《Rock'n roll 6》
「都会の中のローカル線」とでもいうべきマイナーな路線が、どんな街にでもひとつはあるはず。 「Top&Bottom」は、そんな路線の終着駅の近くにあった。
最近でこそ見かけないものの、数年前までは木の電車が走ってた。平べったいホームに降りれば、古びた車庫が夕焼けに映え、ペンペン草の生えた線路が広がる。電車で1駅走れば、ばかでかいビルが立ち並ぶ大都市。珠美は昔から、このポコっとした空間がとても好きだった。
地上げ屋にバッテンで封印された、さびれた家が並ぶ下町の界隈を抜けると、忽然と現れるヒッピーの集落のような小さな街がある。珠美は昔ここに住んでいて、近くの中古レコード屋でバイトをし、ボロスタジオでゴキブリといっしょに練習したり、「Top&Bottom」でライヴをやったりしてたわけだ。こんなところまで来たのは何年ぶりだろう。昨今のバンドブームのおかげか、ストリートは昔より幾分にぎやかで、若い子が増えてるみたいだった。道ばたにテントを張ってフリーマーケット。ギターケースを前に広げたバスカーの中には外人もいる。ロンドンのカムデン・タウンを思い出すような光景。陽も落ちかけて空気は少々寒かったが、珠美は屋台でコロナビールを買った。
角を曲がると、街の真中を流れるよどんだ河にぶちあたる。コンクリートで固められた両岸に、誰が乗るんだかわからないボロボロのボートがつながれていて、頭の上には高速が走る薄暗い空間。橋を渡った片っぽの岸に、ちょうど船のデッキに見えるような小さなテラスが作りつけてあって、ポコポコと開いた丸い窓と、テラスにひっかけられた鉄の錨やしましまの浮き輪が、なおさらそれを浮かんだ船みたく見せている。船から下りていく階段が入り口になったその店が、20年近くこの街の象徴となっている「Top&Bottom」というライヴハウスだった。
橋の前に止まっているのは、パステルピンクのワゴン。落書きみたいな文字で書きなぐった、「Feather Cats」の文字。ギターケースを抱えて降りてきた女の子には、見覚えがあった。くしゃくしゃの茶色い髪に、褪せたジーンズのタイトスカート、女の子とはいっても、もう30近くにはなってるはず。昔、スモーク・オン・ザ・ウォーターのリフを教えてくれた「Feather Cats」のギタリストは、珠美に気づかず通り過ぎてしまう。
中に入るとロバート・ジョンソンが流れていて、あちこちにたむろってる男の子や女の子たちは、意外に若い。珠美はまるで初めてライヴハウスに来たときのようにどきどきしながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
不意にパンフレットを差し出されて、彼女は我に返る。表紙一杯に猫の顔がにんまり笑うそれは、薄べったいコピー版だった。
「良かったら、CDも買って行ってくださいねー」
珠美が顔を上げて答える間もなく、声の主は向こうへ行ってしまう。
パンフレットと同じ、チェシャ猫のバッジを短いGジャンにべたべたくっつけて、自主制作らしいCDが入った大きな籠を抱えたその姿を、珠美はまじまじと見た。花柄の長いスカート、ルーズに編み込んだ髪、以前よりは大人びて見える横顔・・・・・。
珠美は彼女に近づいていって、ぽんと背中を叩く。
いぶかしげに振り返ったその顔に、驚きの表情が広がった。
「うそ・・・・タマじゃない。どうしたのよ、こんなところで」
以前と変わらない笑顔。彼女は珠美の昔の遊び友達、もうすぐ見合いして結婚するはずのまー坊の元彼女、カンちゃんだった。
「びっくりだわ。カンちゃんが『Feather Cats』に入ってるなんて、まさか思ってなかったから」
珠美は言った。こうやって橋の手すりにもたれ、ふたり並んでビールを飲んでいると、なんだか時間の感覚がおかしくなりそうだと思う。こんな風に出番を待つカンちゃんといっしょに、ビールを飲みつつ話をしつつ時を過ごしたことが、かつては何度もあったから。薄闇に飲み込まれそうな深い緑色の川面にライヴハウスの看板が映ってきらきらと揺れる。建物からは、前座のバンドの音が、かすかに聞こえてくる。
カンちゃんは笑って答えた。
「前のボーカルの子がやめたの。結婚して、しばらくは続けてたんだけど、ダンナが転勤になって・・・。私も前のバンドが解散してからずっとヒマで、それで声がかかったってわけ。歳とると、この世界もどんどん狭くなるからね。メンバー探すのも大変みたい」
「カンちゃんは? 結婚したんじゃなかったの?」
なんとなく答えはわかっていたが、聞いてみる。
