7月


16日
ローアル・アムンゼン(Roald Amundsen) (1872〜1928)ノルウェー 探検家

ノルウェー郊外に生まれ、少年の頃ジョン・フランクリンの「北極探検記」を読んで心をうたれ、極地の探検家になろうとこころざしました。

オスロ大学卒業ののち、捕鯨船などに乗って捕鯨船などに乗って航海に熟練し、1897年にベルギーの南極探検体に加わりました。これが彼の最初の極地探検の経験でした。

1903年からは帆船アユ号に乗って北極圏に入り、3年がかりで北西航路の発見に成功し、ベーリング海峡に達しました。その後、北極点横断を計画しましたが、アメリカの探検家、R・ピアリーの成功を知り、南極点への到達を目指して、1911年10月19日ノルウェーを出航、南極探検に出発し、ロス海からハーコン7世高原をたしかめ、1911年12月14日人類として最初に南極点に達しました。

1925年には飛行艇で北極探検を行い、これは成功しませんでしたが、1926年には飛行船ノルゲ号で、イタリアのノビレと共に北極海の横断非行に成功しました。

1928年ノビレ探検隊が北極探検で遭難した時、ノビレ救助のためにノルウェーのトロムセーを飛行機で出発しました。ノビレ達は無事救助されましたが、アムンゼンを乗せた飛行機は二度と帰っては来ませんでした。
以前紹介したスコット(6月6日)白瀬さん(6月13日)と合わせて読んでみられると面白いかもしれません。

7月


16日
ジャン・バティスト・カミーユ・コロー

(1796〜1875)

「自然こそすべての始まりである。」

フランスの画家 風景画の父

パリの洋服店の子として生まれました。ルーアン市の中学校を卒業してから、大学で2年間ほど文学の勉強をし、その後、両親の意志により6年間服地商となるべく修業しましたが適さず、幼い頃から得意としていた絵画制作の道に入ってゆきました。

彼が、画家になることを父親に認められ、当時のアカデミーの大家、ミシャロンのもとに弟子入りしたのは、26歳のときでした。その後、彼はミシャロンの「自然を良く見つめよ」という教えのほかには、ほとんど誰の影響も受けずに、自分の道を切り開いていったのです。

そして1827年に初めてサロンに入選してからは、作品がフランス政府の買い上げになるなど成功の道を歩みはじめました。彼の絵は、多くの人に受け入れられ、時の美術愛好家たちの間で特に人気を博したそうです。

彼は大家と言われるようになっても質素な暮らしを続け、その収入の多くは恵まれない画家たちのために使ったと言われています。ひどく人の良かった彼は、多くの人たちから、親しみをこめて「ペール・コロー」(コローおじいさん)と呼ばれ愛されました。

彼は、その長い一生を、おだやかに、ほがらかに、誰とも争わず、誰からも愛されて、ただ絵一筋に打ち込んで静かに過ごしました。死の床で彼は、「私は空の描き方を知らなかったようだが、今、人に見せたいほどの素晴らしい空を見ている。それはバラ色で深みがあり、透き通っているのです」と言い、そして、「もう朝ご飯はいらないよ、コローおじいさんはあっちへ行って食べるから」そう言って静かに息を引き取ったと言われています。

彼は、「風景画の父」と言われていますが、人物画にもすぐれており、代表作に「踊るニンフ」「アラスの道」「書を読む女」「朝」「イタリア風景」等があります。
彼に関する笑い話で「コローは生涯に2千点の油絵を描いた。そのうち5千点はアメリカにある。」というものがあるそうです。この話は、お人よしのコローが貧乏な若い画家たちの作品に少しだけ手を入れて、自分のサインを入れて経済的に助けてあげたことによるものだそうで、実際に彼が残したとされる作品の数倍もの絵が世界中を飾っているそうです。

彼は、たとえ、主義が違っていたとしても、恵まれない画家達を援助し続け、多くの画家達に父親のように慕われていました。


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