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と、いうことで。
炎の館で朝食を摂ってから、シェフに頼んで回してもらった食材と、シェフからの心遣い、メイドが気を回して作ってくれたかすみ草と匂いスミレのアレンジメント、確か好んでいると聞いた記憶がある銘柄の茶色の瓶を一本を、リュミエールの執ね……もとい、心のこもった“お見舞いかご”と一緒に、炎の守護聖は闇の館へ向かったのだが。
「……なんなんだ、この部屋は」
ノックに応答がないままクラヴィスの私室のドアを開けた瞬間、オスカーは速効回れ右をしたくなった。
「これじゃ、治るものだって治らんだろう……」
目の前の状況に、あのばかリュミエールはいったい、毎日ここに来て何をしていたのかと、問いつめてやりたい。使用人に関しては、通ってきた玄関、廊下に階段の、綺麗に磨き上げられた状況から、ここは主人の命令でどうにもできなかったのがうかがい知れるが、あいつはそうじゃないだろう。
がっちりと閉じているらしい窓、厚く閉め切ったカーテン。キノコの一つや二つは生えていそうな湿ったあたたかさ、人の汗の臭いとほこりっぽさ、ついでに微妙なかび臭さも入り交じって、見事なまでに空気は澱んでいた。絨毯、机の上、書棚、奥に置かれたベッドまで、薄く積もった埃の様子が、全部見て取れる。ベッドの脇に置かれた水差しとコップ以外は、食器類や飲食の跡が残っていないのが、せめてもの幸いだった。きっと、それだけはリュミエールが片づけていったのだろう。しかし。
こんなところで何日も、何で平気でいられるんだ?
オスカーはゆっくりと息を吐き、息を吸ってを、五度ばかり繰り返した。できればかごだけをおいて、引き返したい。
言っては何だが、彼は闇の守護聖とはあまり仲はよろしくなかった。というか、仲が良い悪いと判断できるほどの接点さえないと言った方が、正しいか。招聘された当初は、これでもそれなりに近づこうと努力はしたのだが、如何せん相手が「うん」と「すん」くらいしか返してこない人物――それも希に――だったので、それ以上を望む気持ちにはなれなかったのだ。世の中には、どうやっても合わない人間はいるものだし、そういう相手に仲良くしてくださいと言っても無駄なことも知っているし、オスカーは必要な努力はするが、無駄な努力はしない質だった。
一度、長くため息をついた。それから真紅に近い色の前髪をぐいっと掻き上げて、ああくそっ、と、吐き捨てる。約束は約束だ。それに、今この館にいるのは寝込んでいる病人だけで、動ける人間はいない。
軽く通路を見渡して、リュミエールから聞いた客用寝室のドアを確認してから、オスカーはドアをノックし直し、部屋の主人に呼びかけた。
「クラヴィス様?」
眠っているのだろう、返事はない。どうやら、中に入るしかないらしい。
「……クラヴィス様? オスカーです。失礼いたします」
自分の性格を少しばかり恨めしく思いつつ、づかづかと奥のベッドへと近づき、足を止めた。薄闇の中で、少し目を細めて枕元に視線を落とす。
クイーンサイズのベッドに沈むように、クラヴィスは眠っていた。
顔色は、元々日の下を好まない方なので青白い感じだが、今は目の下が少しくまになり、いささか頬がこけてやつれた様相に見えた。何日も病床に、それもこんな“病原菌培養所”のような状態の部屋にいるのでは、やつれるなと言う方がおかしいが。
鼻がつまり気味なのだろう、口を開き気味にして呼吸を行っていた。これでは喉にも、影響が出ているだろう。
オスカーは手を伸ばして額から頬、耳の下へと手のひらを滑らせていった。熱は、そう高くはないが、まだ残っている。ちょうど、治りかけの状態か。シルクの寝衣は少し湿っぽくなっていて、昨夜のうちにそれなりに彼が汗をかいたことを示していた。心の中で一言、熱があるときにシルクなんて着てるんじゃない、と、呟く。