「あー、まー坊に聞いた? 実家に帰って見合いすることはしたんだけどね。やっぱ無理だわ、私には」
その言葉だけで、わかりすぎるほどわかってしまう。やっぱりこの子は友達だ、なんていうか、同じ言葉で話せる。
珠美の胸に、懐かしいような切ないような気持が、広がってゆく。
新生ピンキング・フィッシュのボーカリストとして、そしてまー坊の新しいカノジョとして、その女の子を紹介されたのは、朋久といっしょにアメリカから帰ってきたばかりの頃だった。だからってわけじゃないのだろうけれど、自分の後釜にちゃっかり納まっていたカンちゃんに対して複雑な気持を抱くことはなく、むしろ意気投合して、あっという間に親友になってしまった。
同じ相手を好きになるだけあって、どこか通じるものがあったのか、あるいはまー坊の好みに一貫性があったってことなのかもしれない。彼女ほど魂の近い相手に、後にも先にも出会ったことがない、といえるほど。 特に共通していたのは、男のことなんかでせっかくの出会いをムダにするほど、あたしたちはヤワじゃない、っていうプライド。珠美とカンちゃんはあの頃いつもいっしょにいたし、付き合っているまー坊とカンちゃんはもちろんのこと、珠美とまー坊も「友達として」いっしょに遊ぶことは多かったけれど、3人でつるむことは絶対になかった。だってまー坊をいい気にさせたくなかったから。なかなか骨のある女の子たちだったのである。
そして珠美は、カンちゃんのそんなタフなところが大好きだった。
結婚してからの珠美はすっかり出不精になってしまって、なんとなく何年も会うことがなかったのだけれど。
「タマはどうしたのよ。もうすっかり落ち着いて奥さんしてるって思ってたのに、ちっとも変わってないじゃないの」
変わってない・・・その何気ない言葉がうれしい。珠美は少し顔を赤くして答えた。
「奥さんしてるよ。ここへ来たのも、何年かぶり」
冷たい風が、川に映った光をぐしゃぐしゃとかき回して吹き過ぎて行った。ふと、自分が今立っている場所の心もとなさを感じ、珠美は少し身震いする。そんな様子に何かを感じたのか、カンちゃんは静かに聞いた。
「何かあった?」
珠美は素直にうなずいた。もう何年も会ってない相手と、こんな風に自然に話ができることを自分でも不思議に思いながら。
「ちょっと、混乱してる。自分がどこへ行きたいのか、何が欲しいのか、わからなくて」
前後の説明も何もなく、そんな言葉だけを聞かされても普通は戸惑うだけだろうに、カンちゃんはきちんと理解できている風にうなずいた。
「タマは、マジメだからねー」
笑顔と共にそう言われ、そのシンプルな言葉に、ちょっと救われたような気がした。
そうかもしれない。何も考えずに突き進むことができない。いつもどこかで立ち止まり、考え込んでしまう。これで良かったんだろうかって。マジメだから? でもそれって、もしかしたら自分だけじゃないのかも知れない。
どう見てもデビューを単純に喜んでる風じゃなかった、まー坊の複雑な表情を、彼女は思い出した。
「カンちゃんも、迷うことある?」
「あるよー。迷ってばっか。彼氏と別れて、田舎に帰って、お見合いまでしたのにやっぱり落ち着けなくて、結局ここにいるんだもの。何やってんだかって思う。まー坊ほど情けなくはないけどね」
「まー坊?」
「毎日電話かかってくる。『俺、このまま流れに乗っちまっていいんだろうか』なんて情けないことばっか言って。別れたって自覚あるのかな」
「ないと思うよー、それ」
珠美は思わず吹き出しながら、答えた。ほんと、情けないやつ。でも、そういうものなのかもしれない。
「あの子、ひょっとしたら帰ってくるんじゃないかな。根性なさ過ぎだもん。そうしたら、より戻そうかなーなんて思ったりして。あたしもしょうがないよね」
ああ、みんなそれぞれに、それぞれなんだなと思う。いろいろあるのも同じ、悩むのも、迷うのも同じ。
歩く道が違ったって、それは変わらないことなのかもしれない。
近況を聞かれ、子供ができたことを話そうとしたとき、バンドのメンバーが「もうすぐ出番だよ」とカンちゃんを迎えに出てきた。珠美もよく知ってるドラムスのその子は、彼女の顔を見て目を真ん丸くする。
「ひょっとして、タマ?」
やだー、来てるんなら言いなさいよ。どうしてんの?今。いいから楽屋に来なさいって、みんな喜ぶよー。
来てよかった、と思う。言われるままに懐かしいメンバーの集う楽屋へ行き、嵐のような歓迎を受けながら、珠美は驚くほど心が軽くなっている自分に気づいていた。
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