の館の老シェフの妻が作ったシチューを褒めていただけだったと知った瞬間の、恥ずかしさと決まりの悪さといたたまれなさで一杯の大まぬけな顔を、思い出しているのだ。
オスカーが褒め言葉を垂れ流していた相手が、夫に頼まれてクラヴィスに食事を持ってきたのだという事実を、彼は目の前の男から説明された。涙目になって謝ろうとする彼女に、この男は悪いのは誤解されるような話し方をしていた自分で貴女は何も悪くない、叱咤されたのも自分なのだと慰め、謝り、クラヴィスもまた、彼女には謝罪の言葉を口にしたのだった。
そうして、まだ動揺の残る彼女を、オスカーは門まで見送りに行き、戻ってきて、今に至っている。
「すみません、本当に。ただ何と言いますか、クラヴィス様でも声を荒げて怒りを顕わになさったり、感情を表に出されるのだなとわかって、少しほっとしまして」
申し訳なさそうな顔で、そのくせ唇にも瞳にも笑みの欠片を映して、オスカーは口元を覆った。クラヴィスは口を一文字に結んで、彼から目をそらした。何が、ほっとしまして、だ。冗談ではない。クラヴィスは最悪の気分だった。
「お前が……本当に、老若を問わず女を口説くと……知らなかったものでな」
「若い女性には若い時期にしかない美しさが、年輪を刻んだ女性にはその年輪なしには生まれ得ない美しさが、ありますよ」
嫌味のつもりで口にしたものを、何の含みもなく返される。
「料理が上手いのは、これ以上ない美点だと、クラヴィス様は思われませんか?」
クラヴィスは返事をしなかった。
「えっと、クラヴィス様の口に合うかどうかは、わかりませんが。よろしければ」
オスカーは一度キッチンに下がってから、盆に透明なダブルグラスを持って戻ってきた。そしてグラスを、クラヴィスの前に置く。
下のグラスには砕いた氷、上のグラスには、これは。
「ヴィシソワーズか?」
訝しむ表情のままに、クラヴィスは尋ねた。
ごくごく淡いクリーム色のスープの上に、チャービルとチャイブがまばらに散らされている。オスカーはええまあ、と、頷いた。
「なぜ、これを」
「お好きだと、伺っていましたので。本当は、病気のときは温かいものの方が胃腸には良いのですが、逆に、好きなものなら食べられる、というのもありますから、いいかなと」
どうぞ、と言い添えてから、彼は再びキッチンへと戻っていった。クラヴィスは空腹感を思いだして、スプーンを手に取る。オスカーの目の前で何かを食べる気にはなれないが、幸いにも、いなくなってくれた。スープを掬って、彼は口に運ぶ。
冷たい食感の後にくる、絹のような舌触りに、まず驚いた。ざらつきは一切なく、まろやかな甘みが、次いで絶妙な塩味が舌に絡まり、ふわりと、ジャガイモ独特の優しい香りが口の中に広がる。
「美味い……」
思わず、呟いていた。はっとして顔を上げるが、オスカーはまだキッチンで何かやっているのか、姿はない。クラヴィスはほっと息をついて、二口目を掬った。三口目、四口目と、手が動く。彼はグラスの中身をあますことなく、食べきった。間違いなく、美味だった。
スプーンをグラスを乗せたガラスの皿の上に下ろしたところで、まるで計ったかのように、オスカーが中に入ってくる。
「口には、合いましたか?」
「……美味かった。とても」
クラヴィスがぼそりと答えると、彼は先までとは違う、少しくすぐったそうな笑みを零した。
「それは、よかった。舌がものの味を美味しいと感じられるようになったということは、身体が元気になってきた印です」
「これは……お前の館で作った、ものか?」
返事がくるのに、今度は二拍ほど間があった。
「え、え。まあ」
らしくない曖昧な言い回しと語尾の揺らぎに、不審に思う。
「……違うのか?」
「館というか、その、俺が作ったので」