容態を把握して一度部屋を出ると、真っ直ぐに、目星をつけておいた客用寝室へ入った。思った通り、綺麗に整えてある。昨日から使用人は休んでいるという話だったので、最後に掃除をしたのは一昨日なのだろうが、ほとんど埃はなく、ただ閉め切った窓と厚いカーテンのせいで、少しばかり湿っぽい雰囲気があるだけだった。
部屋の中程にあるテーブルに抱えてきた荷物をおいて、彼は濃紺のカーテンを開き、窓を全開にする。聖地の温かで柔らかい日差しが、一気に闇の館を覆う空気を引き裂いた。
四つある出窓を全部開ききり、風を通す。室内の少し湿った空気が、庭に咲く小花の清涼な香を運び込む風によって、一蹴された。
彼は満足げに頷くと、ベッドカバーを外し、上掛けの毛布を包んだ真っ白なシーツを、片側だけ引き出した。そこで一旦部屋を出ると、リネン室に立ち寄ってからクラヴィスの私室に戻り、今度は遠慮なくベッド際へと歩み寄る。
「クラヴィス様」
先よりも少し大きな声で数度呼びかけを繰り返すと、それまでぴくりとも動かなかったクラヴィスのまつげが、震えた。
「……む……」
「おはようございます、クラヴィス様」
数度、けいれんさせるようにまぶたを揺らして、アメジストの瞳が、開く。
「……まえ……?」
「オスカーです。今朝方、リュミエールに代理を頼まれまして。私ではかえって御迷惑かとも思いましたが、見舞いに伺わせていただきました」
まだ覚醒しきっていないのだろう、彼はオスカーの言葉に、不思議そうにまばたきを繰り返すだけだった。
「早速ですが、この部屋を掃除させていただきたいので、部屋の移動をお願いします」
オスカーは彼が反応していないのを気にも留めずに「失礼します」と一言いうと、いかにも病人を相手にしているとわかる、ゆっくりとした優しい動きでクラヴィスの肩と腰に腕を回し、そっと、ベッド脇に座らせる体勢にさせた。次いで、リネン室から持ってきた大判のバスタオルで彼の上体をくるみ、合わせ目から手を差し入れてぱぱっと寝衣の前ボタンを外してゆく。
柔らかな動きとは言え、されていることがことだけに、さすがに闇の守護聖も完全に目が覚めたようだ。
「……何を、している」
「汗をかいていらっしゃるので、着替えていただこうと思いまして」
オスカーは眉根を寄せて睨むクラヴィスにさらりと答え、彼の着ていた寝衣を腰まで落とし、バスタオルで軽く叩くように身体を拭いていった。
「こ……な……っ」
「ああ、動かないでくださいますか。今、新しい寝衣を用意しますから」
腕をクラヴィスの腰に回して軽くベッドから浮かせて、寝衣を床へと落とす。そうして、やはりリネン室から失敬してきた木綿の寝衣を、彼の頭からかぶせて、タオルの内側へと引っ張っていった。憮然としたように見えるクラヴィスの顔に、もう少しですからと、オスカーは淡々と寝衣のボタンをはめてゆく。それが終わるとバスタオルを外して、終わりましたと告げた。
「……どういう……つもりだ……?」
無理矢理覚醒させられた不機嫌を、クラヴィスはもろに顔に出した。少し掠れ気味の声音に、やはり喉が荒れているのだなと、オスカーは思う。
彼はもう一度、リュミエールに頼まれて看病に来たこと、一度部屋を移動してほしい由を告げた。
「客用寝室まで、お連れします」
クラヴィスの「いらぬ」の言葉に、そういうわけにはいけません、と、緩くかぶりを振る。
「一度風を通して掃除をしないと、この部屋では治るものも治りません。クラヴィス様はすでに五日間伏しておいでだそうですし、リュミエールも、今日はまだ熱こそ出ていませんでしたが、すでに鼻と喉にきていました。勝手をして申し訳ないとは思うのですが、どうかご了解下さい」
目上の守護聖の形のよい眉の間に、深くしわが刻まれた。
「お前には……関係、ない……」
「そんなことはありません。クラヴィス様が参内なさらないとなると、相応に仕事の割り振りが増えますし、事務も滞って皆が困ります。リュミエールが共倒れになっては、なおさら大変です。あいつの場合、よほど酷くない限りは休みませんから、聖殿に病原菌をまき散らす可能性もあります」
