《Rock'n roll 5》







「そっかあ、やっぱ、そうだったんだ」
 ダンナが会社から帰って来るのを待ちかねていたかのように、病院での検査の結果も大当たりであったことを話す珠美の言葉を、朋久は少しばかり受け止めかねるような複雑な表情で聞いた。
 今朝、妊娠検査薬の赤丸を見せられた時点で、まあほぼ決まりだろうなと覚悟はしていたものの・・・・。

 まあ、子供ぐらい作ってもいいかも知んないな、と、夫婦して考えるようになって3年。
 3年たって、ようやく・・・・なのだから、喜んでもいいはずだった。
 でも、もともと子供好きとはいえないふたり。子供を持たないなら持たないなりの人生設計というものが、すでに彼らの中には確固として出来上がりつつあったわけで。
 そして困ったことに、そんな人生の方が自分たちにとっては断然、しっくりくる、そんな風にふたりとも思うようになっていた。欲しくても子供を持てない人たちには怒られてしまいそうな話だけれど、要するに、今回のことはふたりにとって、まさに青天の霹靂でしかなかったわけだ。

 しかしとりあえず、ここは大人にならなくては、と、朋久は口を開いた。
「で、でも良かったじゃん。俺、ずっと上司やら取引先やらからいろいろ言われててさ、これで言い訳しなくてもいいと思うと、ほっとするよ」
 この言葉に珠美は一瞬、ムッとする。当たり前である。
 私はあんたの上司のために子供を産むわけじゃない!!そう言いたかったが、黙っている。自分よりずっと頭も回れば口も立つこの男にあれこれ言ったところで、よけい悔しい思いをするはめになるのは経験上わかっているから。
 その沈黙をなんと思ったのか(たぶんなんとも思ってないのだろう)、夫はさらに墓穴を掘ることになる。
「3ヶ月かあ、じゃあ7月のレゲエフェスは無理だな。なんせ炎天下だもんな。チケット取っちまったし、しょうがねえから会社の誰かでも誘って行くことにするわ」
 え・・・・?と開きかけた口が止まり、珠美は思わず呆然としてしまった。
 レゲエフェス、めちゃくちゃ楽しみにしてた。やっぱり、行かないのが常識ってもんなの?そういうものなの?しかもこの男、自分だけはしっかり行くつもりをしてやがる。
 珠美はキレた。ただ単に行けなくて悔しいとか、ダンナだけずるいとか、それだけのことじゃない。
 変わらなければいけないのは私だけ、子供ができたって、朋久の生活は何ひとつ変わらない。そのままでいようと思えば、いくらでもそのままでいられるのだ。そんな事実を早くも思い知らされたような気がして。
 にぶい夫は、いつのまにやら口を聞かなくなった妻の沈黙に、ようやく怒りのオーラを感じとる。
 あー、また、やっちまった。しかし気づいたときにはたいてい、時すでに遅し、であったりする。


 翌朝、ストライキを決行して布団から出なかった珠美は、昼過ぎになって、ようやく起き出した。
 実際、なんだか眠くてしょうがないのは、ツワリの始まりというやつだろうか。自分の身体がこれからどうなってゆくのかと思うと、憂鬱になる。まだまだ彼女は、そういった変化を楽しめる心境にない。
「ほんと、面白いわよー。身体がどんどん変わっていくんだもの。しかも笑っちゃうぐらい本に書いてある通りだし。あれほど面白いイベントってなかったわ」
 数年前にそんなことを言ってたのは、フリーター時代の先輩だ。パティ・スミスばりのほっそりとした体と中性的なイメージ、電車で子供が騒いでたりすると、露骨に嫌な顔をするようなヒトだったのに。
 あらためて不思議だと思う。ついこの間までいっしょに夜通し騒いだり、バンドをやったり、彼氏を取り合ったりした女の子たちが、いとも簡単に軽がると壁を飛び越え、「お母さん」になっていくのを、ここ数年、珠美は遠巻きながらいくつか目にしてきている。「ガキほどうっとーしいものはない」なんて言ってた先輩も、年賀状の写真の中でやんちゃそうな子供たちに囲まれて心底幸せそうだった。
 なんでそんな風に変われるんだろう、と思う。
 彼女たちにも今の自分のように、「何か」を失ってしまう焦燥感に苛まれた瞬間があったりしたのだろうか。それまで自分の住んでいた世界と、「母」というもののイメージのあまりのギャップに、ひどい抵抗感を覚えたりしなかったんだろうか。
 珠美は今、フェンスの上にいる。もう登ってしまったからには、あちら側に飛び降りるしかない。
 あれこれ考えず、「えいっ!!」と飛び降りてしまえば、どうにかなるのだということを、今の彼女は知る由もない。
 どうにも力が出なくて、彼女は枕もとに置いたMDのスイッチに手を伸ばす。とたん流れ出す、ポール・マッカートニーの淡々と切ないほどの優しい声。『Another Day』、いつもと同じ毎日。
 いったい自分は、人生に何を望んでいるんだろう。昨日と変わらぬ穏やかな今日を過ごすこと? それともあらゆるものから自由でいること?
 自分でもわからなくなって混乱し、彼女はなんだか泣きたくなる。
 そろそろ仕事を探そうと思っていた。ついこの間までやってたビデオ屋でのバイトは、店がつぶれてダメになったけれど、それなりにやりがいのある仕事で、毎日充実してた。また似たような客商売の仕事を見つけて、稼いだお金で好きなCDを買って、残りのお金は将来のために貯金して、そんな風に自由と安定のバランスをとりながら、上手く生きているつもりでいたのに。そうやって、日々は続いてゆくはずだったのに。
 それはあくまで、朋久の妻の座にあっての安定と自由に過ぎない。そんなことに、今さらのように気づく。

