6月


13日
白瀬 矗(のぶ)(1861〜1946)

日本 探検家

現在の秋田県金浦町で400年以上歴史のあるお寺(浄蓮寺)の長男として生まれました。生まれついての暴れん坊で、何事にも物怖じしない冒険心に富んだ少年でした。8歳のとき、近くの蘭学に通じた佐々木節斎という医師が開いていた寺子屋に入門し、そこで読み書き、ソロバンだけではなく、西洋の新しい知識を教えられました。

節斎は、子どもたちによく、コロンブスの新大陸発見、マゼランの世界一周などの話をしたそうです。彼はその環境もあってか、やがて、真剣に北極探検の夢を描くようになりました。

彼は、北極探検の志を遂げるには軍人になるのがいちばんだと思い、郷里の秋田を離れ上京し、陸軍教導団に入団します。 陸軍教導団を卒業したあと、軍務に就くかたわら、北極探検への準備として、越冬経験を積むために二回も千島列島へ探検にでかけています。

しかし、彼にとっての本願である北極探検は、なかなか具体的な道が開かれませんでした。そして、明治42(1909)年、アメリカの探検家ピアリーが北極点を踏破するという衝撃的な事件が起こりました。

彼の夢は消滅してしまいました、が、このことが彼の目を南極に向けます。四八歳での、新しい決意でした。しかし、その年の秋、イギリスのスコット大佐が南極探検計画を発表。翌年6月に出発するというニュースが入り、彼は、急遽、翌年1月の帝国議会に、南極探検計画書を提出しましたが援助はしてもらえず、結局、新聞各紙に経費の募金記事と隊員の募集記事を載せてもらい、大隈重信を会長とする後援会や多くの民衆のサポートで隊員29人は、わずか200トンあまりの木造船「開南丸」に乗って出発します。

明治43(1910)年、南極点到達は、イギリスのスコット隊と、ノルウェーのアムンゼン隊との三つ巴の競争になりました。白瀬隊は、2台の犬ソリで南極点を目指したましが、残念ながら猛吹雪にはばまれ2日目で撤退を余儀なくされてしまいました。

彼は、同年1月28日正午の到達点に日章旗を立て、その周辺を「大和雪原」と名付けて1人の死傷者もなく帰国します。隊員は提灯行列の大歓迎を受け、日本中が、その壮挙にわいたといわれています。51歳での夢の実現でした。

彼は、昭和21年9月4日に85歳の生涯を閉じましたが、彼の後半生は、南極探検で負った4万円(現在では約2億円)の借金の返済に終始したといわれています。

白瀬隊が踏破した南極ロス棚氷の東岸には、いまもシラセコースト(白瀬海岸)の地名がつけられています。
彼は幼少の時、「十歳の時、キツネ狩りをして左の肩に噛みつかれ、十二歳の時、オオカミ退治をして大怪我をし、十三歳の時、観音堂の屋根のてっぺんから墜落して気絶」(『南極探検』より)するような日々を送っていたそうです。
彼の夢を知った節斎は、以下のような北極探検のための“五つの戒め”を彼に話しています。
「一、酒を飲むべからず。二、煙草を吸うべからず。三、茶を飲むべからず。四、湯を飲むべからず。五、寒中でも火にあたるべからず」
白瀬は死ぬまでこの戒めを実践しつづけたといわれています。少年の時から、彼は真剣に考えていたのです。 
彼は18歳のとき、名前を「矗」と改めています。(「のぶ」と読みます。)
彼は、その改名の理由を、自著の『南極探検』で次のように語っています。
「人間は目的に向かって剛直に、まっすぐに進むべきものである。まして自分は今、目的の第一歩をやっと踏み出したばかりである。初心を貫くには、普通の人の二倍も三倍も頑張らねばならぬ。だから、普通の人なら直の字が一つでよかろうけれど、わしはバカがつくような人間だし、何事も目的は大きくもつほうがよい。そこでわしは直の字を三つもつけたのだ……」 と
白瀬隊の船は、そのアムンゼン隊から「こんな小さな船でよくここまでやってこられたものだ」と感心されていましすが、この木造船で彼らは西経一五一度三○分、南緯七六度○六分という両隊を抜く地点までの回航に成功しています。
帰港した白瀬矗は日本各地からの依頼に応じ、探検の様子を講演して回ったが2〜3年もすると依頼もなくなり、
その後は故郷の金浦町へ帰り生活しましたが、その生活は借金の返済のため決して裕福なものではなかったそうです。


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