困ったように告げてくる言葉の、意味を掴むのに三秒ばかりかかった。
「……お前が?」
クラヴィスは目を見開く。
「材料は、うちのシェフから預かってきたものですが」
まじまじと、空のグラスを見直した。
「これを?」
「はあ」
「……そうか」
驚いた。顔には、出さなかったが。
「お腹は、空いていらっしゃいませんか? 食欲がおありでしたら、他のものもおもちしますよ」
オスカーはグラスを盆に乗せて、尋ねた。
「レディ・マーサが持ってきてくださったアイリッシュシチューを、温めますか? ラムが口の中でとろけて、実に美味いですよ。彼女の夫はこちらのシェフだそうですが、毎日あの女性の手作りを食べられるなんて、本当に羨ましい」
クラヴィスはぴくりと眉を吊り上げ、かすかに睨むような目を向ける。オスカーはしまった蒸し返した、という表情を一瞬見せて、話の方向を修正する。
「後は、少々甘いものになりますがパンプディングと、それから、冷たいものを好まれるようでしたら、リュミエールのハーブを使ったゼリーが、出来上がっている頃です。ああ、朝もお出ししたパンとライチもありますね」
クラヴィスは、今し方並べられた料理を一つ一つ、確認するように脳裏に思い浮かべてゆく。アイリッシュシチューはシェフの妻が、蒸しパンは確か炎の館のシェフの手作りで、ライチはリュミエールの土産で……では。
「プディングと、ゼリーは……誰が」
何とも言えない表情を、オスカーは見せた。まるで、小さな子どもが内緒で母親の誕生日にケーキを焼いて、それを見つけられてしまったような。
「……お前か?」
「ブイヨンを作っているあいだは、微妙に暇なんです。場を離れるわけにはいきませんし、材料も揃ってましたから」
返されたのは、肯定を意味する言葉だった。
「もし熱々のものをお望みでしたら、簡単なココットくらいなら、二十分ほど待っていただければできますよ。もう少し時間がかかりますが、米もありますからリゾットもできます」
「料理が……得意だったのか」
「まさか。士官学校と軍隊で多少は経験していますが、どちらかというとサバイバル用でしたし、手順も調味料もいい加減ですよ」
「しかし、これは……」
「ああ。それはブイヨンが母の作り方のままなので、特別です」
少し照れたように、笑う。
「母? ……お前のか」
「ええ。子どもの頃に一度だけ、俺が高熱を出したときに作ってくれたものです。ヴィシソワーズではなく、コンソメでしたが。部族の長の妻としても一家の母としても忙しい人で、普段は全然構ってくれなかったんですが、そのときは一日付きっきりで、牛の肉なんてまず手に入らないのに、どこからか調達してきて。それまでは、熱の影響で食欲なんて全然なかったのに、あまりに美味くて、びっくりしました。それ以来、風邪を引いたら骨付き牛すね肉でスープ、という図式が、俺の頭の中で出来上がったんです。我ながら単純ですね」
オスカーは淡く、微苦笑を浮かべる。そのまなざしが一瞬、はるか遠くに向けられたのを、クラヴィスは捕らえた。なるほど、と、クラヴィスは小さく頷く。
「因みにヴィシソワーズは、うちのシェフに教わったものです。色の白さと舌触りが命だと念を押されたので、ポロネギとジャガイモを炒めるのにちょっとだけ気を遣って、布で二度漉ししています。だからこれは、俺の本来の料理とは全然違います」
にこりと微笑んで、なので後の料理はあまり期待しないで下さいと、オスカーは付け加えた。
「何がいいですか?」
クラヴィスは「では、プディングを」と答え、「もしまだあるなら、もう少しこれを」と、盆の上にある空のグラスを示した。
オスカーは頷いてキッチンに下がり、暫くして器を二つと、黒い液体の入ったカップを持ってきて、テーブルに並べる。