 
 虫が知らせた、というのだろうか。
 山積みの仕事をむりやり片付け、(いくつかは放り出し)、どうにか8時過ぎに帰ってくると、やっぱり、というか、ガックリ、というか、部屋は空っぽだった。
 こんな時間に買い物、ってわけでもなかろう。要するに、出て行ったのだ。荷物をまとめて、というほどの様子でもないらしいのには安心したが、何せ、普通の身体じゃない。いったいどこへ行ったのか、さすがにそれだけは少し心配になる。とりあえず気持を落ち着けようと、冷蔵庫からビールを出した。なにかつまみになるものも欲しくて、冷凍庫の枝豆をレンジで解凍した。
 そのままダイニングテーブルに落ち着いて枝豆をつまみに手酌酒、女房に逃げられた亭主の味気なさをしみじみ味わいながら、朋久とて考えることはあれこれある。
 まずったな、と思う。自分がいかに無神経なことを口走ってしまったか、あれからひとことも口をきかず、今朝も起きてこなかった彼女の反応を見ずともわかっている。もともとがお坊ちゃん育ちというのか、彼はのんびりして気の良い反面、他人の気持に鈍感なところがあった。自覚はあるから普段気をつけてるけど、ああも動揺してしまうと、どうしようもない。どうしてあんな風に突き離してしまったんだろう。
 彼女が自分に求めていたのは、常に寄り添って在ることの安心感だったと思う。自分に出会って以来、彼女は一度も歌わない。彼自身、かつてはジャズピアノにのめり込んだことがあり、今はまったく弾いてない身だからなんとなくわかるのだけれど、歌い続けるというのは、かなりきついことであるに違いない。彼女の歌は何度かテープで聴いたことがある。なんていうか、ずい分とひりひりしたものを感じさせる声だと思った。何かを犠牲にせずには出すことができない、そういった声。
 ニューヨークのセントラルパーク、いつも決まった時間に同じベンチに腰掛け、ぼんやりとしていた彼女は、何かを出し切ってしまったような、からっぽの表情をしていた。からっぽの心を抱え、途方に暮れている、そんな様子だった。放って置けなかった・・・それが、朋久が珠美を「拾った」理由。
 それなのに、夫婦を長くやっていると、どうしても甘えが出てしまうのか・・・肩を並べて歩くことを望んでいる彼女に、あっさりと「男と女の立場の違い」という溝を引いてしまった。一瞬のことにせよ、「母である」ということの壁に彼女を囲い込み、自分はさっさと出て行くようなことをしてしまった。歌を捨ててまで、彼女が大事にしたかったのは、そういうことじゃなかったはずなのに。
 それが自分の本意ではなかったことを、珠美がわかっていてくれればいいと思う。まったく、俺もしょせん男だよな。
 だいじょうぶ、自分の身体のこと、自分の中にいる豆粒ほどの生き物のことを、あいつがわかってないはずがない。そう信じて待っている他はない。朋久は2本目のビールを取りに、冷蔵庫へと立った。

 朋久が帰ってくる数時間前のこと。
 どうしても今日中に振り込まなければいけないものがあることを思い出し、珠美はどうにか家を出た。銀行でついでに記帳してみると、前のバイトのお給料が、思ったよりたくさん入ってた。
 それがいけなかったのかもしれない。
 近くの本屋に入り、いつもの習慣で「ぴあ」を立ち読みした。ライブハウスのページに、あまりにも懐かしいバンド名を見つけた。『Feather Cats』、ライヴハウス『Top&Bottom』で、今夜7:00から。
 それもいけなかったのかもしれない。
 そっかあ、あいつらもまだ、頑張ってたんだ。何度かライヴでいっしょになり、打ち上げで騒いだ女の子バンドの面々を、ぼんやりと思い出す。BBキングに、マディ・ウォーターズ、女だてらにガリガリのブルースをやってた彼女たち。あたしたちはブルースが好きだからって、オリジナルも作らず、プロになる気もさらさらなくって、みんな会社勤めしながらがんばってたんだっけ。
 久しぶりに見たい気がするなあ。
 あらゆるあせりやイラ立ち、むしゃくしゃする思いが、彼女の胸からすーっと消えていった。行こう、懐かしいあの場所へ。
 また逃げるつもりなの? 小さな声が、心のどこかで聞こえた気がしたが、無視した。珠美は近くの駅からふらっと電車に飛び乗り、それきり何もかも忘れてしまった。
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