Spell




プロローグ



 事は土の曜日の、朝まだ早い時刻に炎の守護聖が遠乗りの丘から帰る途中で、道の隅でうずくまって動けなくなっている水の守護聖を見つけたことに、始まる。


 水の館の前で鹿毛から降り、馬の背に乗せていた館の主を、オスカーは手を差し伸べて支えながら、降ろしてやる。
「ほら、着いたぞ。大丈夫かリュミエール」
「ああ……すみませんオスカー。すっかり、御迷惑をおかけしてしまって」
 鼻をぐずぐず言わせて、幾分枯れた声を押し出して、リュミエールはくたりと彼に寄りかかりながら、手に持った籐のかごを大切そうに抱え込んだ。上からナプキンが被せてあるので中身は見えないが、小さな丸いものが、山盛りになっているのはわかる。
「迷惑はいいから、今日はもう大人しく寝ろ。ったく、風邪をひいた身体で、ふらふら出歩いてるんじゃない」
 オスカーは幾分強い口調でたしなめ、門戸に取り付けられたインターホンを鳴らす。すぐさま館のメイドが応答し、彼は殊更丁寧な甘い口調で、リュミエールが道の途中で具合を悪くしているのを連れ帰った由、伝えた。
 館の者たちも、具合のよくなさそうな主人のことを、心配していたのだろう。「まあっ、やっぱり……っ」と、小さく叫ぶ声が聞こえ、「すぐに参ります」と、少し焦ったような返答が、かえってきた。このぶんだと、あまり間をおかずに、出迎えがあるだろう。
「オスカー……」
 肩にすがるようにつかまっているリュミエールが、くっと、彼の二の腕を掴んだ。
「こら。部屋まで連れて行ってやるから、体重を預けてろ」
「いえ……それは、いいのです。執事と、それに、警備の者が、来てくれますから。それよりも……あの……あなたは、今日の……予定は?」
 潤んだ瞳が、切なげに見上げてくる。オスカーは訝しげに眉をひそめた。
「このあと一度館に帰って朝食を摂り、今日は一日、馬の調教につきあうつもりだが」
「そ……れは、変更……できますで、しょうか」
「そりゃまあ、普段は厩務員と調教師に完全に任せているんだから、できないことはない」
「あの……でしたら……お願いが、一つ、あるのですが」
 リュミエールは彼の腕を掴んだ手に、力を入れる。思いの外強い力に、オスカーは軽く眉をひそめた。
「なんだ? 後で見舞いに来いとでも?」
「ええ……いえ。わ……たしではなく、クラヴィス……さまを」
「クラヴィスさま? 何でいきなりあの人なんだ」
 唐突に飛び出した名前に驚いて、声が少し高くなる。
「風邪を、元々、召しておられたのは、あの方で。もう……五日も、参内を……休んでおられるのですが」
「そうだったのか? 俺はてっきり、普段と同じように執務室に引きこもって、水晶で金髪ストーキングをしているんだと思っていたぞ」
「……あなたは、クラヴィス様を、ひどく、誤解しておいで、ですね」
 ひゅう、と、リュミエールのまとう空気の温度が、五度ばかり下がった。とはいえ、普段ならともかく、熱っぽい潤んだ瞳と鼻声とに責められても、痛くもかゆくもないが。
「そうか?」
「そうです……よ。あの方がどんなに……」
「あーリュミエール。俺に何かしてほしいんじゃなかったのか?」
 あまりよろしくない方向に話が向かいそうなのを察知して、オスカーは口早に軌道修正をかけた。この声で延々と喋らせるわけにはいかないだろう。
 あ、という顔になって、リュミエールはこほんと、一度咳払いをする。
「そう……でした。ですから、あなたに……クラヴィス様の、様子を、見に行っていただきたいの、です。あの方の、館では……クラヴィス様だけでなく、雇っている方たちもことごとく、罹患なさっていて、昨日伺ったときには、みなさんに休みを取らせておいで……だったのですよ。昨日は……私が一日、ついていられましたが……今日は、お一人で……どんなにか、心細くしておいでかと、思うと……っ」
 そういうところに日参していれば、誰だって移されるに決まってるだろうがと、オスカーは心の隅でため息をついた。ついでに言うなら、クラヴィスが独りであることを“心細い”と感じるとは、到底思えない。飲食時と手洗いに行くのには、多少困るだろうが。
