エピローグ
炎の守護聖が外界視察から戻ったのは、月の曜日のお昼前だった。まず女王への報告をすませ、通路で会ったリュミエールの体調を確認し、クラヴィスの復帰を聞き、彼がジュリアスの執務室へ行くというので報告書を預けた。それから執務室に入って、待ち構えていた秘書官にマントを預け決済用の書類を受け取って、ようやくデスクに腰をおろしたのだが。
足早に、それもかなり興奮して近づいてくる足音が、あるのに気づいた。それも一つではなく、二つ。
「どうかなさいましたか?」
オスカーの様子に気づいた秘書官が、コーヒーをデスクに置きながら、気遣わしげに尋ねる。
「ジュリアス様? それと、リュミエールか?」
コーヒーを手に取り口をつけつつ、オスカーは扉に視線を据えた。間違いない。真っ直ぐに、こちらに向かっている。
「……なんだ?」
そう呟いて、手にしたカップを机においたそのとき。
ばん! と。力一杯扉が押し開かれた。予想通り、首座の守護聖が、そのすぐ後ろから水の守護聖が中に入ってくる。が。
常に冷静で落ち着いて、氷のようなとも評される端正な面差しをしたジュリアスも、穏やかで優しさに満ちた、柔らかな顔立ちを誰にでも向けるリュミエールも、およそ普段の彼らからは想像もできないほどの、凄まじい形相をしていた。
オスカーは唖然として、身を起こす。俺は何をやった?
「オスカー!」
「は、はい」
「オスカー! そなたっそなたは……っ」
「オスカーっ、あなたと言う人は!」
二人はほとんど同時に、悲鳴のような叫び声を上げて、彼に迫った。
「報告書に、何か大きな不備でも?」
「クラヴィスに接吻をしたというのは、事実か!」
「クラヴィス様をキスしたというのは、本当なのですかっ!」
「……は?」
オスカーは目を点にして、目の前の、怒りとも憤りとも苛立ちとも嫉妬ともつかない、ぐちゃぐちゃな表情をした二人を、見入った。今、何と言った?
「いったい、何の話を……」
「ごまかすでない! したならしたと、正直に申せ!」
「何、わけがわからないような顔をしているのですか! 土の曜日に、あなたはクラヴィス様に、キスを仕掛けたのでしょうが!!」
「俺が……クラヴィス様に? どう……っ!」
はっと、気づいた。あれか、と思い、口元を手のひらで覆う。それに、リュミエールがぴくりと反応した。
「身に覚えがやはり、あるのですね! オスカー。あなたという人は、なんて酷い、最低な……っ」
「ちょっと待て、リュミエール。あれはキスじゃないぞ」
「言い訳は聞かぬぞオスカー。そなたはクラヴィスに接吻を、したのであろう。したからこそ、あの者はそう言ったのだ」
説明をしようとする横から、ジュリアスが低く唸るような声で、迫る。ああもう、人の話を聞け。
「いやですからジュリアス様、あれはキスじゃなくてただの……」
「『ただの』とは何です! 『ただの』とは! クラヴィス様にキスしたことが、あなたにとってはただのお遊びだと言うのですか!」
今度は、リュミエールがぐいっと彼の腕を引き、息がかかるほどの位置までオスカーを引き寄せて、責めた。ぷつりと、オスカーの中で何かが切れる。
「だからっ、あれはキスなんかじゃないと、言ってるだろうが! ただの病気避けのおまじないだ!!」
腕を振り払い、ほとんど怒鳴るような声で、言い放った。
さすがに耳に届いたのだろう、ジュリアスもリュミエールも、身を固めてオスカーを見直す。オスカーははあ、と深くため息をついてから、今度は声の調子を落として、低くゆっくりと、話した。
「確かに、キスはしました。帰る直前に、クラヴィス様の額に。俺の家に伝わる“病避け”のおまじないで、額に口づけて、『明日までに良くなっていますように』と唱えると、次の日には病気が治ると言われてたからです。それに何か、問題があったのでしょうか」
「その……では、そなたはクラヴィスに接吻したわけでは、ないと」
「していません。少なくともジュリアス様が誤解しておられるような意味では、一切、していません」
「まことに?」
「本当ですか? オスカー」
まだ、今ひとつ納得していない、信じてはいないという顔を、二人はしていた。
「適当なことを言って、私たちを煙に巻こうとしているのでは、ありませんか? クラヴィス様ははっきりと、オスカーにキスされたと、おっしゃったんですよ。それにあなたは……」
リュミエールはそこで言葉を切り、少し、恨めしげに彼を睨み上げた。オスカーは不審げに、見返す。
「俺が、何だよ」
「私には……して下さりませんでした。おまじないは」
頭痛がしてきた。額を抑えて、彼は唸る。
「あのなあ……」
道ばたで動けなくなっているのを館まで連れ帰ってやって、出張前日に予定を全部キャンセルして頼み事を聞いてやって、何でその挙げ句に、こんな下らない恨み言を聞かなきゃいけないんだよ。
「おまじないと言って、クラヴィス様にはキスを、なさったのでしょう。あなたは」
オスカーの中で再び、ぷつりと何かが切れる。
「わかった。じゃあ、証明してやるから、ついてこい」
彼はリュミエールにそう言うと、二人の間をすり抜けて、執務室の外へと向かった。
「オスカー?」
「オスカー、待って……っ」
名を呼ぶ声が背後から聞こえたが、無視してまっすぐに、通路を左へ、闇の守護聖の執務室へと向かって進む。
「クラヴィス様」