「……これは」
「いきなりコーヒーというわけにはいきませんが、舌が元気になられたのでしたら、コーヒー好きな方にはそろそろ恋しいのではないかと思いまして」
チコリの根を使ったコーヒーもどきですと、言った。クラヴィスはうさん臭そうに、湯気を立てている液体と、赤い髪の青年の顔とを見比べる。香りは、コーヒーとはほど遠い。しかめっ面のままで、彼はカップを手に取り口元へと運んだ。味を確かめるように少しだけ、口に含む。
そして、驚いた。
「思ったよりいけるでしょう? タンポポの根を使ったコーヒーもありますが、俺は、それよりはこちらの方が、もどきとしては優秀だと思ってます」
くすくすと、悪戯をしかけた子どものように、オスカーは笑った。
「……悪くはない」
かろうじて、答える。十分ですと、やはり彼は笑顔で言った。
「では、終わる頃に参りますので」
クラヴィスが二口目を口に含もうとすると、そう告げてまた、キッチンへ行こうとする。
「……まだ、何か作ってでもいるのか?」
オスカーは出入り口のところで振り返り、いえ今はと、答えた。
「ではなぜ、席を外す?」
きょとんと、目をしばたたく。
「その方が少しでも、気持ちよく食べていただけるかと思いまして」
虚を、突かれた。クラヴィスは息を呑む。
「チコリコーヒーがお気に召しましたら、言って下さい。生クリームもありますから、ご希望でしたら、アイリッシュ・コーヒーもどきも作りますよ。カフェインは入っていませんので、多少飲み過ぎても大丈夫です。ただし、利尿作用が強いので、後が忙しくなるかもしれませんので、それを踏まえた上で」
オスカーは軽い口調で告げて、そのまま出ていこうとした。意識する前に、クラヴィスの唇から声が漏れる。
「待て」
赤い髪が揺れ、怪訝な表情を映した顔だけが振り返った。一瞬ためらい、言葉を探し、クラヴィスは視線をそらす。
「……それだけが理由だと……言うのであれば。ここに、いるがよい」
風邪を移すかもしれぬが――
返事を待った時間は、おそらく二秒ほどであった。鋭く冷たい、という印象の強い氷青の瞳が、わずかに見開かれ、そして。
綻ぶ。
「クラヴィス様が、それをご希望でしたら」
その低く響く声を、今は耳障りだとは感じていないことに、クラヴィスは気づいた。
* *
ぼんやりと、意識が覚醒していくのがわかる。
クラヴィスは自分が、客用寝室ではなく自室のベッドに眠っていたことに、気づいた。
「……夢を、見ていたのか?」
いつ、自分の部屋に戻ったのかまったく覚えていなかった。確か、オスカーが料理をしているところを、見ていたはずだった。彼はは部屋で寝るように強く言ってきたが、聞こえないふりをして、椅子に腰をおろした。良いから、続きをやれと。渋々という風に、あの男が毛布をもってきてガウンの上からくるむように巻き付けてきたときの、触れた感覚を、身体は覚えている。「知りませんよ、熱ってのは後から上がってくるんですから。少しでも気分が悪くなったり体がおかしいと感じたら、言って下さい」と、たしなめるように言われたことも。リュミエールのハーブで作ったというゼリーと、それと、卵とほうれん草のピュレのココットもいつの間にか作っていて、食べた記憶がある。
そうして、調理台とコンロとオーブンの間を行き来する背中を眺めて、彼が、肩幅はあるが腰は驚くほど細いことや、足音を一切立てずに歩くことができること、動きに本当に無駄がないことを、知った。柔らかく笑うと雰囲気がまるっきり別人のようになることや、意外と口数が少ないこと、実に穏やかな話し方ができることにも、気づいたつもりだったが。
夢、だったのか? 私が、寄りにもよってオスカーが、見舞いに来た夢を見たと?