オスカーはそんな彼の様子は見ないふりをして、語りかける。
「肩を借りるのと背中におぶさるのと肩に担がれるのと腕に抱きかかえられるのでは、どれがよろしいですか? お好みのままにいたしますが」
クラヴィスはいっそう眉間のしわを深くして、押し出すように返事を口にした。
「……自分で歩く」
「では、お手を」
オスカーは立ち上がろうとする彼の、NOの意思を顕わにした顔と身じろぎとをさっくりと無視して、クラヴィスの左手首を掴み、腰に腕を回して立たせた。
* *
闇の館に到着してから一時間弱、病人の部屋移動に成功し、客用寝室で朝食を摂ってもらい、あからさまに不機嫌だったのをいいことに、その間にシルク以外の汚れ物を洗濯乾燥機に放り込んで対応を任せ、問題の寝室の掃除をさくさくとこなした。食後にはカモミールをベースに、エキナセアとマロウとヒソップを適当に調合したハーブティも飲んでもらい、使用した食器も洗い終わったとなると、次は、昼食と夕食の準備である。
まだ少し熱っぽかったクラヴィスに、ちゃんと伝わったかどうかはおいておくとして、台所を借りることを一応告げ、できるだけ眠るよう言い置いて、オスカーは闇の館の一階にあるキッチンに移動していた。
他人の家の台所というのは、なかなか使うのに勇気がいるな……
そんなことを頭の中では思いながら、実際には遠慮の欠片もなく、何よりもまず氷を作るために製氷器に水を入れ、それからほとんど家捜し状態で調理用具類を準備し、在庫の食材を確認して微妙な熟れ具合のものだけ持ち出した上で、自身の館のシェフに回してもらった食材を、ごそごそと取り出してゆく。
セロリ、タマネギ、にんじん。香草としてクローブ、ローリエ、粒のコショウとタイム。ジャガイモとポロネギとチャービル類の出番は後なので脇におき、牛ひき肉と卵と生クリームと牛乳と果物は、冷蔵庫へ移動。ついでに、食器棚で見つけたダブルグラスにも、冷蔵庫に入ってもらった。
こちらは別枠になるが、ドライフルーツが数種類と板ゼラチン、シナモン棒と、チコリの根をから煎りにしたものを入れた瓶。
最後に、骨付きの牛すね肉の大きな塊を手に、彼は調理台に向き直った。
炎の館のシェフから朝食にと預かってきたのは、食パンと野菜入りの蒸しケーキが二種、ナツメグを加えたライスプディング。
クラヴィスが実際に食べたのは、ライスプディングを7割ほど、塩分を摂らないとやばいだろうと考えたオスカーが、ミキサーがあったので作ってみたバター茶もどきをカップに半分、それにリュミエールから預かったライチが5粒だった。食欲は、今ひとつといった印象だ。
加えて、パンはともかく蒸しケーキにもまったく手を出さなかったということは、現状ではのど越しが滑らかではないものは、全く口がほしがらないということだろう。まあ、これから準備するものは大丈夫なはずだ。
自分が失敗さえしなければ、の話だが。
「さて……と。やるか」
軽く肩と首を回してから、オスカーは昔ルヴァに教えてもらって購入した、某辺境星系内第三惑星の極東の国の“出刃包丁”という名のナイフを掴んで、すね肉を景気よく三つに切り分けた。牛刀よりも刃に厚みがあって重く、非常にしっかりしているので、大型の魚や肉の骨を割るのにとても重宝している。今回の肉も骨付きなので当然骨の部分は叩き割ることになり、なかなか結構な音が、広いキッチンに鳴り響いた。
軽く水洗いをしてから、円筒型の深鍋にひょいひょいとそれをつっこみ、上から水を八分目くらいまで注いで、ふたはせずに火にかける。強火に調整すると、水の沸き加減を視界の隅に入れつつ、セロリとタマネギとにんじんを大ぶりに切った。クローブはタマネギに刺して、他のハーブはひとまとめにたこ糸で括る。
「こんなもんかな」
流し台に備え付けの引き出しから見つけたレードルを目の前でぶらぶらさせ、呟いた。これから先にはけっこう長い、灰汁との戦いがある。