ノックの音と同時に、返事を待たずに彼は、扉を開いた。
「……お前か」
クラヴィスは水晶球をおいた執務室の机に、頬杖をつき自堕落な格好で座って、オスカーを見上げる。
「お前か、ではありません! いったいジュリアス様とリュミエールに、何をおっしゃったのですか!」
オスカーは憤りを顕わに執務用机の前まで来ると、ばん、と、机を平手で叩いた。
「何を……とは? 私はただ、リュミエールに問われて、土の曜日にあったことを話していただけだ。お前が見舞いにきたこと、掃除と洗濯と食事の支度をしていったこと、帰る前に、お前が私にキスをしたということ」
「誰がキスをしましたか! キスなんて、してないでしょうが!」
「していない? あれはキスとは言わないのか?」
怒鳴るオスカーに無感動な目を向け、クラヴィスは逆に尋ねる。
「額にキスなんて、キスのうちに入りません! だいたいあれは、おまじないだと言ったじゃありませんか!!」
「キスのうちに、入らない……そうなのか?」
「当たり前でしょうが!」
「……そうか」
クラヴィスはふう、と息を吐いた。
「あなたが変な風におっしゃるから、ジュリアス様とリュミエールに、俺があなたを襲ったかのように責められているんですよ、俺は」
「ふむ……なるほど」
「『なるほど』じゃありません! どうにかしてください!! 二人とも俺の言うことなんて、全然聞かないんですから」
「……キスでは、ない」
オスカーの話を、聞いているのかいないのか。彼は一人頷いて立ち上がり、執務机を回ってオスカーの前に立った。
「あれではキスではなく、私が嘘をついたことになるのなら……」
手を差しのばして、彼の顎を捕らえ軽く持ち上げる。
「クラヴィス様?」
「オスカー!」
「オスカー、クラヴィス様」
勢いよく扉が開き、ジュリアスとリュミエールとが、姿を見せた。
「こうすれば、嘘でなくなるな」
はっと、オスカーが思った時には、クラヴィスの腕に首元を掴まれ引き寄せられ、唇が重なっていた。
「……っぅ……!」
一瞬、頭の中が真っ白になる。重なった唇から、自分のものではない熱が、伝わってきた。身を離そうとするのをがっちりと押さえつけられ、舌が、歯列を割って絡みついてくる。深い、キス。舌を、口腔を嬲られる。
「……ん、く……」
くらり、と。足元から崩れそうになるのに気づいた。やばい。
オスカーは両手でクラヴィスの肩を掴み、力一杯引き剥がした。
「何を、なさるんですか!」
顔が、赤くなっているのがわかった。息が乱れ、鼓動が激しく脳裏で響く。どうしようもない。
オスカーに突き放されたクラヴィスは、今し方味わったものを確かめるかのように、舌先で唇を舐め、長い指で撫でた。
「何、と、問うのか? キスを、したのであろう? 本物の。お前が、あれは違うのだと言うから。まあ、『お前が』ではなく『私から』だが」
「あ……あ、あなたは……」
「これで少なくとも、“キスをした”に関しては、嘘ではなくなる。なあ、ジュリアス、リュミエール。見ていただろう?」
アメジストの瞳が、扉のすぐ手前で硬直しているジュリアスとリュミエールとを、順に眺めやった。二人とも、目の前で起きたことが信じられずに、完全に茫然自失となっている。
「あなたという人は……っ」
「お前は、自分からするのは慣れているようだが、されるのには慣れていないのだな」
くっくっくっと、クラヴィスは喉の奥で笑った。オスカーの顔に、朱が走る。
「あっ当たり前です! ヤローにキスされるのに、俺が慣れているわけがないでしょうが!」
「そうか。では、慣れるまで続けてみるか?」
何でもないことのように言い、オスカーの顎に、再び手を添えた。
その瞬間。
オスカーの右手が、クラヴィスの左の頬を完璧に捕らえていた。
「アホか!! ボケっ」
執務室中に響く声で怒鳴りつけ、彼は床に倒れた相手を見もせず、そばにいる二人の守護聖にも一瞥もくれず、踵を返す。リュミエールの悲鳴もジュリアスの呼び止める声も聞かずに、執務室を出た。ぐいっと口元を手で拭い、唇を噛む。ああ、くそっ! 何なんだよいったい。俺が何をしたって言うんだっ。舌を、つっこみやがってあの野郎!
もう金輪際、クラヴィスが病気になってもケガをしても見舞いになど行くものかと、オスカーは固くかたく、決意した。
闇の執務室で、真っ青になったリュミエールに助け起こされたクラヴィスが、殴られた頬を愛おしむようにさすりながら、くすくすと、実に楽しげに笑ったことを、彼は知らない。
しあんさまが運営されているサイト「Falsche Spiegeleier」のキリバンニアピン賞を頂きました。リクエストのお題は「オスカー料理を作る」です。
踏んだのは1つ前のカウンターだったのですが、あつかましくもそれを報告すると、なんとリクエストを受け付けて下さったのでした。ありがとうございます!!
こんな立派な小説を書いて頂き、なんとお礼を言っていいのやら、喜びのあまり頭が少々混乱しております。(>▽<)
しあんさまの卓越した表現力は、それぞれのキャラがまるで目の前で動いているかのような錯覚を読み手に与えてくれます。
そして、なによりもかっこいいオスカーさまに“萌え”ます。わたしの理想のオスカー像と言っても過言ではありません♪ d(^_^)b
しあんさま、素敵なお話を本当にありがとうございました。彼らの呼吸が聞こえてくるようでしたよ〜〜v