夜になっているのか、周囲は闇の色に覆われていた。クラヴィスは熱っぽさの残る身体を騙しながら上体を起こし、ベッドサイドの灯りのスイッチを点ける。
ほの暗いオレンジ色の照明がともり、すぐそばのローテーブルに、かすみ草の白と匂いスミレのラベンダー色を、見つけた。朝も見たものだ。昨日までは、なかった。
「……夢では、なかったか」
なぜかしらほっと、安堵のため息が漏れる。目を細めて花に手を伸ばしたとき、ごく小さく、扉をノックする音が聞こえた。
返事をする前に、予想通り、赤い髪と薄青の瞳が、視界に映る。
「起きていらっしゃいましたか」
オスカーの手には銀の盆があった。肘にひっかけているのは、バスタオル?
ぱちり、と天井の灯りをつける音がして、部屋が明るくなる。
「具合はどうです? 少し熱が上がっているのではありませんか?」
「……どうだろう。よくは、わからない」
「あなたはもう少し、ご自分の身体のことを、ご自身で感じる必要があると思いますね。キッチンでも何もおっしゃらず、気が付いたらテーブルに突っ伏しておいででしたし。自分より上背がある男をここまで引きずってくるのは、さすがに難儀でしたよ」
少し呆れたような顔。オスカーはまっすぐにベッド脇まできて、盆をテーブルにおき、するりと手をクラヴィスの額に伸ばしてきた。
「……ああ、大丈夫だ。落ち着いてきていますね。良かった」
ひやりとした手のひらを、心地よいと思う。オスカーの手は次いで彼の首元を、脈を計るように柔らかく押さえた。
「食欲は、ありますか? 一応、ご所望のコンソメ・オリジネールを持ってまいりましたが」
オスカーはテーブルに目を向け、つられるようにクラヴィスもそちらへと視線を向けた。
盆の上には、新しい水差しと、透明なカップにハーブティー、そして。
淡いこはく色の、透明な液体が、白磁のカップに注いである。
ひき肉と卵白と香味野菜を混ぜた中にブイヨンを入れて煮込んでいたのは、これか。上澄みだけを漉して、最後に油分を全部吸い取るんですよと、目の細かいざるに布を敷きながら、話していた。
「いただこう」
オスカーの母親が、病気の長子のために一度だけ作った料理。
木製のスプーンで掬ったそれは、優しくクラヴィスの唇を濡らした。口に、含む。舌先から奥へと、味わいが広がる。
「……美味いな」
少なからぬ驚きが、知らず、声の中に含まれた。コンソメスープならば、何度も食べたことがある。が、料理は得意ではないと断言したこの男が作ったスープは、予想したよりもずっと、深い味わいを持っていた。
「ありがとうございます」
オスカーは小さく肩を竦め、軽く頭を下げた。
「先ほど闇の館の執事から連絡がありまして、これから奥さんと娘さんが、様子を見にいらっしゃるそうです。なので俺はそろそろ、失礼させていただこうと思います。また、驚かせても申し訳ありませんし」
「……そうか」
盆に乗せてあったガラスの器を取り上げ、クラヴィスに手渡す。
「エルダーフラワーとローズヒップス、それにジンジャーが入ってます。少しぴりっとしますが、明日までには、残っている熱をさましてくれると思います」
クラヴィスは無言で受け取り、淡い色の茶水を飲んだ。熱すぎず、ぬるくなく、喉に通りやすい。
「悪くはない」
「リュミエールに言って下さい。喜びますよ」
空いたカップを受け取ると、オスカーは朝やったのと同じように、彼の寝衣の上からタオルを巻き、服を脱がせにかかった。
「執事もシェフも回復していて、明日には来られるそうです。良かったですね」
「そうか……」
「俺は明日は外界に出なきゃいけないんで、うちの者に様子を見にこさせるかと、考えていたんですけどね」
「お前は……女にだけまめなのかと思っていたが……意外とお節介なのだな」
されるがままに着せ替え人形になりながら、彼はむっつりと言う。