オスカーがブイヨンの材料として鶏ガラではなくこの骨付き肉をと言った時、炎の館のシェフは少しばかり驚いたように目を見開いた。それだと倍以上時間と手間がかかりますがとの言葉に、想い出があるんだと答えると、彼はぽかんと目を丸くしてから、しまったかもとオスカーが後悔するくらい柔らかく微笑んで、「わかりました」と頷いた。そして、「できれば私どもにも多少のご相伴を、お願いしたいのですが?」と、付け加えられた。
なので、なおさら失敗はできない。
沸騰する前にと、食器棚横のワゴンに乗っているドリッパーをテーブルに準備して、ワゴンの引き出しから引っ張り出しておいたフィルターを一枚抜き取り、設置する。その横においたチコリの瓶の蓋を開けて、香りを一度確認し、再び蓋を閉じた。ついでに板ゼラチンを、水に漬ける。リュミエールのハーブを多少は茶にする以外で有効利用してやろうと、準備してきたものだった。
「前準備は、ここまでだな……っと」
ちょうど、鍋の湯が沸騰を始めていた。オスカーは調理台前に戻り、少しだけ火を弱めて、白いあぶくのような灰汁が寄り集まって固まりを作るのを、じっと見つめる。
灰汁が鍋の中で大きな固まりを作ったのを確認したところで、レードルでそうっと水面上をなで、灰汁をすくい取った。すぐに、脇の水を張ったボウルで、レードルの汚れを落とす。幾度か同じ作業を繰り返し、あぶくの固まりがほとんどなくなったのを見計らって、弱火に落とし、野菜と香草とを鍋の中に静かに入れた。
ゆるゆると湯の対流を繰り返す鍋を見つめ、沸いてきた灰汁をすくい、捨てるをただ続ける。
思い起こすのは、このようにあらゆるものが揃ったキッチンの中での作業ではないけれど。
初めて口にしたときの驚きは、この単調な作業をする背中の記憶と共にある。
オスカーはおそらく聖地では誰も目にしたことがないだろう、どこか切なさを含んだ柔らかい表情を、遠いまなざしと共に一瞬だけ浮かべた。
のんびりと灰汁取りの作業を繰り返しつつ、湯を沸かして、鍋にぶちこんだハイビスカスとローズヒップの上から注ぎ、蓋をする。次いで、何種類か混ざっているミントを、こちらもがばっと小鍋につっこみ、レモングラスを五本ほど乗せ、上から熱湯を注いで蓋をした。ちらりと一度時計を確認してから、ボウルを三つ持ち出してきて、中の一個に氷水を作り、茶こしを準備する。ブイヨンから浮いてきた灰汁をすくって流して、ちょうど三分後。別々の鍋に出来上がったハーブティーを、彼はそれぞれ漉してボウルに入れ、ふやかしたゼラチン液を加えて泡立て器で丁寧に混ぜ合わせた。これで、二種類のゼリーができる。
片方はハイビスカスの色を鮮やかに映しだした赤、もう片方はごくごく淡い黄緑色で、今のところ、綺麗なコントラストを為していた。
各々にグラニュー糖を足して混ぜ、二度漉しをして、先に赤いゼリー液のボウルを氷水の上に乗せる。それからコンロに戻り、浮いてきた灰汁を掬ってすてた。
「後……は」
五秒ほど手順を脳内でシミュレートしてから、オスカーは朝食で手つかずだった食パンを、軽くトーストしてバターを塗り一口大に切り分け、これまたバターを塗った小型のグラタン皿に並べた。次いで、空いたボウルに卵を割り入れ、こんなもんかなと適当に砂糖を加え、泡立て器でよくよく混ぜてから、ミルクを少しずつ足していく。バニラビーンズをこそげて入れるかと一瞬考えたが、どうせならと、先ほど戸棚の奥に見つけたアイリッシュウイスキーを、傍目には多すぎるくらいに注いだ。独特の香りが鼻腔をくすぐり、オスカーは楽しそうに唇を持ち上げる。ラム酒を使ったこともブランデーでやったこともあるが、ウイスキーを入れるのははじめてだった。果たしてどんな味に仕上がるやら。
まあ、バターケーキにはよく使うものだし、お好きだと聞いているから大丈夫だろう。
