6月


6日
ロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott)イギリス 南極探検家

デボンシャー州で生まれました。その後、父のすすめで1888年に海軍に入り、1901年に南極探検隊の隊長としてディスカバリー号で南極に行き、エドワード7世ランドを発見したほか、南極内地やロス海を測量し、南極の科学調査を行いました。凍傷と壊血病により、南極点への到達は断念したものの、初めて南極大陸の奥深くまで踏み込んだ探検は高く評価され、帰国後、彼は海軍大佐に昇進しています。

1910年彼は再び南極に向けて出発しました。今度は科学調査と共に、南極点に到達することも目標でした。他に南極に目を向けている探検家はいなかったので、一番乗りの栄誉は、当然彼らのものになるはずでした。

しかし、アメリカの探検家ピアリーが、北極点に到達したため、同じく北極を目指していたノルウェーの探検家、アムンゼンは、急遽、南極点到達に目標を転換します。アムンゼンからの電報で、南極を目指すのが自分たちだけではないと知ったスコット隊は、以後、アムンゼン隊とデッドヒートを繰り広げることになります。

そして、スコット隊が、やっとの思いで1912年1月18日に南極点に到達したときに見たものは、前年12月14日に、既に一番乗りを果たしたアムンゼン隊が残した、ノルウェーの国旗でした。

スコット隊5人は失意のうち、帰路に就きましたが、途中、猛吹雪に遭遇し一歩も動けなくなり、燃料、食糧が尽き全滅してしまいました。

仲間が絶命していくのを見守るスコットの手記は、3月29日で途絶えています。

大量の燃料と食料を用意している基地まで、あとわずか18キロというところでした。

南極について最初の科学的調査をした功績は高く評価されています。
ここは恐怖の場所です。せめて初到達という栄誉でもなければ (スコットの日記より)

スコットの日記の最後には、こう記されていたそうです。

我々は最後までがんばるつもりだが、体が弱りつつある。だから、最後の時も、そう遠くはないだろう。残念だが、これ以上書き続けることができない。
最後に、我々の家族のことを頼みます

もし初到達という栄誉があれば、彼らは生還できただろうと言われています。
アムンゼンとスコット隊の両方の装備は、あのチェック柄で有名なブランド「バーバリー」でした。
このとき、ほぼ同時期に3人が、南極点到達を目指して鯨湾のロス棚氷から上陸しています。
 イギリスの スコット、ノルウェーのアムンゼンそして、日本の白瀬である

最初に南極点に到達したアムンゼンは10台のソリを52頭の犬に引かせて出発。途中、アムンゼンは荷物が軽くなるごとに、弱った犬から射殺して食料にし、往復約3000キロを98日間で走破。帰ってきたときには犬が11頭になっていたそうです。

スコット隊は馬に荷物を引かせて出発し、途中にデポを設置しながら進みました。彼もまた馬を最終的には食料にすることを考えていました。しかし、馬は犬ほど役に立たず、いよいよ山越えというときに最後の馬もクレバスに落ちてしまい、アタック隊の5人は人力でソリを押して極点を目指すことになった。

そして、日本の白瀬ですが、彼は期待していた日本政府からの援助が受けられず、大隈重信らの援助で出発することになりました。もしこのとき日本政府が白瀬に資金を与えていたら、白瀬が世界初の南極点到達を果たしていたかもしれないといわれています。その理由は、白瀬の犬達で、他の隊の犬と比べて良く訓練されており、9日間で300キロ近く走ったといわれています。
犬の話
タロ&ジロの物語で有名になりましたが、宗谷によって連れ帰られたカラフト犬達は、南極探検から生きて本国に帰った世界初の犬だそうです。それまで、すべてのソリ犬達は南極で食料となったり、殺されたりと無残な一生を終えていたそうです。

ちょっと不思議な話
第一次越冬隊で犬の世話係をやっていた隊員が、犠牲になった犬達の銅像の除幕式に呼ばれたときのことです。そのとき、その隊員は犬達の名前を次々に呼び、13頭目までスラスラ名前を言えたのですが、最後の2頭をどうしても思い出せなくて、13頭目まで呼んだあと「・・・安らかに眠れ」と結んだそうです。言うまでもなく、思い出せなかった2頭の名は、もちろんタロとジロでした。


   トップページに     今日生まれの偉人伝に