「お節介というか、俺の部族では子どもは子ども同士で面倒を見合うのが当たり前で、俺は部族長の長子だったおかげで、四歳のときからおむつ替えやら子守やらをやらされましたし、病人が出ればまず俺が世話に回ってましたから、きっとその影響でしょうね。相手が病人だと、どうも、完全にモードが切り替わるようです」
「四歳、からとは」
「十二歳で部族の軍に配属されるまで、ずっとそうでしたよ。意外でしょう?」
「……そうだな」
「染みついた経験というのはなかなか離れていってくれないらしくて、酔っぱらいや病人相手だと、女性を口説けないんですよ。この俺が。看病しかできない」
くすくすと、オスカーは笑った。
「ほう」
かすかに驚きの表情を、クラヴィスは見せる。いや、だからこそ、あんなにも女性が群がるのか。見てくれや甘い言葉にではなく、本能的に、本質の優しさを感じ取って。
オスカーは彼の身体の汗を軽く拭き取ると、新しい綿の寝衣に交換して、するりとバスタオルを外した。これも、その経験で培ったものだろうか。
「はい、できあがりです」
クラヴィスはまじまじと、己の姿を見下ろした。真新しい綿の寝衣は、とても気持ちがよい。
「手洗いに行かれますか?」
「……いや。今はいい」
「では、お休みになってください。病気のときは、大人しく眠るのが一番の薬です」
オスカーは彼を軽く抱くようにしながら、ゆっくりとベッドに横にならせた。
「……ここの掃除も、お前がやったのだったな」
改めて周囲を見直して、クラヴィスは呟く。今朝方のやりとりを、思い出したのだ。掃除をするから部屋を変われと。
オスカーは彼の呟きに、ぴくりと反応した。
「ああ、そうだ。一つ申し上げますが、いくら暗いのがお好きでも、風邪で億劫であっても、一日に一度は、窓を全開して中の空気を入れ替えてください。それから、掃除もそれなりにはして下さい」
少し語気を強くして、言い募る。
「今朝、あまりにも空気が澱んでいて、呆然としました。あれじゃあ、風邪の菌を培養しているようなもので、治るものだって治りません。どうせ、執事やメイドが窓を開けようとしたのも、部屋の掃除をしようとしたのも、クラヴィス様が嫌がって止められたのでしょう。そのせいで、風邪が長々と治らなかったんですよ。今後は一瞬でも構いませんから、日に一度、太陽と風を通すのを我慢してください。それから、面倒でもたまには部屋を移動して、寝室の掃除をさせてあげてください。いいですね」
ぴっと、人差し指を彼の鼻先につきつけた。クラヴィスはむっと眉根を寄せ、あからさまに嫌そうな顔を見せる。が。
「……善処しよう」
長いにらみ合いの末に、ため息と共に答えた。オスカーがにこっと、邪気のない笑みを見せる。
「けっこう。では、ご褒美です」
そうしてそのまま身を屈めてゆき、クラヴィスの額に、唇を軽く、乗せる。
「明日の朝には、元気になっていますように」
低く、柔らかく、囁かれる呪文の言葉。クラヴィスはベッドに仰向けになったまま、息を詰め切れ長の目を丸くした。
オスカーはそんな彼に気づかないのか、するりと身を起こして、うん、と一つ頷く。
「これで、風邪は退散するはずです。俺のは効くんですよ。明後日はぜひ、聖殿で元気な姿を見せて下さい」
上掛けをクラヴィスの肩の位置まで丁寧に引き上げ、彼は盆を手に身を返した。
「それでは、俺はこれを片づけたら、失礼させていただきます。後でもう一度ご挨拶に伺いますが、眠っておいででしたらそのまま鍵をかけて帰りますので、お気遣いなく」
一度振り返ってそう告げ、寝室の扉を閉じる。クラヴィスはその間終始無言だったが、足音が完全に聞こえなくなると、そろそろと手を上掛けから引き出して、額に当てた。そして。
ごく柔らかい笑みを、唇の端に浮かべた。