「この……かごを、お渡しして、ほしいのです。クラヴィス様がお好きなライチと、私が用意した、ハーブで」
 リュミエールは抱えていた籐のかごを、彼に渡した。なるほどライチだったのかと、ナプキンを剥がしてオスカーは確認する。ビニール袋に入っている乾燥した草木類は、見た限りでは、カモミールの花、エキナセアの根、エルダーの花、ローズヒップス、紫はマロウで、赤い花はハイビスカスだ。それにヒソップとジンジャー、レモングラス。ミントはフレッシュで、束になっていた。彼がハーブといわれてもぴんとこない、かつハーブティーをあまり好まないのは、これら全てを薬草として把握しているためだった。解熱作用、殺菌及び抗菌作用、疲労回復、発汗促進作用に鎮静作用に整腸剤と咳止め。完璧に、薬である。こんなもんを、健康時になぜ飲みたい?
 持っていくのはいい。馬で行けば、往復でも四十分といったところだ。が。
「しかし、リュミエール。当主しか館にいなくて、その肝心の当主が寝込んでいるんじゃ、預けようがないぞ? 庭先に入り込むくらいならやってもいいが、病人を叩き起こすわけにはいかんだろう。いくら聖地が安全だと言っても、鍵を開けっぱなしにしていらっしゃるなんてばかな真似は、しておられないだろうし」
 オスカーはしごく当たり前の疑問を、口にした。リュミエールは潤んだ瞳でにっこりと、微笑む。
「それは、大丈夫です」
 億劫そうに、衣装の袖口から二本を一束にした鍵を取り出し、かごの上に乗せた。オスカーは、銀色に輝く鍵に見入る。
「これを使っていただければ……中に、入れます。表玄関と、それと、別棟の鍵と」
「へえ。合い鍵を預かっているんだ」
「いえ。これはその……いつでも伺えるように……作らせたの、です。夜半や早朝に、使用人の方をお起こしするのも……申し訳ありませんし」
「作らせたって……クラヴィス様は?」
「ご存じないかも……しれませんね。私も、申し上げていませんし」
 ちょっと待てお前、それは犯罪だぞ。
 オスカーは目眩を起こしそうになるのを、かろうじてこらえた。
「お願い……できますか?」
 リュミエールは再びうるうるとした瞳で、見上げてくる。
「無理にとは……もちろん、申しませんが……」
 ここで断れば、また館を抜け出すのは見え見えだった。その上、恨んでいないと言いながら、しっかりと恨む、いつまでも恨む、この男は。
 オスカーは、何でこんな奴を拾ったかなと後悔しつつ、頷いた。
「わかった。クラヴィス様の館へ行って、こいつをお渡しすればいいんだな? やってやるよ」
「ああっオスカー! ありがとうございます。あなたは……冷たいようでいて、本当に、優しい方ですね。大好きです」
 リュミエールは満面を笑顔にして、彼に抱きつく。
「そりゃどうも」
 オスカーは半ば投げやりに、言った。野郎が野郎に好きだなどと言われても、嬉しくも何ともない。
「ただ、今日は行けるが明日は無理だぞ。朝から外界に、視察に出ることになっている」
「ええ、ええ。わかっています」
 こくこくと、リュミエールは頷いた。
「それであの……実は、もう一つ、お願いがあるのですが」
 ばたばたとやってきた執事と警備員らしい男二人とに、真綿にくるまれるように支えられながら、期待に満ちた顔でオスカーを見つめる。
「なんだ?」
「クラヴィス様が、起きておいででしたら……その、これを……食べていただけるように……」
「わかった。何だったら、この薬……ハーブの浸出液も、飲ませておく。症状に合わせて適当にブレンドするのでいいな?」
 最後まで聞かずに、答えた。リュミエールはありがとうございますと礼を言い、昨日までのクラヴィスの熱がどうの咳がどうの鼻水がどうの、何を食べたか何がだめだったかを、ずらずらと話し始める。オスカーはそれを、中途できっぱり遮った。
「いいから、お前はとっとと寝ろ。クラヴィス様のことは、俺が一日看てくるから。その代わり、これで明後日戻ってきたときに、水の守護聖は参内を休みましたなんてことになっていたら、殴るぞ」
 叱りつけるように言うと、ようやくリュミエールは大人しく黙り込んだ。執事が深々と頭を下げて、礼を述べてくる。オスカーは苦笑混じりに「大したことじゃない」と告げ、後を頼んで水の館を離れた。