などと、かなりいい加減な根拠を言い訳にしながら、パンを並べたグラタン皿にレーズンとカシスを散らし、パンにしみこませるようにゆっくりとソースを注ぎ入れた。オーブンを160℃に予熱するようセットして、あら熱の取れた赤いゼリー液を氷水から外し、今度はミントゼリー液のボウルを氷を継ぎ足したボウルに同じように乗せてから、マラスキーノ酒を少々と、半分に切ったレモンの汁を、赤いゼリー液に足す。軽く混ぜてそのまま、ボウルごと冷蔵庫へ入れた。
それを待っていたかのように、余熱完了のブザーが鳴る。プディング用のパンはソースを十分に吸い込んで、いつ焼きはじめてもオッケーの状態になっていた。
焼き時間四十分に合わせ、天板に乗せたグラタン皿を中へ入れて、スタート。オーブンが正常に働いているのを確認してから、ミントゼリー液の温度を確認し、こちらはコアントローとレモン汁を、先と同じように注いで混ぜて、冷蔵庫へと移動させた。
思い出したようにレードルで牛すね肉から出る灰汁を除き、下ごしらえのラストとして、ジャガイモの皮をむきイチョウに切って水にさらす。
それからもう一度、火にかけっぱなしの鍋のところに戻り、また灰汁を取る。出てくる灰汁の量はかなり、少なくなってきていた。
「そろそろ、いいかな」
ゆるやかに沸き立つ湯の様子をしばらく眺めていた彼は、シェフから預かってきた円形のシートを一枚取り出し、鍋の水面にそっと落とした。放っておいても灰汁を相応に吸いとってくれるという、たいそうな優れものだという話だ。
これで、クラヴィスの様子を見に行くくらいの時間は、場を離れられる。彼を客用寝室で寝かせてから、三時間弱がすぎていた。
ガス台の火を一度確かめオーブンの様子も覗き込んでから、キッチンを出て二階へと登る。普段よりもいっそう早足で大股なのは、火を使っている場を空にするからだ。
ドアを、ノックせずに開く。そして音を立てずにドアを閉じ、クラヴィスの眠るベッドの傍まで、気配を消して歩み寄った。
新しく用意しておいた水差しの中身の量が変わっていないのを確認してから、眠っている彼の顔を、覗き込む。朝よりも少し顔色は良くなっているような、気がした。といっても、朝一は窓を閉め切って空気も澱んでいた場所で見たものなので、比べていいものかどうかは、微妙だが。
少なくとも、呼吸は朝よりは楽になっていた。鼻は通っているようだし、喉の荒れた音も、今は聞こえない。寝室を変えて環境が良くなったのと、リュミエールの怨念……ではなく、薬草の力だろう、多分。
手を伸ばして、額に触れた。そこからゆっくりと、耳の下の部分へと滑らせてゆく。自分なら微熱レベルだが、クラヴィス様にとってはどうだろうかと思った。何となく、平熱が低い方だというイメージがある。
「……む……」
汗の具合を確認しようと襟元に手のひらを移動させた瞬間、クラヴィスが眉を寄せ、身じろぎをした。オスカーはぱっと、手を離す。起こしてしまったか?
一瞬ひやっとしたが、ベッドの住人はもぞりと寝返りを打つと、そのまままた、深い寝息を立てはじめた。ほっと安堵の息を漏らして、オスカーは身を起こす。
寝返りを打ったことでずれてしまった上掛けを掛け直してから、彼は寝室を出た。
「プディングが出来上がったら、一度起こした方がいいか? まあ、あれは冷やしてから食べるって手もあるし、身体が眠りたがっている間は寝かせておく方が、本来はいいんだが」
独り言で、この後の段取りをあれこれ考えながら、再びキッチンへと向かう。そろそろ、メインのための材料は出来上がっている頃だった。戻ったらまず灰汁を確認して、ジャガイモの水を切ってポロネギを……
ふっと、オスカーは立ち止まった。思考を立ちきり、全身を緊張させる。
気のせいかと思ったが、間違いない。
誰かが、この館の敷地内に入り込んできていた。ああ、あそこだ。ずいぶんと、正攻法な。
くすりと唇を吊り上げ、気配を探りながら、キッチンを通り過ぎて裏口へと向かい。
「闇の館に何用かな?」
裏口の鍵が開けられる前に扉を開いて、彼は前のめりに倒れ込んできた人物を、捕らえた。